亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘雑感’ Category

11.25.2016 · Posted in 雑感

まだ1Q84をちらっと読んだだけだが、 私の知っている作家の中では、小林秀雄の文章に似てるなと思った。 村上春樹と小林秀雄が似てるといってる人はいないかとググってみたが、どうもいない。

小林秀雄は戦前のフランス文芸の影響をうけた人で評論家になった。 一方、村上春樹は戦後のアメリカ文芸を受肉化して小説家となった人だが、 村上春樹の作品は小説という分類からはかなり外れているように思う。 その本質は「やおい」であり、小説という体裁を使って書かれた何かだ。 冗長で内容に乏しいが読める。 小林秀雄の文章と同じだ。 ある種の依存、麻薬中毒なのではないか? けなしているつもりはないがほめているのでもない。 小林秀雄の文章も評論という体裁を使って書かれた何かなのだ。 それはもう小林秀雄節というしかない。

村上春樹の文章はどこもかしこもことわざめいた言い回しで埋め尽くされていて、 もちろん全部違うが全部同じような既視感がある。 イスラム建築の回廊をぐるぐる回っているような感じというか。 それが私にとって心地よいかといわれれば、はぐらかされているような、おちょくられているような、 つまりは車酔いにも似た不快な感じがして、 村上春樹が嫌いな人も同じことを感じているのだろう。 奇妙な言い回しで同じところをぐるぐる回っている、回らされている感じ。

もちろん何かのストーリーとか落ちとか展開とか伏線というものはあるんだろうが、 たぶんそれは小説という体裁を整えるために付け足されたもので、 あると落ち着くが無くても済む、日本建築の床の間のようなものではないか。

あ、違うな。読者を登場人物に感情移入させるための何かの仕掛けがしてあるわけだ。 そして、明らかに、私にはその辺りの設定が、存在しないくらいに透明で、 まったく感情移入できない。 心の琴線の固有振動数がまったくあってなくてぴくりとも共鳴しない。 だから、ただ美文だけ延々読まされる感じがする。 あるいは、絵に例えると南画みたいな朦朧体みたいな感じ。

「やおい」だが「読める」というのは日本文芸のお家芸といってもよく、 「やおい」だが美麗なアニメ絵でむりやり作品に仕上げたのが新海誠ではないか。 村上春樹と新海誠の雰囲気も似ていると思う。

戦前の日本人が小林秀雄に眩惑されたように、 今は村上春樹と新海誠がそうしていて、世の中の磁場が非常にゆがみ始めていることを感じる。 その磁場の中心が何かはだいたい想像がつく。 やはりそこが日本文芸の核であり、読者のマジョリティなのかと、諦念にも似た気持ちになる。

例えば1Q84を映画化しましょうとか言って、できないよね。 映画監督に指名されたらとても困る。 タルコフスキーなら喜んで作るかも。 ていうか、ある意味タルコフスキーの映画とも似ているよね、村上春樹は。 超絶退屈だが、好きな人は好き。それなりにファンもいる。 よく女の子が六時間も七時間も長電話してしまいにゃ話しながら寝てしまう。 でも話す内容はとくになくて覚えてもいない。 そういう需要があるってことは、知識としては知っている。 だからそういうものを書いて提供する人がいて、実際に売れている。

コメントを受け付けていません。

11.04.2016 · Posted in 雑感

高校生の頃は中島敦と小室直樹をよく読んだ。 この二人に共通しているのは学者タイプだということだろう。 夏目漱石や太宰治は学者というよりは文人だ。 ただし、中島敦も小室直樹も、かなりエキセントリックな学者だ。

今は頼山陽や本居宣長などをよく読むが彼らも文人ではあるが、学者だ。 エキセントリックな学者だ。 平田篤胤までいくともはや学者ではない。単なる思想家だ。

大学教員で作家という人は多いが、あまり読みたい人はいない。 森鴎外や永井荷風も大学教員だったが、そんなむちゃくちゃ好きなわけではない。 森博嗣もそうらしいが私の琴線には触れない。 丸谷才一も一時期大学教員だった。 そういえば丸谷才一もよく読んだなあ。

あと、内村鑑三も好きだった。 好きだったけど今読むとあり得ない作り話を書いている。 小室直樹もそうだ。 この辺が高校生の頃ストライクゾーンだった人はあまりいるまい。

コメントを受け付けていません。

10.19.2016 · Posted in 雑感

まあ、旅券法と国籍法は、マスコミも芸能界も政界も真っ黒なんだろうな。

マイナンバー制度がここまで遅れたわけだよ。

グレーゾーン金利と同じで、いままでグレーで済ませてきた部分が、 マイナンバーのおかげでそうはいかなくなる。 広域暴力団指定でやくざが締め上げられているのと同じだよな。 世の名はだんだん変わっていくんだよ。 昔は許されていたではすまされない。 パチンコもそろそろだろうな。

コメントを受け付けていません。

10.18.2016 · Posted in 雑感

若い頃は、ていうか、30歳くらいだと、 まだ自分が何者かわかってないしこれからどうなるか予測がつかない。 50過ぎた今からみると、30のときにすべてがもう決まってた気もする。

ホルモンか何かのせいだと思うが30歳くらいまではとにかく何かになろうってのめりこめる。 自分がアクション映画の中にいるひとみたいに思える。

しかし50過ぎると、持病は抱え込むし、体力は落ちるし、酒を飲めば疲れるし、 いろんなしがらみで身動きとれないし、 どうやれば失敗するかわかってるから、行動範囲も狭くなるし、 どっか転居したり転勤したりもできなくなるからだいたいもう日常がわかりきってしまうし、 少し食べ過ぎるとすぐ太るし。

とにかく自分という体が動かない。思うように動かせない。 30歳の頃は400ccのバイクを5速で飛ばしてたようなもんで、 今は50ccのバイクを2速くらいでちんたらはしってる感じ。

定年まであと15年もあるかと思うと絶望する。

コメントを受け付けていません。

10.17.2016 · Posted in 雑感

なんかもう蓮舫の顔をみたくないのだが facebook にどんどん流れてくるので困ってしまう。 記事は読んでもいいが蓮舫の写真が流れてこないようにできないのだろうか。

蓮舫についてケント・ギルバートがもごもごっと擁護するような発言をしたのは、 小野田紀美の件を知っていたからなんだろうな。

で、蓮舫は国会議員なんで、法務省とか警察とか検察が動くということはまあおかしいわけよね。 国会議員は国民の代表として選ばれているわけだから。 役人は基本的に国会議員には楯突かないでしょ。 議員は親分、役人は子分の関係なのだから。

田中角栄の時は異常だったけどねえ。

最悪、二重国籍でも、税務署がきちんと収入把握してて、出入国管理もきちんとしてりゃまあいいとして、 そこがぐだぐだ、というか説明できないんじゃアウトだよな。 マイナンバーはやはり必要なんだよ。

政治家なんて信用できないから、法律とか、マイナンバーなんかの制度が必要になってくる。 国籍法にしても同じ。 皇室典範でも憲法でも同じ。 そこである程度、おかしなことをしようというやつは振り落とされる。

ミステリーものは読者が多いというので、今回マリナを書いてみたのだが、 まあ、マリナはいきなり人が死んだりするわけじゃないんで、そんなにミステリーでもサスペンスでもないんだけど、 それで気付いたのは、 なるほどそのジャンルにはそこそこ読者がいて、読んでくれるのだが、 その読者というのも限られていて、 kindle で unlimited で読んでて刑事ものが好きで、 少し官能小説系なやつ(マリナは官能小説じゃないけどねっ)が好きな人の数というのは限られているのだ。 で、ある程度読まれるともう読まれなくなってしまう。 そこでおわり。

で、今の世の中、一番魚影が濃い漁場というのは、村上春樹や三浦しをんみたいな、 もやっとした小説を読む人たちであり、そこからラノベやBLなんかが派生してきているのを感じる。 読者を獲得しようと思えばそういう漁場にどんどんコマセをまいて釣り糸垂れるのが一番効率よく、 またもともと自分が村上春樹や三浦しをんのファンであれば、そういうふうにして小説を書き、営業するのは全然間違ってないと思う。 最近は村上春樹の影響力の大きさがなんか実感できてきた。 村上春樹は読まないんでよくわからないが、リバースエンジニアリング的に村上春樹という人が実感できてきた気がする。

でまあ、私は、村上春樹や三浦しをんみたいな小説を敢えて書かない人なんで、 読者がいるわきゃない。 しかし古代ギリシャものが好きな人というのは一定割合いて、 そういう人はほぼ確実にヒストリエを読んでいて、 その読者の一部が私のエウメネスを読んでくれていて、 だからエウメネスはときどき思い出したようにだれかが読んでくれる。

そうしてさらにその中のごく一部の人が私のほかの小説も読んでくれるという仕組み。

小説の作品数は多けりゃ多いほど良いように思う。 やっぱ新作は書かなきゃいけないわけよね、コンスタントに。

私が書いたもののなかでよく読まれているものとまったく読まれてないものの差は自分ではないのだが、 読者にはあるわけなのだ。 読まれない作品というのは、要するに、社会との接点がない作品だ。 世の中で読まれている特定のジャンルと関係ない孤立した作品。 他人と違うものを書きたいと思っている私にはかなりこれがこたえる。 今までになかった新しいものを書くのが novel だと思って書いても読まれはしない。 今までにあるものを少しひねった作品がどんどん読まれるのがつらい。

そんで30代の頃は毎日夕方に酒を飲めば発散できたのだが、 今はそれがうまくできない。体力が落ちたせいだろうと思う。 そうすると人間関係も希薄になっていく。 人間関係自体以前は未知な部分が多かったが経験が増えるにつれてこれ以上どうにも発展しないってことがわかってくる。 あちこち旅行もしたから最近はおもしろみもすくない。 小説もいろいろ書いてみて書いてもどうせ読まれないってことがわかってきたし、 仕事もこれ以上どうにもならないし、 健康状態はこれからどんどん悪くなるし、 急に大金持ちにでもならない限りこのさき面白いことなんかありゃしないってことがわかってくる。 執筆活動にのめり込んだりして現実逃避しても限度がある。

酒というものが持ってる魔法の力を使いすぎたかもしれない。

まあ、完全に煮詰まってるよな。

wolfenstein: the new order 買ったが全然面白くてやる気がおきない。 call of duty 4 みたいな、ミッションインポッシブルをゲームにしたみたいな、 イベントドリブンでチェックポイント制の展開になっててなえる。 fallout とは全然違う。つまらん。

コメントを受け付けていません。

賊軍の合祀

10.16.2016 · Posted in 雑感

10月13日の産経新聞に全面広告の意見広告が載っていた。

ご存知ですか?

靖国神社に祀られているのは官軍のみで、賊軍と称された方々が祀られていないことを・・・

これは10月4日の 靖国神社150周年 西郷隆盛や幕府軍の合祀計画が急浮上 という記事、 10月12日のNHK報道 「西郷隆盛や白虎隊も靖国神社に合祀を」亀井氏ら と関連するものであろう。

西郷隆盛、白虎隊、新撰組、江藤新平らは、靖国神社には祀られていない。 ただし靖国神社の同じ境内の中にある、鎮霊社には祀られている。

私は、靖国神社の合祀者を増やすのは反対だ。 そういうことを言い出すと、 東京裁判で有罪判決を受けて死んだ政治家(軍属ではない)や、 民間人の挺身隊なども合祀し、 戦争に巻き込まれて死んだ、東京空襲の死者や原爆被害者などみな合祀しようという話になり、 さらには日本国民全員が靖国神社の氏子であるなどと解釈する者が出てくる。 それは明らかに昭和天皇が望まなかったことだ。 昭和天皇によれば明治天皇も、民間人を合祀することには反対であった。

亀井静香が言う、

靖国神社は日本人の心のふるさとのような所だ。この問題には、右も左もなく、国民の中にも理解が広がっていってる

というような、軍人と民間人を際限なく混同するような思想は間違っていると思う。

もし必要ならば、鎮霊社の扱いをもっと大きく丁重にすれば良い。 原則を変更すべきではない。

cf. 靖国神社合祀御衣黄

賊軍の合祀 はコメントを受け付けていません。

読者

10.13.2016 · Posted in 雑感

思うに、通りすがりの読者も読者のうちである。 読み間違いする読者も読者のうちである。

あなたは誤読してますと指摘してはならない。 誤読もまた読者の権利なのだから。 そして誤読されないような文章を書こうと努力しても無駄だ。 大いなる徒労だ。 誤読されない文章が書きたければコンピュータ言語で書くしかない。 人間は誤読が大好きなのだ。 著者は読者が誤読することまで責任を負わなくてよい。 文章を書くところまでが著者の責任だ。

松岡正剛というひとが何者かは知らないが彼もしばしばはなはだしく誤読している。 白洲正子も。丸谷才一も。 読書体験というものはその大半は誤読で成立していると思えるようになってきた。

誤読を容認し、多くの人の目にふれるようにするのが大事だ。 だから、あなたが読もうとしている私の本はあなたが読みたい本ではないかもしれませんなどと指摘する必要はない。 大きなおせっかいだ。 自分から自分の本を読まれる機会をそぐようなことをしてはならないと思った。

比較対象にするのもおこがましいが、私は本居宣長と立場が似ていると思う。 もし宣長を誤読する人を宣長の読者ではないとすると、宣長の読者はほとんどいなくなってしまう。 もちろん宣長の理解者がいないわけではない。 しかしその思想の根本のところは理解されているとはいいがたい。 宣長は、世間の人はこう考えているが実際はそうではないよ、ということを言う人である。 しかし世間の人は宣長がいくら一生懸命そう主張していても、そうは読んでくれない。 自分に理解しやすい良いように解釈して読んでしまう。

平田篤胤や賀茂真淵などの場合誤読されるような心配はあまりない。 というのは彼らはある意味誰でも思いつくようなことを書くひとだからだ。 誰も思いつかないことだからこそ書こう、 というスタンスだと誤読は増える。

読者 はコメントを受け付けていません。

北大の件

10.07.2016 · Posted in 雑感

国立大学というものはどこでも昔から近隣住民と仲良く付き合っていこうと努力してきたわけで、 今回急にこの話が出たのは、札幌でも都市部に共働き夫婦が増えて、保育園や幼稚園の需要が増えて、 新たな認可があいついで、 たまたま近所に北大のキャンパスがあったからそこへ毎日のように遊ばせにいくようになったことに起因すると思われる。

であればこれは明らかに行政の問題であって北大の責任ではない。

保育園や幼稚園は児童らを引率してしかるべき公園に連れて行って遊ばせなくてはならない。 そのために地方自治体は税金を投入しているのだから。 そういう一部の団体のために北大も一般の近隣住民を迷惑を蒙っているのである。

ふつうは近所の住民が花見したりぎんなん拾いに来るくらいで国立大学が目くじらを立てることはない。

そして保育園や幼稚園からの苦情をことさらとりあげて北大のせいにしている新聞報道は、 何か意図的なミスリーディングを企んでいると言わざるを得ないだろう。

北大の件 はコメントを受け付けていません。

10.02.2016 · Posted in 雑感

Kindle Unlimited やアマゾンプライムビデオという新サービスが始まっただけで、 私の映画視聴や読書の量、幅がまったく変わってしまった。 そしていままで見たことのない作品をたくさん見るようになった。 同じ事は J:Com で CATV を見始めた頃にもあった。

私はもう本など読まないつもりだったのに、こんなに読むようになったのは不思議だ。

同時に思うのは、仮に、仮にだが、たとえどんなに私の作品が勝れていたとしても、 それが他人の目に触れない限りは存在しないのと同じなのだ。 新サービスによって人の目に触れるようになり多少は読者が増えるかもしれない。 それは KDP や Kindle Unlimited などですでに体験したことでもある。

そして Kindle Unlimited のおかけで、ブログレベルのしょうもない本が良く読まれている例もよくみかけるようになった。 そんなのググればいくらでも書いてあるじゃんみたいな内容の本が KDP で出版して、有料なのだが、 Kindle Unlimited 対象なのでランキング上位にあがってくる。

人の目にどうやって触れるようにするか、いかにして人の目に触れる機会を増やすかということは、 非常に大きな問題だ。 私は二冊、紙の本を書かせてもらった。 KDP と何が違うだろうか。同じ人間が書いたものではないか。 しかし、紙の本のほうが明らかに人の目に触れやすいし、流通しやすいのだ。 むろん紙の本には編集者や出版社、書店、業界が介在し、助言や助力がある。 たいへん感謝している。 しかしそれでも KDP とこれほど差がつくだろうか。 そしてほぼ確実に予測できるのは、同じ私の本であっても、 マーケティング次第で、もっと売れるはずなのだ。 コンテンツのクオリティとは別の何かが必要なのは明らかだ。 それは何年もやってて身に染みた。

「潜入捜査官マリナ」は探偵もの、刑事もののジャンルで敢えて書くことによって、 そちらのジャンルの読者の目に触れようとしたものだ。 官能小説、大衆小説を読もうと思った人はあてが外れたかもしれない。 でも一応作品解説みればある程度わかるよね? だがあまり節操なくいろんなジャンルに手を出すのは恥ずかしい。

個人出版にできることは限られているってことを、いまはひしひし感じてる。 アマゾンがまた何か新しいサービスを始めて、世の中への露出が増えないかなあみたいな他力本願なことを考えたりする。 たまたま誰かアルファブロガーかなんかの目に触れてレビュー書いてもらえないかなあなんてことも考える。 ま、ともかく、焦らず、自分が良いと思うものをこつこつ書いておくしかないのかもしれん。

コメントを受け付けていません。

feedly再開

10.02.2016 · Posted in 雑感

なんか昔 google の feed reader があってそれがサポート切れしたんじゃなかったっけ。

それで feedly というのが出て来て乗り換えて暫く使っていたのだが、使うのやめにした。

しかし今の時代もブログをせっせと書いている人もいて、読んだほうが良い気がして feedly を再開した。 昔の subscribe がそのまんま残っていたので、やや手直し。

feedly再開 はコメントを受け付けていません。