坑夫

夏目漱石の「坑夫」というのを高校生のころに読んだが,あまり有名な小説でないので,それ以来見かけたことがなかった.漠然とどこかの炭坑のようなものを想像していたのだが,青空文庫で読み返してみると,この東京から北の方へむやみに歩いて松原が延々と続くというのは,どうやら川越街道の描写のようだ.とくに「松原が延々」というのは志木から川越の手前あたりのことに違いない.川越街道は「栗よりうまい十三里」で東京から 52km だから,夜通し歩けばだいたい三芳町あたりまでくるだろう.もしかして夜中に寝た八幡様というのは上福岡の鶴ヶ岡八幡神社だったかもしれん.

板橋街道というのが出てくるが,これはつまり中山道のことだが,これとは別もののようだ.中山道とは別に北へ行く街道と言えば,あとは水戸街道があるが,水戸街道や中山道は川を越えたり田圃を過ぎたりしてわりと変化がある.その点,川越街道は,志木を過ぎて柳瀬川をわたってからはほとんど何も変化がない.まず間違いないだろう.

さらに行くと,牛込神楽坂のようににぎやかで,東京と同じふうな人がいる町で,汽車のステーションがあるというところにでる.これは川越のことだろう.

それから汽車で足尾銅山に向かったとある.川越から足尾銅山へはずいぶん乗り換えがあるが,まあともかく,川越街道あたりで若者を勧誘して足尾銅山につれていく商売をしていたというのは大いにあり得る.

宮崎駿全発言

アニメージュ「宮崎駿全発言」というのを読む.
確かに子供が毎日三回「トトロ」を見てはいかんような気がするな.
しかしそういうことを言えば「お母さんといっしょ」や「セサミストリート」もいかんと思う.
人間は偶像がとてつもなく好きな生き物だから.
ぬいぐるみとか人形とかアニメのキャラなどはすべて業の深いものなのだ.
宮崎駿は,それを子供の教育の話にすり替えてしまっている.
昔の人間の方がより現実に近く,現在の方がよりバーチャルなのか.
そうとは言えまい.昔の方が人類は強く宗教や迷信や妄想に支配されていた.
貧困や病苦や死に翻弄されていた.
教育を受ける機会も少なかった.
たとえば藤原氏がのめり込んだ浄土思想を見よ.
あの平等院鳳凰堂の狂気狂信を見よ.
いま子供が毎日三回「トトロ」を見ているのとどこが違うのか.
では貴族でなく農民の子供として毎日ただ生きるために働いた方が幸せだっただろうか?

昔の子供は自然の中でのびのびと育った,というのも何か嘘臭い感じがする.
昔の子供も都市に暮らせば自然など知らないし,
今でも田舎で暮らせばいくらでも自然はあるはず.
宮崎駿は中世や神話や自然などを過度に美化していると思う.

縄文人の遊び

水子貝塚公園に行くと子供らが竪穴式住居によじ登って遊んでいた.
下から別の子供がボールをぶつけていた.
やがてみな屋根のてっぺんに並んで座り,
父親とおぼしき男がボールをなげつけていた.
昔の縄文人もこうやって遊んでいたのだろうか….

煮詰まったので聖書を読む.
サムエル記下6:19 に「輪形のパン」というのが出てくる.
これはもしかしてベーグルのことか.
文語訳では単に「パン」.
ヘブライ語ではパンは「レへム」,しかし安息日に食べるパンは「ハラー」というらしい.
ところが「ハラー」で検索すると「蜂蜜入り三つ編みパン」とか出てくる.
謎は深まる.

レビ記2:4に

> 献げ物をかまどで焼いて穀物の献げ物とする場合は、酵母を使わずに、
オリーブ油を混ぜて焼いた上等の小麦粉の輪形のパンか、
オリーブ油を塗った酵母を入れない薄焼きパンとする。

とあるが,これは
ベーグルとピタ
に相当するように思われる.

ダビデのことを「エッサイの子」などというが,
これはオサマ・ビン・ラディンをビンラディン(ラディンの子)と呼ぶのと同じか.
他にも
「アヒトブの子アヒメレク」
「アヒメレクの子アビアタル」
など用例多し.

聖書

煮詰まったので聖書を読んでいた.
サムエル記上(新共同訳)

> 18:25 サウルは言った。「では、ダビデにこう言ってくれ。『王は結納金など望んではおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだ』と。」サウルはペリシテ人の手でダビデを倒そうと考えていた。 18:26家臣はダビデにこのことを告げた。ダビデはこうして王の婿になることは良いことだと思い、何日もたたないうちに、 18:27自分の兵を従えて出立し、二百人のペリシテ人を討ち取り、その陽皮を持ち帰った。王に対し、婿となる条件である陽皮の数が確かめられたので、サウルは娘のミカルを彼に妻として与えなければならなかった。

むう.「陽皮」とは?(笑).
広辞苑にも載ってないのだが….

> 19:19ラマのナヨトにダビデがいる、とサウルに告げる者があり、 19:20サウルはダビデを捕らえようと使者を遣わした。彼らは預言者の一団が預言しているのに出会った。サムエルが彼らの先頭に立っていた。神の霊はサウルの使者の上にも降り、彼らも預言する状態になった。 19:21サウルはこの報告を受けて、他の使者を遣わしたが、彼らもまた預言する状態になった。三度、サウルは追っ手を送ったが、彼らもまた預言する状態になった。 19:22ついに、サウル自身がラマに向かい、セクの大井戸まで来て、「サムエルとダビデはどこにいるのか」と尋ねた。「ラマのナヨトです」という答えを聞き、 19:23サウルはラマのナヨトに向かってそこを去ったが、彼の上にも神の霊が降り、彼は預言する状態になったまま、ラマのナヨトまで歩き続けた。 19:24彼は着物を脱ぎ捨て、預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れていた。このため、「サウルもまた預言者の仲間か」と人々は言った。

むむう.「預言をする状態」とは?

吉野作造評論集

さて連休なにしよう.和辻哲郎の「古寺巡礼」を読んで一瞬奈良に行きたくなった(笑).しかし仕事もたまってるし.思いつきで旅行すんのはやめよう.

「吉野作造評論集」とか読むと,メキシコ革命の話が出てくる.

アメリカとメキシコの関係はイギリスとスペインの関係に似ている.もともとイギリスはスペインよりも優れた国であるが,アメリカはイギリスの中でも一番(金銭的というよりは道徳的に)優れた人たちが移民した国であって,一方メキシコはスペインのならずものたちが移民した国である.さらにアメリカ人は家族で移民したがメキシコ人は独り者で,守るべき貞節も規範も何もないので,土人との混血がたちまちにして進み…,

故にアメリカでは民主主義がきわめてうまく機能しており,その政治システムをそのままそっくり借用したメキシコでは革命や内戦で国民は塗炭の苦しみを味わっている.

というのだ.あの吉野作造ですらこのいいぐさである.言いたいことはよくわかるが.
昔は西洋人も日本人もずいぶんと差別的なものの考え方をしたのだな.というか吉野作造の言ってることは単なる WASP の受け売りなのかもしれぬ.

DVD の字幕

だんだんいらいらしてきたのでガンダム DVD の字幕を消したいのだが消せない.英語字幕にすることはできたがフラウボウが MeiMei になってたり,シャアが Masha になってたり….これって広東語から英語に訳してないか.なんか拙い英語だよなあ.主語が省略されたりしてるしなあ.もしかしてこれって海賊版?

いや,もしかしたら香港ローカル版なのかもしれない.香港人は広東語も英語も話すし,香港ネイティブ英語がオーソドックスな英語である必然性もないわけだ.

アムロは Yabao,ガンダムは Gaoda.ブライトは広東語名が「布」で,英語名は Mr. Bu になってた.いやはや.「了解」は I see ではなく Roger! とか Yes, Sir! とかじゃないのか.「いきまーす」は Action! とか言ってたが,空母から離陸するときにはなんていうのか. Take off! かな. Ready, Go! かな.

いかんいかん.なんかヒマ人と思われてしまう….

初代ガンダムのDVDを見る.

なぜか中国繁体字字幕.フラウボウがなぜか「美美」とか呼ばれている.ガンダムは「高達」.二十年ぶりくらいに見てみると新たな感動がある.アニメーション技術的にはきわめて稚拙だが,それなりに手をかけているようにも見える.ストーリー展開のなんとみごとなことか!

フラウボウの家族がみんな死んでしまう.アムロのお父さんは宇宙に吸い込まれる.なんかとても残酷で衝撃的だ.

シャアはいつもこむつかしい独り言ばかり言っていて違和感ある.

革命児サパタ

シェンムー2.少しおもしろい.

「革命児サパタ」というのを見た.すこしおもしろい.メキシコの歴史についていかに無知だったかを知る.革命とか戦争でもメキシコ人は常にソンブレロをかぶっていてユーモラスだ.公平にみえる.しかし,アメリカ人の視点で作られたものには違いない.メキシコ人ならもっとアメリカ資本を呪うに違いない.

「ジェロニモ」というのを見た.少しおもしろい.白人はいくら殺してもつぎから次に涌いてきた,ということなのだろう.農業と産業革命の勝利というべきか.

「アパッチ砦」というのもみた.超つまらない.途中放棄.

1965年くらいの日活を飽きるほど見てみたいのだが,まったくビデオレンタル屋にない.
カストロやゲバラやホーチミンや毛沢東の映画もない.おそらく世の中にはビデオレンタル屋に並んでいるよりは 100 倍より多くの映画があり,そういう映画の中には私のみたいのがかなりあると思うのだが.