シチリアとロシア

Expedition of the Thousand

Britain was worried by the approaches of the Neapolitans towards the Russian Empire in the latter’s attempt to open its way to the Mediterranean Sea; the strategic importance of the Sicilian ports was also to be dramatically increased by the opening of the Suez Canal.

面白い話だが、シチリアとロシアの関係がいまいち裏付けが取れない。

まあ、おもしろけりゃ嘘でもかまわんが。

ギュライ軍の謎

ギュライがミラノを出たのが1859年4月29日。ヴェルチェッリに着いたのが5月14日。50kmの行程に2週間かかっている。50kmといえば東京と川越の道のりくらいだ。夏目漱石の『坑夫』という小説では東京から川越まで川越街道を歩いて2日で着いた、などという描写がある。素人が歩いて2日で着くところをなぜ2週間もかけたのか。遅れればフランス軍が参戦してくる可能性があることくらい、ギュライにはわかっていたはずだ。ミラノから100km離れたトリノを目指していたのならば、強行軍で1週間くらいで到着できていたはず。その頃はまだフランス軍はピエモンテに入ったばかりで、すでにトリノに入城していたとしても、態勢が整っていなかったはずだ。オーストリアにとって、開戦後の1週間こそが、勝機であったはず。いくらポー川が氾濫していたからといって、たとえば最悪、タイの洪水のような状態だったとしても、軍隊というものは、歩兵というものはある程度は前進できるはずであって、2週間で50kmしか進めなかったはずがない。謎だらけだ。

一般に負けた方の戦史は失われて残らないことが多い。ギュライがなぜ負けたのか。なぜあんなへたくそな戦をしたのか。わからん。調べようもなさそうな気がする。

もしかすると、ギュライには、トリノにフランス軍が到着した知らせが入っていて、トリノまで行くのをためらったのかもしれない。それで代わりにアレッサンドリアを取ろうと進路を変更したが、こちらも先にナポレオン三世に入られてしまった。そういうことかもしれん。

スイス兵の暴動の真実

以前にナポリ傭兵というものを書いたのだが、こちらにスイス傭兵の暴動についての非常に詳しい資料がある。
The Swiss and the Royal House of Naples-Sicily 1735-1861 A Preview on the 150th Anniversary of the Surrender at Gaeta

One late evening in June 1859, the Court, thinking of rebellious Neapolitans, was panic-stricken when hundreds of mutinying Swiss were approaching in a riot. What happened? In 1848 the Swiss Federal Council abolished the Foreign Service but tolerated the contracts with Naples. In 1859, because of her neutrality, Switzerland forbade flying the Swiss flags in Italy. Not all soldiers, however, accepted the removal of the Swiss cross and wanted the King to restore it. A furious General Schumacher went to meet the drunken mutineers and gave orders to wait on the Campo di Marte for the King’s answer. The Queen, fearless as usual, watched the ghostly scene from her balcony. At dawn, after a rioting night, the mutineers were encircled by the loyal Swiss who, as they refused to surrender, gunned them down. After this incident the King made it optional for the Swiss to stay in his service. A lot went home, many stayed.

つまり、スイス連邦は1848年から傭兵の契約を廃止していたが、両シチリア王国に関しては依然として認めていた。1859年に両シチリア王国は中立性を示すためにスイス国旗の掲揚を禁じた。一部のスイス兵はスイス国旗掲揚を求めた。スイスのルツェルン出身の将軍、フェリックス・フォン・シューマッハー男爵は、酔っ払って暴動を起こした兵士たちに怒り狂い、マルテ広場で王の返事を待てと命令した。翌朝、降伏を拒んだ暴徒たちは王に忠誠を誓うスイス兵たちに取り囲まれて銃撃された。この事件の後、王はスイス兵たちに兵役にとどまるかどうか自由にさせた。多くは去ったが、多くは残った。

フランチェスコ2世 (両シチリア王)

軍備面では長年にわたって国王の親衛隊を務めてきたスイス人傭兵隊の大規模な暴動が発生している。フランチェスコ2世は傭兵隊に待遇の改善を約束して彼らをなだめた後、軍に命じてスイス兵を皆殺しにした。暴動を鎮圧するとフランチェスコ2世はスイス傭兵隊の廃止を宣言した。

この記述は非常に間違っていて、誤解を与える。英語版の

a part of the Swiss Guard mutinied, and while the king mollified them by promising to redress their grievances, General Alessandro Nunziante gathered his troops, who surrounded the mutineers and shot them down. The incident resulted in the disbanding of the whole Swiss Guard, at the time the strongest bulwark of the Bourbon dynasty.

も、実状を正確に言い表しているとは言いがたい。スイス兵は長年両シチリア王国に忠実に仕えており、その中には将軍になったものや、男爵1に叙任されたものさえいた。つまりナポリに永住して貴族になったものすらいたということだろう。暴徒となったスイス兵を他の忠実なスイス兵たちが銃撃して鎮圧した、というのが正しい。

追記: ウィキペディアの記事で当該箇所はすでに削除されたか編集されているようだ。

ガエータの戦い

[Siege of Gaeta (1860)](http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Gaeta_(1860))を読んでいたのだが、

> Some of the Sicilian troops were Swiss soldiers.

などと書いてある。
スイス傭兵はすべてフランチェスコ二世によって解雇されたのではなかったのか。
スイス傭兵からなる親衛隊は解散したが、スイス傭兵の一部は王軍に残ったということか。
なかなかしぶといなスイス傭兵。

多分、真相はこんな具合だっただろう。
スイス傭兵からなる親衛隊の中でも、王党派と統一派が居た。
統一派はイギリスやサルディーニャにそそのかされて「待遇改善」という名目で1859年6月7日暴動を起こした。
王フランチェスコ二世は、待遇改善を約束してなだめたが、王軍の将軍Alessandro Nunziante によって鎮圧された。
王は、親衛隊の維持を断念し、解隊した。
しかし、なおも王に仕えたいと申し出たスイス傭兵を王軍に編入した。
彼らはナポリを落ちた王とともにガエータ要塞に立てこもり、最後まで王とともに戦った。

鉄道と戦争の歴史

とりあえず調査中。

[History of railways in Italy](http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_rail_transport_in_Italy)

> At the declaration of war, there were no French troops in Italy, so Marshal François Certain Canrobert moved in to Piedmont in the first massive use of railways.

[Grand Crimean Central Railway](http://en.wikipedia.org/wiki/Grand_Crimean_Central_Railway)

[Mont Cenis Pass Railway](http://en.wikipedia.org/wiki/Mont_Cenis_Pass_Railway)

[フレジュス鉄道トンネル](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%B9%E9%89%84%E9%81%93%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB)

パルムの僧院

『パルムの僧院』を読もうと思うのだが、なかなか進まない。
『赤と黒』とあわせてよんでみるとわかりやすいのだが、スタンダールで出てくる「私」というのは作者自身のことだ。
今の小説で「私」というのは主人公の一人称であることが多い。
全然違う。

それから、当時のオーソドックスな小説というものは、主人公が生まれる二、三年前から書くものだったらしい。
そういえば源氏物語もそんな構成になっているわけだが、
これも現代の読者にしてみればわけわからない。
今の小説は多くの場合、いきなり主人公が現れて、主観視点的に語り始めるからだ。
桐壺を飛ばしていきなり箒木から始まるようなものだ(実際、箒木の成立が一番古く、桐壺は一番最後に付加されたという説がある)。
たとえ記述は三人称的であったとしても。

私も、最初は誰が主人公かわからない書き出しをするのが好きだ。最後まで読まないと実は誰が主人公かわからない。
あるいは、冒頭で主人公の役割を持たされているが、実は本論は別にあると言うような。

例えば『千夜一夜物語』の主人公は、一見シャフリヤール王とシエラザードのように見えるが、
本論はシンドバッドの冒険だったりする。
『千夜一夜物語』のあらすじは、王様とお姫様が千と一日の間、物語をして暮らしました。で終わりだが、
それではこの話の内容を何も反映していない。
つまり、入れ子の枠構造になっているから、一番外側の枠について説明しても、物語の内容を表したことにならないからだ。

しかし、現代の読者はそういう物語には慣れてない。
いきなり主人公が現れて、彼もしくは彼女に感情移入できないとそれ以上読者はついてこない。
そういうごくシンプルなわかりやすい構造になってないとついてきてくれない。
漫画やテレビのドラマと同じだ。
嫌な時代である。

『パルムの僧院』だが、ナポレオン戦争やイタリア統一戦争に予備知識や関心がないと、読むのは辛いだろうと思う。
さっぱりどこが良いのかわからないはずだ。
逆にあると、とても面白く読めるだろうと思う。

朝早く目が覚める。

酒を飲まないせいか、夜中に目が覚めてしまう。
五時とか五時半ならそのまま起きて仕事をするのだが、二時や三時に目が醒めると、どうしたものかと悩む。
酒、特にビールなどは利尿作用があるから割と早い時間におしっこが出てしまうが、
酒を飲まないと夜中にだらだらとトイレに立つことになる。
では水分をとらなきゃよさそうなものだが、水で腹をふくらませる方が満腹でカロリーも低いのだ。
単に年をとっただけかもしれんが。

仕方ないので、だいたい四時に起きて、夜は八時か九時に寝るようにしようかななどと思う。

私が小説を書くようになってまだ一年半も立たないのだが、一年以上前に書いたものを読むとすっかり忘れていて、
特に細部の描写などは完全に忘れているので、読み直すと新たな感動がある(笑)。
ああ、こんなこと書いてたんだふーん、というような。
ブログにもそんなことを感じていたが、小説でも同じ。
今書いている小説も早く忘れてしまって読み返してみたいものである。

世の中には、商業主義というものがあって、一方でかつて日本には終身雇用とかマル経などの社会主義思想というものがあって、
昭和末期のバブルの頃それらが組み合わさり、イビツな形の社会現象となったのだが、その中にいた我々は、
それがイビツだとは感じずに、ごく当たり前の世の中であり、世の中とはそういうものだ、と感じ、
また、それを他人や年下にも、「老婆心」というような言葉によって普遍化しようとした。
そしてその頃の異常な戦後昭和というものが心の原点みたいに思う人も多いが、単なる現初体験に過ぎない。

日本社会主義は去った。
震災があって、入院で食事制限などしてみると、その商業主義というのが単なる営業・セールスのたぐいであって、
別にそんなものはまったく無視して生きて行って何の問題もないということがわかる。
日本の経済にとっては必要なことかもしれんが、私個人の生活にはなんら関係のないものだ。

世の中には、司馬史観というものがあって、何か日本の明治維新というものが世界史的にも特別であり、
したがって日本人というのも何か特殊なものであり、
それは明治維新によって初めて発明されたかのように思えてくるのだが、
その考え方は根本的に間違っている。

『デーテ』など書いていて思うが、日本の明治維新というのは、イタリアやドイツの統一運動とそっくりだ。
伊藤博文がドイツを維新のモデルケースとしたのだから当たり前ではあるが、どちらかといえば、
イタリアと比較した方がよりわかりやすい。
イタリアと日本はまったく歴史的背景は違うのだが、ローマ教皇という宗教的権威があって、
同じイタリア語を話すが、文化は北と南で全然違い、
諸侯が分立割拠している、という状況。
しかし、産業革命によって、地方分権よりも、中央集権の方が都合が良い。
諸侯が割拠するよりも、民族とか言語ごとに大きくまとまった方が商圏を形成しやすい。
ということになって、イタリアもドイツもあっという間に国民国家になっていった。
このとき初めてイタリア人とかドイツ人というものが生まれた。
日本人というものが生まれたのとまったく同じ理由だ。

フランスは国家と民族が割と昔から一致していた。
イギリスやロシアもそれに近い。
アメリカは人造国家だ。
これらを参考にして、アジアという地域で見ると、日本の維新だけが特殊なように思えてしまうが、
実際には、日本は、ドイツやイタリアなどで起きたことを、十年遅れくらいでなぞっただけなのである。
日本固有の精神論など交えず、まして武士道などではなく、単なる社会現象と見た方が正確だ。

だから、明治維新を教えるときには、イタリア統一戦争やプロイセンの歴史を並行して教えるべきだ。
イギリスやフランスなどと比較していては、何がなにやらわからなくなってしまう。
だけど、イタリア、ドイツはかつての枢軸国だったせいで、余計にマスクがかかって見えにくくなっているよね。

カスティリオーネの戦い

Chiese は「チーゼ」ではなく「キエーゼ」と読むのだった。

カスティリオーネ戦に出てくるメドラノの丘 (Monte Medolano) と言うのは、ソルフェリーノ戦のメードレ (Medole) のことか。

マントヴァはミンチョ川の湿地帯の真ん中に作った要塞だった。
四方を囲む湖は、スペリオーレ湖、メッツォ湖、インフェリオーレ湖、パジョロ湖と呼ばれたが、
パジョロ湖だけは18世紀末に干拓されたという。
パジョロ湖を干拓してしまうと、要塞を完全に囲むことができない。
要塞としての機能を捨てたということか。あるいは、時期的に、ナポレオンが意図的そうしたのか。
あるいは自然と干上がってしまったのか。
あるいは、籠城戦というものが近代戦に合わなくなったのか。

いずれにしても、イタリア統一戦争の頃には、マントヴァはもはや湖に囲まれた難攻不落の要塞都市ではなくなっていた、
ロンバルディアにおける戦略的拠点ではなくなっていた、ということだろう。

アルプス猟兵隊

アルプス猟兵隊 (Hunters of the Alps) というものがある。
これはガリバルディが編成したフランス・サルディーニャ連合軍の別働隊であり、
ソルフォリーノ戦と並行してスイスに近いミラノ北部でオーストリア軍と戦い、撃破。
これがのちのシチリア上陸の際の赤シャツ隊となった。
名前が紛らわしいが、しかし、明らかにこれはスイス傭兵ではない。