Ich möchte nicht das Kind sein!

> Ich möchte nicht das Kind sein!

直訳すれば、「私はあの子供でありたくない」だろうか。
敢えて英訳すれば

> I might not be that child!

とでもなろうか。
で、英語版では

> I am glad I am not the child!

「私があの子供でなくて良かった」。

矢川澄子訳は

> あの子の身にもなってごらんよ!

となっている。なるほど。

デーテの言い訳

> Sie besann sich also nicht lange, sondern sagte mit großer
Beredsamkeit, heute wäre es ihr leider völlig unmöglich, die Reise
anzutreten, und morgen könnte sie noch weniger daran denken, und die
Tage darauf wäre es am allerunmöglichsten, um der darauf folgenden
Geschäfte willen, und nachher könnte sie dann gar nicht mehr.

直訳するならば、

> 彼女は長く熟考するのでなく、すぐに雄弁に話した、今日は旅行を始めるには、
残念ながらまったく不可能です。明日もやはりそうとは思いません。そしてその翌日も、
次の仕事のおかげでますます不可能です。そしてその後もまったくよけいにダメです。

矢川澄子訳だと

> デーテはそこで、たいして考えるひまもなく、さかんにまくしたて始めました。「ざんねんながら、きょうはとても旅行には出られませんし、あしたとなると、なおのこと都合がつきかねます。あさってはまた、のっぴきならない用事で全然見込みがありませんし、そのあとはもう、どうにもなりませんのでね。」

まあ、自由自在に訳しているということもできるし、
独自の文体に翻案しているともいえる。
der darauf folgenden Geschäfte を「のっぴきならない用事」
と訳すのは、かなり脚色されているとは言えまいか。
「のっぴきならない」とか「緊急の」という意味のことはどこにも書いてないのだから。

Heidis Lehr- und Wanderjahre

> Herr Sesemann verstand die Sprache und entließ die Base ohne weiteres.

直訳すれば、

> ゼーゼマン氏はその言葉を理解し、その叔母をあっさりと解放した。

矢川澄子訳だと

> ゼーゼマン氏は、デーテの本心をさっして、そのままひきとらせてやりました。

となる。
なるほど流暢な訳ではあるが、
原文の雰囲気を伝えているとは思えないなあ。

ohne weiteres 簡単に。

デーテのことを原文では Dete、die Dete、die Base Dete、die Base などと書いている。
Base は南ドイツで叔母、もしくは女のいとこを言う。

Der Dialog zwischen der deutschen Jugendbuchautorin und dem Schweizer Spyri-Forscher zeigt, wie schwer der Abschied von einem liebgewordenden Bild fällt.

惟明親王

式子内親王は人と滅多に歌を詠み交わしていないのだが、
その数少ない例が、九条良経と惟明親王である。
良経については『虚構の歌人』に書いた通り。
惟明親王のことも書いてたのだが、削ってしまった。
それをここに書いておく。

惟明親王
> 思ひやれ なにを忍ぶと なけれども 都おぼゆる ありあけの月

返し 式子内親王
> 有明の 同じながめは 君も問へ 都のほかも 秋の山里

何を忍ぶというわけではないが、都がなつかしい有明の月ですね、という問いかけに対して、都の外も秋なのですね。山里にいるあなたが言うように、私も同じ有明の月を見ていますよ、と答える。

式子内親王
> 八重にほふ 軒端の桜 うつろひぬ 風より先に 問ふ人もがな

返し 惟明親王
> つらきかな うつろふまでに 八重桜 問へともいはで すぐる心は

八重桜が散り始めました。風よりも先に訪れる人がいるとよいのに、という問いかけに対して、散り始めるまで尋ねよとも言わずにすごす心は辛いですね、と答えている。

惟明親王は1179年生まれで高倉天皇の皇子。母は平義範の娘・範子。
義範も範子もまったくマイナーな人で、ネットで調べてもよくわからない。

九条良経は1169年生まれなので惟明はさらに10年若い。
式子は1149年生まれだから、30歳も若い。

『虚構の歌人』で私は、式子は九条兼実の愛人であり、
良経が式子の子ではないかということを書いた。
兼実は1149年生まれで式子と同い年、
若い頃の式子に恋人がいたとして、その相手に一番ふさわしいのは兼実。
少なくとも法然や定家よりはずっとましな仮説だと思う。

承久の乱が勃発したのは承久3年(1221年)5月14日なのだが、
惟明親王はその直前の1221年5月3日に死んでいる。
ずいぶん不審でしょう。
惟明親王は高倉天皇の皇子。
後鳥羽院の血筋ではない。
従って承久の乱の結果、幕府によって天皇に立てられる可能性は十分にあった。
いや、すでに出家して法親王になっていたので、自らは即位しないとしても、
惟明の皇子が天皇に立てられていたかもしれない。
順徳天皇や、順徳を擁立する九条家にとってみれば惟明は邪魔な皇子の一人なのである。
承久の乱に巻き込まれて死んだ可能性が高い。
同じことは、同じ頃に死んだ飛鳥井雅経にも言える。
そういう話も書こうかと思ったが、まったく何の証拠もないのでやめておいた。

惟明親王はなぜ式子と親しかったのか。
これに至ってはまったく検討がつかない。
式子が惟明の母平範子と親しかったからに違いないが、しかし
平範子という人が何者なのかさっぱりわからないので、なんとも言いようがない。
惟明が式子の子であった可能性は?それは無いだろうと思う。