製造業

95年くらいに円が対ドルで84円になったころ、製造業はもう駄目だなどと言われて、
この頃に日本が脱製造業に向けてさっさと方針転換をしていれば、いまのような惨状にはならずにすんだのだ。
95年というのはWindows 95がやっと出てきた頃。
ISPがやっと出始めた頃。
このころ製造業以外にはいくらでも商機があった。
しかし日本は、いつまでもいつまでも電機や自動車にこだわり続けた。
実に悔しいことだ。
あの頃アメリカはまだ青色吐息で、マンハッタンには乞食があふれていた。
日本にはまだまだ余力があった。

なぜ日本はあのとき製造業に見切りを付けて、
或いは製造業を原資として、インターネット産業に投資しなかったのか。
あの当時、ちょっと頭を働かせれば誰にもわかったことではないのか。
ビルゲイツにだってわかっていたことがなぜ日本人にわからなかったのか。

日本はしかし、だんだんに円安となり、
海外に少しずつ生産拠点を移すなどして、
円高に強い体質になったなどとうそぶいていた。
私は、いつまでもトヨタなどの旧態依然とした会社が日本社会を牛耳っていることに、
いつもいつも首をかしげていた。
しかし結局はトヨタなどの会社の法人税によって日本は支えられていたのも事実だった。
愛知万博やらセントレアやら中部地方がこれからどんどん栄えていくかのように言われていた。

しかし今やとうとう日本にとって製造業が斜陽産業となりはてた時代が来た。
そしてインターネット産業で日本はまったく出遅れている。
実に嘆かわしいことだ。

修善寺温泉

伊豆の修善寺温泉に行くことにしたのだが、
鎌倉などに比べてネット上にあまり情報がなくて困った。
まあ、鎌倉と比べるのもかわいそうだが、るるぶなどの旅行情報誌にもあまり情報がない。
るるぶ紙面では沼津や三島などの情報も非常に少ない。
今回、沼津、三島、韮山、修善寺と観光して回ったのだが、
潜在的需要の割りには観光情報が不足していると感じた。

沼津駅から若山牧水記念館あたりまで歩く。
海からの富士山の眺めはいわゆる絶景。
田子の浦の製紙工場の煙突の煙もよく見える。
とんびかからすかかもめかしらないが富士山を背景に群れ飛んでいる。

沼津港で昼食。まあまあ。
タクシーで駅まで戻る。
1000円かからない。
タクシーならあっと言うまだが、ぶらぶら歩くと1時間コース。
時間がないときはあっさりタクシーで移動した方が良いだろう。

JRで三島に移動。
沼津市内にはほとんど観光客向けの表示がなくて難儀したが、
こちらはいたれりつくせり。
三嶋大社まで楽に歩けた。
三嶋大社はいろんな意味でいろいろ興味深い。
境内の南側に池があり、島があって、鶴ヶ丘八幡宮の場合ここは弁天様だが、
こちらは厳島神社が祭ってある。
富士山の豊富な伏流水が、ここ三嶋で湧き出しているのだ。
安政の大地震で社殿はすべて倒壊したが、
時の神主・矢田部盛治の尽力によって総檜造りで慶応四年に復興したという。
この矢田部家は物部氏の一族で伊豆国造の子孫でずっと三嶋社の神主として世襲しているというが、
国造というのはつまり律令で国司が任命されるより前の土着ということであるから、ほんとうならばおそろしく古い家系だ。
国造の子孫が今も続いている家系というのがどのくらいあるだろうか。
宝物殿の絵巻を見ると昔の社殿は朱塗りだったようだが、
幕末に復興された今の社殿はしぶく黒ずんだ天然木目である。
彫刻もかなりほどこされているが東照宮のように華美ではない。
やや狭いが神鹿苑というところに数十頭の鹿が飼われているのは、かつて鹿がここらで放し飼いになっていたなごりだろうか。
神馬社というのもかつてはほんとの馬を飼っていたそうだ。

三嶋社はもともと三宅島にあったが、
延喜式の時代には下田に移り、頼朝の時代にはすでに今の場所にあったようだ。
明治には官幣大社。
これまた宝物殿の説明によれば、伊豆沖に新島ができたり火山が噴火したり、
地震が起きたりといった自然現象はすべて三嶋の神の仕業だと考えられており、
また伊豆は地震や噴火が多いので、延喜式にも神社が非常に多く記録されているのだという。
確かに地震の神様とか噴火の神様というのは日本に居てもおかしくない。
浅間神社などがそれか。

伊豆諸島に680年頃に新たにできた島ってなんなのだろう。
調べてもよくわからん。

それから伊豆箱根鉄道駿豆線に乗って修善寺駅に向かう。
伊豆箱根鉄道というのは他にも小田原から大雄山線も運営しているのだな。
なるほど西武グループなのか。
バスが西武系なので不思議だと思った。
三島駅から修善寺駅までは30分程度。
そこからバスで210円で修善寺温泉へ。
タクシーだと1200円程度のようだ。
日が暮れたのでその日はそのまま寝る。

翌日観光。
伊豆半島の中央を流れて沼津辺りで駿河湾にそそぐ狩野川という、わりと大きな川があり、
その支流の桂川沿いに修善寺温泉郷はある。
なぜここに来たかと言うと、源頼家と範頼がこの地に幽閉され、殺害されもしくは自害し、
この地に墓があるからだった。
で、いまでは「伊豆の小京都」と呼ばれてミシュランで二つ星をもらっているらしい。
ミシュラン二つ星がどの程度すごいのかよく知らんのだが。
なるほど、レストランガイドの赤ミシュランと、観光ガイドの緑ミシュランというのがあって、
こちらは緑の方なのね。


まずは、頼家の墓、
頼家の死後蜂起した十三人の家臣の墓、
頼家の菩提をとむらうために北条政子が建てたという指月殿というものを見にいく。
指月殿は伊豆に残る最古の木造建築であるという。
指月殿にはなるほどそこはかとなく風情がある。
本来は修善寺に寄進された大蔵経を収める経堂だったらしいが、それらは散逸し、
今は釈迦如来像と仁王像が置かれている。


修善寺温泉郷の中心地は修善寺近くの桂川の中にある「独鈷の湯」というものらしい。
そのほど近くに新井旅館という古風な旅館がある。桂川に面しており、
向かいの岸辺の竹林は確かに小京都というだけのことはある。
おそらく戦前はこの新井旅館周りのこぢんまりとした温泉場だったのだろうなと思う。
独鈷の湯の周りの河川敷は工事中で入れず。
川沿いに新たに足湯なども建設中。
山奥のせいか梅もまだほとんど咲いておらず、桜もなく、紅葉もなく、
独鈷の湯も工事中ということで、いわゆる完全なシーズンオフに来てしまい、
宿もずっと外れだったわけだが、
だから割安だったのだろう。
人混みしているとそれはそれで鬱陶しい。

修善寺は寺の表記は「修禅寺」となっており、曹洞宗であればそれでも良いのだが、
弘法大師が開祖とは不思議だと思ったのだが、
もとは真言宗だったのだが、途中から臨済宗(禅宗の一つ)となり、
のちに北条早雲が曹洞宗(これも禅宗の一つ)として再興したのだという。
手水が温泉なのがやや珍しい。

鬼門に日枝神社あり。ここに範頼が幽閉された館があったらしい。
ここらだけ、杉木立がうっそうとしており、夫婦杉などある。
神社の境内は樹木の伐採などしないから自然とそうなるのだろう。



範頼の墓。やや離れたところにある。


帰途、韮山で降り、江戸時代の江川氏の代官屋敷、韮山町の郷土資料館、韮山城跡に行く。
正確には、韮山町は合併して伊豆の国市となったらしい。
韮山城は北条早雲の最初の居城。城山と城池が残る。
子母沢寛「新撰組始末記」によれば、近藤勇が生まれた調布も韮山代官江川氏の支配だったという。

蛭が島。
頼朝と政子の像。
富士山の方角を向いているのだが、
どうしても逆光になる。
フラッシュかレフ板が必要だな。
記念撮影しにくい。
しかも背景の送電線が気になる。
北向きに銅像を建ててはいかんね。
向きを変えた方がいいんじゃあるまいかなどと思った。
流刑地が蛭が島というのは後世の伝承、推定らしいが、
それ以外に特に情報もなく、
ここらは昔は狩野川の氾濫原で、
この辺りのどこかに、蛭が島という狩野川の中州があって、頼朝が居たと思ってもまあいいかと思った。
平氏がもし北条氏に託して頼朝を厳重に幽閉しようというのであれば、
北条の里の後背地で、より行き詰まった修善寺辺りの谷あいに住まわせるだろうが、
おそらくそこまで配慮はしていないだろう。
このやや狭苦しい伊豆の内陸部の狩野川の流域が北条の里であり、頼朝や北条氏や後北条氏の故地であった、
とおもえば、なにやら感慨深い風景ではあるな。


大東京トイボックス 5

なんかもう暑苦しいマンガだなあという。

まあどうでもよいことではあるが、冬場に体重を落とすのはとても困難だ。
体重を維持するくらいの気持ちでいた方がよいかもしれん。
夏は少し我慢すれば割と普通に体重が落ちていく気がする。
今70kg台後半で維持して夏場にかけて70kgあたりまでをめざすか。

岩波古語辞典

岩波古語辞典を買おうと思ったのだが、
そんじょそこらの本屋にはおいておらず困った。
結局新宿南口の紀伊国屋書店で買った。
いまどきは「全訳古語辞典」というのが流行りのようで、
何が「全訳」かといえば、教科書に載るような有名な文章は完全な現代語訳が載っているというもの。
初心者にはそれで良いかも知れないが、
私にとってはそのようなものはまったく不要でありあるだけ無駄としか言いようがない。
つまり私は、歌を詠むに際して、現代人であるから、
古代人の直感が効かない。また、だれか師匠に添削してもらうということもできない。
てにをはなど、古語文法的に正しいのか正しくないのか判断ができないといけない。
そうするとたとえば万葉集や古今集や源氏物語くらいまでのテキストに用例があるかどうかを確かめる、
という目的に古語辞典を使うわけである。
広辞苑である程度代用がきくが、
つまりは、古語に特化したコンパクトな広辞苑がほしいわけであって、
やはり岩波古語辞典を買うしかない。
同様の目的には新潮国語辞典がかろうじて使えるかもしれない。
でこの岩波古語辞典だが、他の古語辞典に比べるとかなり割高。
まあ、中学高校生の買う辞書ではないということだわな。

ところで、実朝が14才から22才までに金塊和歌集の歌を詠んだという例の話だが、
我々が古文を習い始めるのも高校に入ってからであり、
私自身、18才の時に初めて明治天皇御製集を知り、かろうじて和歌らしきものが詠めるようになって、
いくらかの数がたまりだしたのが20才くらいからだった。
こういう初心者のころはいきなり自分で万葉集や新古今集を読み解くというよりは、
古語辞典(つまりは用例集)や学習参考書(歌の歴史や解釈の仕方)を読んで学ぶのが普通であり、
当時としてもそうだった可能性は高い。
そういう学習参考書のたぐいがすでに当時あったと仮定すれば、
22才までにあのような金槐和歌集を詠んだというのもまったく不可能ではないような気もしてきた。

留魂録

古川薫全訳注「吉田松陰 留魂録」を読む。
本文自体はごく短いものであり、
獄中で一日程度で二冊同じものが書かれ、そのうちの一部は高杉晋作が紛失し、
もう一部は牢名主に預けてあったものが今日に伝わり、
この現存する原本は萩市の松陰神社に所蔵されているという。

解題、史伝などがかなりくわしい。

[留魂録](http://www.cocolee-jp.com/togyo/s/syo/ryukon.html) 全原文。
あるところにはあるものだな。

吉田松陰の歌で伝わるものはあまり多くないが、できばえはなかなか大したものだから、
ただ残っていないだけで、もっとたくさん詠んでいたのだろうと思われる。
今回かき集めてみると、
留魂録冒頭の

> 身ハたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂

のほか、

> 心なることのくさぐさ書きおきぬ思ひ残せることなかりけり

> 呼び出しの声まつほかに今の世に待つべき事のなかりけるかな

> 討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷(えびす)払へよ

> 愚かなる吾れをも友とめづ人はわがともどもとめでよ人々

> 七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘(はら)はんこころ吾れ忘れめや

などが最後に記されている。
「君をあがめてえびすをはらう」とはつまり尊皇攘夷ということだわな。
他にも関東へ護送中に

> かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

> 世の人はよしあしごともいはばいへ 賤が誠は神ぞ知るらん

などの歌を詠んでいるが、なんとも数が少ない。
和歌を詠むに際して漢語をやまとことばになおそうとする努力が見られるが、
普通の人にくらべて漢字の利用比率が多いように思うので、
やはりもともと和歌はあまり詠まない人だったかもしれない。

劒岳 点の記

なぜか、新田次郎原作の[劒岳 点の記](http://www.tsurugidake.jp/)を見る。

まあ、わりと好き。
CGに頼らず、とあるが、人が崖から落ちるシーンはスタントでなんとかなるのかもしれんが、
雪崩に人が埋まるのは危険すぎるだろ。
ふつうここは人命的にはCG使うんじゃないのか。

千載和歌集

久保田淳校注「千載和歌集」。

凡例に

> 翻刻に際しては、歴史的仮名遣いに統一し、適宜底本の仮名を漢字に改め、漢字を仮名に改め、その他用字を改め、送り仮名を補い、振り仮名を付し、・・・もっぱら読みやすさを主眼とした校訂を加えた

とある。
なるほど1986年初版の文庫本ならば当然そうあるべきである。

[J-TextsのFAQ](http://www.j-texts.com/faq.html)に、

> 問:どうして文庫本を底本に使ってはいけないのですか。

> 答:昭和40年代以降の文庫本は表記の改変が著しく、原本との乖離が甚だしいからです。電子化によって止むを得ず原本から乖離してしまう所もありますが、学術的観点からは、殊更に表記を改変しようとすべきではありません。文庫本が何故表記を改変しているかといえば、読みやすくして、より多くの人に読んで(買って)もらいたいと考えているからでしょう。それが廉価の代償です。商売をするのでない限り、文庫本を電子化する必要はありません。より良い本文を使うべきです。大学の学部4年間には、教科書として使ったり卒業論文で使用したりすることはあるかもしれませんが、大学院以上のレベルになると、文庫本から引用するということは、まず考えられません。文庫本は初心者用、入門者用と考えてください。表記の改変がなされていない文庫本なら結構です。

とある。
しかし、特に和歌の場合、もともとが変体仮名などで書かれており、用語も極めて特殊で、
漢字でふつう書くところをわざと仮名で書いたり、その逆であったり、そもそも濁点がまったくなかったり、
どこで切れるのかわからなかったりする。
手書きの原本を見れば察せられるかもしれないことも活字にした段階で欠落する。
まあなので、文庫本であればわかりやすさを優先しても仕方ないし、
また戦前の本だからといって必ずしも正確とは言えないと思うのよね。

全然千載和歌集の話ではなかったが。

松蔭日記

図書館にあった講談社学術文庫はだいたい読みたいものは読み尽くしたので、つぎに岩波文庫にうつる。
上野洋三校注「松蔭日記」。

吉田松陰の日記かと思い、和歌だけでも抜き出してみるかと読み始めると、
柳沢吉保の話ばかり書いてあり、
あれっ、柳沢吉保って長州藩だったっけ、
もしかして吉田松陰って柳沢吉保と徳川綱吉の時代を評価していたのかななどと半信半疑に読んでいくと、
六義園が立派に完成してどうのこうのとか、最後まで柳沢吉保。
おかしいなと思い解説を読んでみるとそもそもこれは柳沢吉保の側室正親町町子が書いた自画自賛の日記なのだった。
解説に書いてある話もなんか悲惨で、幕初にあった資産も綱吉の時代に浪費しつくして、借金が吉宗の時代まで残った、
などと書いてあってひどいやつだなあ(笑)という感想しか出てこない。

テルマエ・ロマエ

ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」を読む。
たぶん一話完結だったのが好評だったので連載化したのだろうが、
風呂に溺れて古代ローマから現代日本にタイムスリップしてしまうという恒例のパターンが、
だんだん苦しくなってくるよなあ(笑)。
このネタであと何話くらい引っ張るつもりなのだろうか。
月刊コミック・ビームに不定期連載、ってところが泣かせる。

タイトルの THERMAE ROMAE だが、ローマ風呂、とでも言う意味か。

「モーレツ!イタリア家族」というのも書いているのか。ふーむ。