切腹の起源

投稿者: | 2000年10月15日

昔,切腹について調べたことがあったが,また少し調べた.
一番古い記録は「播磨国風土記」で,これはほとんど神話,というか,
何かの象徴的な伝承であって,船に乗っていて嵐に遭い,
女性が腹を切って死んだら海が静まったというもの.
武士の切腹とは何の関係もない.
次にはずっと下って鎌倉初期の説話物語の一つ「続古事談」
1219 年に出たもので,
藤原保輔(やすすけ)という者が982 年に追放処分にあって,
袴垂(はかまだれ)と呼ばれる盗賊或いは
反体制活動(?)のようなものの首領をやっていたのだが,
何故かその後出家し,
仲間のところを尋ねたら検非違使に密告され,985 年に追いつめられて,
腹を切って内臓をつかみだし,
辺りに投げつけた上,翌日死んだ,というもの.

保輔は「宇治拾遺物語」(第125話)にも出てくるので,
こちらの方が有名らしい.
宇治拾遺物語の成立は続古事談と前後するくらいで同じ鎌倉初期.
宇治拾遺では保輔は商人をだまくらかして殺して埋めたり,
その他盗賊などもやったが,死ぬまで捕まらなかったという.
吉川英治も「袴だれ保輔」という短編を書いているという.
私はこの保輔という人物が本当に実在したのか半信半疑だったが,
どうやら本当に居たことは居たような気がしてきた.
保輔の兄に保昌(やすまさ)という人がいることになっている.
というか,この保昌という人は保輔よりはるかに有名人であり,
どこかで聞き覚えのある名前だと思ったらあの和泉式部の夫だったのだ.
但馬,大和,摂津など,いくつかの国の司をつとめたかなり偉い人,
というか,道長の四天王の一人である.
もし保輔が保昌の弟であれば,保昌自身がまず相当な権力者だし,
また道長の庇護も当然あっただろうから,
検非違使に捕まって自害するなどいうところまで行くだろうか.
保輔が反体制だったというより,兄の権勢を笠に着て暴れていた,
という方がわかりやすいのだが.

で,問題は本当に保輔が切腹第一号と認定できるかどうかだ.
985 年のできごとが 1219 年に記されたのであるから,
これは同時代の資料とは言い難い.
130 年以上の隔たりがある.
かなりあやしい.
当時,保輔は説話として語られるほど有名な,
しかし伝説的な大盗賊だったわけだ.
であるから,鎌倉時代のもっと小者の盗賊の捕物話がこの伝説的盗賊に投影され,
説話化されたとも考えられる.
今昔物語などを読んでもわかるように,
説話物語というものは噂話や民間伝承のたぐいなのだ.

義経記などの軍記物というか,おとぎ話によれば,
義経も切腹したとされ,また同様に為朝も切腹したことになっているのだが,
どうもこれらもうさんくさい.
おそらく源平合戦の頃にはまだ切腹というものはなかったのではないかと思うのだが.

切腹が武士の習いとして賛美されるようになったのは,
それよりさらに 100 年下り,
村上義光以来だと思うのだ.
彼は,北条高時の元弘の乱で,主君の護良親王を落ち延びさせるために,
親王の姿形をして,吉野宮の二の木戸の高櫓に登り,
「後醍醐天皇第三の皇子,一品兵部卿親王護良,逆臣のために亡ぼされ,うらみを泉下に報ぜんため,
ただ今自害する有様を見よ」
と言って腹を切った.
そこへ賊兵が集まる隙に,親王はつつがなく逃れた,というもので,
これが 1333 年,北条氏滅亡直前,鎌倉幕府の末期のことだ.

上がおそらく史実だと思うのだが,
「太平記」によればこの記述は若干違っていて,
義光は「吉野山蔵王堂山門」の上で,
「汝ら武運たちまち尽きて自害する時の手本にせよ」と叫んで切腹したことになっている.

W. S. モーム著,西川正身訳「世界の十大小説」岩波文庫,を読んだ.
その中で紹介される小説の一つが「嵐が丘」なのだが,
これは半分だけ読んだことがある.
えーと,つまりキャサリンが死ぬところまで.
これはまさにおそるべき奇書である.
嵐が丘の著者のエミリーのその姉のシャーロットが書いた,
なんか女家庭教師の話などは比べるべくもないのだ.
それはそうと,モームの紹介の中に出てくる話なのだが,
エミリーの兄のブランウェルという人が,病気になって死ぬのだけど,
そのとき

> 彼は死の近いことを知ると,立ったままで死ぬんだと言い,
寝床から起き出すと言って聞かなかったそうである.
彼が死の床にあったのはわずか一日にすぎなかった.
いよいよ死期が近づいた時,
シャーロットはすっかり取り乱してしまったので部屋の外へ連れ出さねばならなかったが,
父親とアンとエミリーの三人は,ブランウェルが立ちあがり,
二十分ほど苦しんだあげく,望み通り,立ったままで死んで行くのを見守っていた

のだそうだ.
実に大した強情っぱりだ.

H. G. ウェルズの「タイムマシン」も読んだ.
当時イギリスというところは階級社会で,社会主義思想が流行ってて,
それを未来に投影した,という感じだ.

藤原保昌は源頼光の叔父,致忠の子,元方の孫.
元方は菅根の子.
菅根は菅原道真に呪い殺されたのだそうだ.
調べててだんだん嫌になってきた.
保昌は,頼光とともに道長の腹心で,頼光が武人であったことから,
後世特に同じように武人であると考えられているようだが,
果たしてそうだろうか.
今昔物語巻19第7にも出てくるようだ.

保昌は,宇治拾遺物語第 28 話にも出てくることがわかった.
その他いろいろ調査中.

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