どうもいろんなものを読んでみて思うに,イスラエル 12 部族のうち,ヨセフの一族(エフライム族)というのは,もともとエジプト人だったか,エジプトに寄留し,半ば隷属した遊牧民(ヘブル人)だったか,あるいはエジプト人とヘブル人の混じり合ったものだったのだろう.あるいはエジプト人の中で零落した階級がヘブル人だったかもしれない.ヨセフの一族はイクナートン派で,一神教の継承者だった.それでエジプトを脱出し,当時のエジプトの辺境であるイスラエルに来た.もともとイスラエルに住んでいた人たちは多神教,というかそれほど明確な宗教を持ってなかった.そこで,エジプトから脱出してきたヨセフの一族の宗教を中心にして,共同体を作った.部族ごとにばらばらに伝承があったが,それをうまく混ぜ合わせたのがユダヤの神話だということになる.そうすると,まるで,一神教というものがイスラエルという遊牧民族に自然発生したようにみえる.しかし,遊牧民族の中で一神教が生まれるというのは理解しがたい.もし遊牧民族に一神教が生まれる性質があるというなら,世界中に生まれていただろう.「専制君主が人民に契約を命じる」という形を取っているのだから,エジプトや,あるいはバビロニア,ヒッタイト,アッシリアなどのような,当時のオリエントの大国の影響を受けたと考えるのが自然だろう.
「主 == アドナイ or アドーナイ == アトン」という珍説はなかなか面白い.フロイトが初めてそれを言ったというのも面白い.出エジプト記や申命記の中の「主」を「アトン」で置き換えると,すらすらと意味が通るところがいくらもある.例えば出エジプト記 6:2~
神はモーセに仰せになった.私はアトンである.私は,アブラハム,イサク,ヤコブに全能の神として現れたが,アトンという私の名前を知らせなかった.私はまた,彼らと契約を立て,彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した.私はまた,エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き,私の契約を思い起こした.それゆえ,イスラエルの人々に言いなさい.私はアトンである.私はエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し,奴隷の身分から救い出す.腕を伸ばし,大いなる審判によってあなたたちを救う.そして,私はあなたたちを私の民とし,私はあなたたちの神となる.あなたたちはこうして,私があなたたちの神,アトンであり,あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る.わたしは,アブラハム,イサク,ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ,その地をあなたたちの所有として与える.私はアトンである.
ヨセフが仕えたエジプトの王がイクナートンだったとする.イクナートンは,エジプトの伝統的な上流階級の人々ではなくて,ヨセフのような寄留者たちを自らの改革に抜擢したかもしれない.その見返りとして,当時エジプトの領土の一部であって,ヨセフたちがかつて寄留していた,辺境の地カナーンをやる,という約束をしたかもしれない.これはごくありそうな話である.イクナートンという人は地方で反乱が起きても鎮圧したりせず,放っておいたくらいだから,イスラエルを自分の言うことを聞いてくれた現地人にくれてやる,ということくらいは言ったとしてもおかしくない.というかこれは封建制度そのものだ.
ところがイクナートンの改革は失敗し,ヨセフらは奴隷の身分に落とされた.ヨセフの子孫はイクナートンとの間の「契約を思い起こし」,エジプトで奴隷となっているよりはと,イスラエルを目指して脱出したのではないか.つまりイクナートンの宗教改革は確かに一神教というものを創始したのだが,それを「神との契約」という形に完成させたのはやはりイスラエル人なのだ.
ヨセフらの神には名前はなかったのだが,このとき初めて「アトン」という名前が明らかにされた.「主」が一般名詞であれば,「私はあなたたちの神,主である」などというくどい言い方をするだろうか.「主」は本来固有名詞,つまり「アトン」だった可能性は高い.