Bio Hazard は面白い.
最初のムービーが実写なのが笑える.
確かに恐怖感という意味ではなかなか良くできてる.
ヒットして二作目からは,確かに良くなるんだけど,
一発目の気合いというか生々しさはなくなっちゃうんだよね.
Dino Crisis 2 は,恐竜がたくさん出てきてうざいのだけど,
まあまあ面白い.
せがれいじりは,これはなんというのだろう.
RPG のようなものか.
人生ゲームというか,すごろくのようなものか.
投稿者: kelvint
パソコン版の Tomb Raider は PS 版よりきれい.
Tomb Raider はやはりパソコンでやらないとほんとのおもしろさがわからない.というのは,PS だとグラフィックが汚すぎてアイテムが落ちているのだかさえわからないことがあるからだ.PS 由来のゲーム,たとえば Dino Crisis やサルゲッチューなどは,グラフィックが汚いことを前提として作られているから,アイテムが落ちてるときはそれははっきりとここに落ちてますよ,ということがわかるようになっている.ところが Tomb Raider の場合,すべてのヒントはきわめてさりげなく,かつ,グラフィックに相当依存した方法によって示されている.PS でも努力次第?で解像度の悪さを克服できるのかも知れないが,ゲームのやりやすさとか楽しさというものがかなり劣ると言わざるを得ない.
ドリームキャストだと,その問題はかなりの程度解決されると言える.しかし,Tomb Raider は高精細大画面でやることに意味のあるゲームだから,できれば 1600×1200 16bit くらいでやってみたいものである.
袴だれ保輔
吉川英治全集 48「短編集(二)」講談社の中の「袴だれ保輔」
というものも読んだ.
吉川英治は良く調べたようだ.
しかし,自害したとは書いてあるが,どこにも切腹したとは書いてない.
検非違使に追いつめられ,やけくそで腹を切って腸を投げつけた,という話は,
そうすると「続古事談」だけに見られるのだろうか.
この「続古事談」というのはなかなか手に入らず困っているのだが.
「袴だれ保輔」は,昭和 26 年に書かれたものだそうだが,
いかにも当時の世相を反映していてわざとらしい.
しかしいくつかおもしろいインスピレーションを得もした.
「袴垂」というのは没落貴族を言うのだそうだ.
おそらく,平安盛期から末期にかけて,世の中がよどんでしまい,
貴族と庶民の間の階級格差はとてつもなく広がっただろう.
日本の歴史の中でも最もはなはだしかったのではないか.
この差別というのは,もしかすると,日本社会に猛烈なストレスを生んでいたかもしれない.
ところが日本ではこのころやっと鉄器というものが庶民にも普及してきたころで,
庶民はほとんど野蛮人か未開人の状態にあったものと思われる.
そうすると,ケルト人もゲルマン人も女真人でもそうだが,
彼らはきわめて無分別でかつ剽悍であるから,
きちがいに刃物とは言うが,とにかく支配者階級に対して,
めったやたらに強盗を働いたり人殺しをしたりしただろう.
そうして捕らえられたときに,
やけくそ,或いはいやがらせ,或いはせめてもの反抗の表明,
としてやった自害の様式,として,切腹は最初は始まったのではないか.
それが当時の盗賊集団で,なんかのはずみで(ここが重要),流行になって,
「役人に捕まったときは腹を切ってはらわたを投げつけてできるだけ醜く死んでやろうぜ.
てやんでい.べらぼうめ」
とかなんとかそういうことになったのではないか.
多くの後世の軍記物が創作しているように,武士の頭領らが,自ら率先して,
切腹というものを普及させた,というのはいかにも唐突であって,ありえなさそうだ.
少なくとも平家はやってないし,また,源氏も(北条氏に取って代わられるまで)
実は一度もやってなかったと思う.
むしろ酒呑童子などの反乱分子らによって発明されたと考えるのが妥当だろうと思う.
それがいつの間にか,おそらく鎌倉幕府北条氏の頃だと思うが,
下級武士全体に広まり,
さらに室町戦国時代を経てどんどん上級の武士にも広まり
(というか,もともと身分の高い武士などいないのだが),
徳川の時代に武士の正式な自害の仕方として確立されてしまった.
しかし,このときにはもはや,反逆とかいやがらせという意味合いはまったくなくなってしまい,
はらわたをさらすということも禁じられてしまった.
切腹に先行する,日本古来の,類似の民間習俗があったかどうか,というのはなんとも言えない.
しかし,切腹というのは単なる犠牲を捧げる儀式とは思えない.
かなりの精神的圧迫と異常心理が作用してないと発生しないと思う.
それはやはり平安時代の被支配階級という暗部から生まれたと考えるとつじつまが合わないだろうか.
要するに,なぜ日本にだけ切腹という異常な自殺形態が生まれたのか,
ということなのだが,当時の世相と,偶発的なきっかけ,ということで説明できないだろうか.
たとえば,日本ではやくざものが指を落としたり入れ墨をしたりという一種の自虐行為を,
仲間内の特殊な様式としてやるが,このような心理が平安期の強盗集団にもあったとして不思議ではない.
こうしてみると,武士の発生と切腹の発生とはほとんど軌を一にしているようにも思える.
つまり源平のやんごとなき辺りはともかくとして,武闘集団としての武士は,
このようにして発生した,と思われるからだ.
そこで切腹は武士の根本教義として今日まで強い影響を維持してきたのではないか.
切腹の意義の変遷はすなわち武士そのものの変遷なのである.
切腹の起源
昔,切腹について調べたことがあったが,また少し調べた.
一番古い記録は「播磨国風土記」で,これはほとんど神話,というか,
何かの象徴的な伝承であって,船に乗っていて嵐に遭い,
女性が腹を切って死んだら海が静まったというもの.
武士の切腹とは何の関係もない.
次にはずっと下って鎌倉初期の説話物語の一つ「続古事談」
1219 年に出たもので,
藤原保輔(やすすけ)という者が982 年に追放処分にあって,
袴垂(はかまだれ)と呼ばれる盗賊或いは
反体制活動(?)のようなものの首領をやっていたのだが,
何故かその後出家し,
仲間のところを尋ねたら検非違使に密告され,985 年に追いつめられて,
腹を切って内臓をつかみだし,
辺りに投げつけた上,翌日死んだ,というもの.
保輔は「宇治拾遺物語」(第125話)にも出てくるので,
こちらの方が有名らしい.
宇治拾遺物語の成立は続古事談と前後するくらいで同じ鎌倉初期.
宇治拾遺では保輔は商人をだまくらかして殺して埋めたり,
その他盗賊などもやったが,死ぬまで捕まらなかったという.
吉川英治も「袴だれ保輔」という短編を書いているという.
私はこの保輔という人物が本当に実在したのか半信半疑だったが,
どうやら本当に居たことは居たような気がしてきた.
保輔の兄に保昌(やすまさ)という人がいることになっている.
というか,この保昌という人は保輔よりはるかに有名人であり,
どこかで聞き覚えのある名前だと思ったらあの和泉式部の夫だったのだ.
但馬,大和,摂津など,いくつかの国の司をつとめたかなり偉い人,
というか,道長の四天王の一人である.
もし保輔が保昌の弟であれば,保昌自身がまず相当な権力者だし,
また道長の庇護も当然あっただろうから,
検非違使に捕まって自害するなどいうところまで行くだろうか.
保輔が反体制だったというより,兄の権勢を笠に着て暴れていた,
という方がわかりやすいのだが.
で,問題は本当に保輔が切腹第一号と認定できるかどうかだ.
985 年のできごとが 1219 年に記されたのであるから,
これは同時代の資料とは言い難い.
130 年以上の隔たりがある.
かなりあやしい.
当時,保輔は説話として語られるほど有名な,
しかし伝説的な大盗賊だったわけだ.
であるから,鎌倉時代のもっと小者の盗賊の捕物話がこの伝説的盗賊に投影され,
説話化されたとも考えられる.
今昔物語などを読んでもわかるように,
説話物語というものは噂話や民間伝承のたぐいなのだ.
義経記などの軍記物というか,おとぎ話によれば,
義経も切腹したとされ,また同様に為朝も切腹したことになっているのだが,
どうもこれらもうさんくさい.
おそらく源平合戦の頃にはまだ切腹というものはなかったのではないかと思うのだが.
切腹が武士の習いとして賛美されるようになったのは,
それよりさらに 100 年下り,
村上義光以来だと思うのだ.
彼は,北条高時の元弘の乱で,主君の護良親王を落ち延びさせるために,
親王の姿形をして,吉野宮の二の木戸の高櫓に登り,
「後醍醐天皇第三の皇子,一品兵部卿親王護良,逆臣のために亡ぼされ,うらみを泉下に報ぜんため,
ただ今自害する有様を見よ」
と言って腹を切った.
そこへ賊兵が集まる隙に,親王はつつがなく逃れた,というもので,
これが 1333 年,北条氏滅亡直前,鎌倉幕府の末期のことだ.
上がおそらく史実だと思うのだが,
「太平記」によればこの記述は若干違っていて,
義光は「吉野山蔵王堂山門」の上で,
「汝ら武運たちまち尽きて自害する時の手本にせよ」と叫んで切腹したことになっている.
W. S. モーム著,西川正身訳「世界の十大小説」岩波文庫,を読んだ.
その中で紹介される小説の一つが「嵐が丘」なのだが,
これは半分だけ読んだことがある.
えーと,つまりキャサリンが死ぬところまで.
これはまさにおそるべき奇書である.
嵐が丘の著者のエミリーのその姉のシャーロットが書いた,
なんか女家庭教師の話などは比べるべくもないのだ.
それはそうと,モームの紹介の中に出てくる話なのだが,
エミリーの兄のブランウェルという人が,病気になって死ぬのだけど,
そのとき
> 彼は死の近いことを知ると,立ったままで死ぬんだと言い,
寝床から起き出すと言って聞かなかったそうである.
彼が死の床にあったのはわずか一日にすぎなかった.
いよいよ死期が近づいた時,
シャーロットはすっかり取り乱してしまったので部屋の外へ連れ出さねばならなかったが,
父親とアンとエミリーの三人は,ブランウェルが立ちあがり,
二十分ほど苦しんだあげく,望み通り,立ったままで死んで行くのを見守っていた
のだそうだ.
実に大した強情っぱりだ.
H. G. ウェルズの「タイムマシン」も読んだ.
当時イギリスというところは階級社会で,社会主義思想が流行ってて,
それを未来に投影した,という感じだ.
藤原保昌は源頼光の叔父,致忠の子,元方の孫.
元方は菅根の子.
菅根は菅原道真に呪い殺されたのだそうだ.
調べててだんだん嫌になってきた.
保昌は,頼光とともに道長の腹心で,頼光が武人であったことから,
後世特に同じように武人であると考えられているようだが,
果たしてそうだろうか.
今昔物語巻19第7にも出てくるようだ.
保昌は,宇治拾遺物語第 28 話にも出てくることがわかった.
その他いろいろ調査中.
Tomb Raider 3
Tomb Raider 3 をこれからやろうという人は、
最後のボスキャラを倒すには、
Desert Eagle の弾をできるだけ集めておいた方が良いぞ、
彼はそう言い残して去った。
しかし、Tomb Raider 3 のラスボス(Willard の mutant)と
Biohazard Veronica のラスボス(アレクシア)
は微妙にキャラかぶってないか。
どちらも怪しげな怪物に突然変異するし。
Tomb Raider 4 (Last Ravation)
のラスボス(セト)はそんな難しくなかったような気が。
そういえば、Tomb Raider 3 には他にも強いボスキャラがいるだよ。
trlr もかなりおもしろいのだが、
Tomb Raider 3 の完成度はすごいね。
モンゴル
宮崎市定によれば、宋の時代というのは、
コークスと製鉄の技術革新に基づく産業革命が起きていて
(日本の刀鍛冶などは家内制手工業で、優れてはいるが大量生産には向かない。
これに対して宋では基本的に今日の近代工業と同じであり、
陶磁器や農具、武器の大量生産が可能であった。
マルコポーロも、中国人が薪ではなくて石炭を使うのを驚いている)、
それが元による世界征服を惹き起こしたというのだ。
これは西洋では 17~20 世紀の帝国主義に相当する。
また、中東では 7~10 世紀の、
アッバース朝ハールーンアルラシッドを絶頂期とする、
イスラムによる文芸復興に相当するという。
モンゴル帝国というのは西洋ではたいへん残虐な、
破壊的な征服だったように言われている。
またはタタールの軛、などと。
でもそれは、冷静に考えれば、
西洋によるアジアアフリカアメリカの植民地化と大して違わない。
モンゴル族が剽悍でかつ組織力に優れ、
たまたまあの時代にそれを束ねる偉大な英雄が生まれたから、
なのではなく、単に、東洋の技術革新が他を圧した結果だったのだ。
中東やイスラムに関心が薄い日本人の場合、
モンゴルの支配というのは、極めて短期間に終わったと思っているが、
ムガール帝国やその他の群小のハーン国はともかくとして、
イルハン国、キプチャクハン国、ティムール帝国などは
1500 年くらいまで続いた。
これを宋からの一連の流れとしてとらえれば、
およそ 500 年の長きにわたったことになる。
アドニヤ
たとえばダビデの第四子の名はアドニヤというが(サムエル記 3:4、列王記上 1:5, 2:13、歴代誌上 3:2)、これがアドンに由来するのは間違いあるまい。他にもアドニラム、アドニカム、アドニ・ツェデク、アドニ・ベゼクなどの名前もある。ただしアドニ・ツェデク、アドニ・ベゼクは、ヨシュアが滅ぼした王の名であって、ベゼクの主、ツェデクの主、と言う意味にも取れるのだが。
YHWH
いろいろ読んでみると、 YHWH をヤーウェとかエホバと読んでいるのはキリスト教徒だけであり、ユダヤ人は、いつからかは知らないがそうとう昔から今日に至るまで、アドナイと読んでいるのだそうだ。
昔は、YHWH にはちゃんとした発音があったのだが、神の名をみだりに称えてはならないために、アドナイという新しい呼び名が考え出され、本当の名前はいつのまにか忘れられた、のだそうである。
本当にそうなのだろうか!? むしろ、YHWH という神聖四文字の方が新しく、アドナイという呼び方の方が古いのではないか、と思えるのだが。
アドナイと同じくらい古いのはエル(神)、シャダイ(全能者)などか。
アトン
どうもいろんなものを読んでみて思うに,イスラエル 12 部族のうち,ヨセフの一族(エフライム族)というのは,もともとエジプト人だったか,エジプトに寄留し,半ば隷属した遊牧民(ヘブル人)だったか,あるいはエジプト人とヘブル人の混じり合ったものだったのだろう.あるいはエジプト人の中で零落した階級がヘブル人だったかもしれない.ヨセフの一族はイクナートン派で,一神教の継承者だった.それでエジプトを脱出し,当時のエジプトの辺境であるイスラエルに来た.もともとイスラエルに住んでいた人たちは多神教,というかそれほど明確な宗教を持ってなかった.そこで,エジプトから脱出してきたヨセフの一族の宗教を中心にして,共同体を作った.部族ごとにばらばらに伝承があったが,それをうまく混ぜ合わせたのがユダヤの神話だということになる.そうすると,まるで,一神教というものがイスラエルという遊牧民族に自然発生したようにみえる.しかし,遊牧民族の中で一神教が生まれるというのは理解しがたい.もし遊牧民族に一神教が生まれる性質があるというなら,世界中に生まれていただろう.「専制君主が人民に契約を命じる」という形を取っているのだから,エジプトや,あるいはバビロニア,ヒッタイト,アッシリアなどのような,当時のオリエントの大国の影響を受けたと考えるのが自然だろう.
「主 == アドナイ or アドーナイ == アトン」という珍説はなかなか面白い.フロイトが初めてそれを言ったというのも面白い.出エジプト記や申命記の中の「主」を「アトン」で置き換えると,すらすらと意味が通るところがいくらもある.例えば出エジプト記 6:2~
神はモーセに仰せになった.私はアトンである.私は,アブラハム,イサク,ヤコブに全能の神として現れたが,アトンという私の名前を知らせなかった.私はまた,彼らと契約を立て,彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した.私はまた,エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き,私の契約を思い起こした.それゆえ,イスラエルの人々に言いなさい.私はアトンである.私はエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し,奴隷の身分から救い出す.腕を伸ばし,大いなる審判によってあなたたちを救う.そして,私はあなたたちを私の民とし,私はあなたたちの神となる.あなたたちはこうして,私があなたたちの神,アトンであり,あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る.わたしは,アブラハム,イサク,ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ,その地をあなたたちの所有として与える.私はアトンである.
ヨセフが仕えたエジプトの王がイクナートンだったとする.イクナートンは,エジプトの伝統的な上流階級の人々ではなくて,ヨセフのような寄留者たちを自らの改革に抜擢したかもしれない.その見返りとして,当時エジプトの領土の一部であって,ヨセフたちがかつて寄留していた,辺境の地カナーンをやる,という約束をしたかもしれない.これはごくありそうな話である.イクナートンという人は地方で反乱が起きても鎮圧したりせず,放っておいたくらいだから,イスラエルを自分の言うことを聞いてくれた現地人にくれてやる,ということくらいは言ったとしてもおかしくない.というかこれは封建制度そのものだ.
ところがイクナートンの改革は失敗し,ヨセフらは奴隷の身分に落とされた.ヨセフの子孫はイクナートンとの間の「契約を思い起こし」,エジプトで奴隷となっているよりはと,イスラエルを目指して脱出したのではないか.つまりイクナートンの宗教改革は確かに一神教というものを創始したのだが,それを「神との契約」という形に完成させたのはやはりイスラエル人なのだ.
ヨセフらの神には名前はなかったのだが,このとき初めて「アトン」という名前が明らかにされた.「主」が一般名詞であれば,「私はあなたたちの神,主である」などというくどい言い方をするだろうか.「主」は本来固有名詞,つまり「アトン」だった可能性は高い.
一神教の起源
今日、ステーキのドンで山川出版の世界史小事典をながめていて、ふとヒラメいたのだが、それはユダヤ教の起源ということだ。山本七平は、ユダヤの一神教は、オリエントの専制君主制が宗教化したものだ、と言っている。また、ユダヤ教はオリエントの多神教の中では唯一例外だ、とも言っている。しかし最も古い一神教というのはエジプトのアトン信仰である。エジプト新王国、第 18 王朝のアメンホテプ 4 世、またの名をイクナートンと言うが、彼の宗教改革によって、世界史の中に忽然と現れたのが、最古の一神教だ。イクナートンの宗教改革は失敗し、彼は BC 1354 年に死ぬ。そのあと第 18 王朝は滅びて、古くからのアメン神を中心とする多神教が復興し、アメン祭司長が王に即位し、第 19 王朝が始まる。この王朝の基礎が固まったのは、BC 1290 年に即位したラメス(ラメセス) 2 世からである。
さて、出エジプトという事件が起きたのがまさに、このラメス 2 世の治世のことだと言われている。
モーセという指導者が(たまたまエジプトに寄宿し)、奴隷階級で圧政に苦しめられていたイスラエル人を率いて、エジプトを脱出し、カナーンへと旅立つのである。
さて我々はここに注目しなくてはならない。一神教というのはいったん成立してしまうと、なかなかしぶとくしつこいものだ。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、皆同じ。ところが、エジプト史では、ただ一代限りのこととして、雲のように消えてしまったことになっている。しかし、ほんとうは、BC 1354 年にイクナートンが死んでも、しばらく彼ら一神教徒は存在していただろう。その中には王族もいれば庶民もいただろう.彼らはおそらくは、政治闘争に敗れたのだから、被支配階級として!つまりは最下層民として、奴隷階級として,存在しており,抵抗運動も行なっていたに違いない.これがイスラエル人なのだ!
BC 1290 年にラメス 2 世が即位し、エジプトの新しい王朝がうまく行き出して、もはや挽回の機会はないと観念したイスラエル人たち、彼ら一神教の信者たち、或いは旧王朝の遺民たちは,自らの信仰と自由を守るために、エジプトを脱出したのだ。ピューリタンが新天地を求めてアメリカに渡るようなものだ。いわゆるカナーン、いまのパレスチナは、もともとエジプトの領土だったこともあるのだから、
国外逃亡というよりは、地方に反中央政権を作ろう、というくらいのつもりだったかも。
モーセの出エジプトは、イスラエル人がまだエジプト人だったころの遠い記憶をとどめているのだよ。
あまりにうまくすっきりと説明できるので私は驚いたね。このような説がいままで世の中に出てないとは信じられないのだが、誰かどこかで聞いたことはありますか。
あっ,ここにも同じことが書いてある.柄谷行人の本で、フロイトが「モーゼはエジプト人だった」と言ったという話.
補注.第 18 王朝は,イクナートンの次のツタンカーメンで BC 1345 年に終わる.名前でわかるように,彼はアメン信仰に改宗させられている.思うに,イスラエル人が生粋のエジプト人だったか,或いはどちらかというと辺境からきた寄留者だったかというのは微妙だ.旧王朝の王族だった連中はもともとのエジプト人だっただろう.しかし,新しい信仰に共感したのは,昔からのエジプト人というよりは,古い伝統には関心が薄い寄留民たちだったかもしれない.だからアトン信仰は主にエジプトに集まってきた外来の遊牧民たちに広まったのかもしれない.どちらにしろ,明確にどっちということはできないように思う.うーむ.しかし,イクナートンが遊牧民の影響を受けた,とも言えなくはない.
おおっ. これは詳しい.