碧海青天夜夜心

いいちこのキャッチコピーに見つけた。李商隠の嫦娥という詩。

雲母屏風燭影深
長河漸落曉星沈
嫦娥應悔偸靈藥
碧海青天夜夜心

わかるようでわからない。長河が天の川だというのはわかるのだが、夜の情景かと思うと青天とある。夜空を青天などというだろうか。
解せない。
「夜夜心」というのがわけわからない。毎夜の心情、ということか。独特な叙情的な詩を作る人だったのだろう。

高家の真相

『上野介の忠臣蔵』を読み進めてみたのだが、
吉良義央が畳の縁の模様が有職故実と違うから取り替えろと命じたとか、
そんな細かな家元みたいな指導を浅野長矩にしたのだろうか、
それが遺恨なのか、
非常に疑問だ。

古来天皇家と武家の間には遠い身分の隔たりがあった。
武家というものがないときには天皇と庶民の仲介をするのは公家などの貴族の仕事。
北条氏が頼朝を必要としたのは頼朝が貴種であって、
天皇と武家の間の仲介役として貴重な存在であったからだ。

足利氏もまた天皇家と武家の間を仲介する貴種として地方の下級武士らに重宝だったのである。だから御輿に担がれ幕府の将軍となったのである。

それは、時代が下って徳川の世になっても同じであって、足利宗家は絶えてしまったが、
分家がいくらも残っていた。一色、今川、吉良などがそうである。
徳川氏は天皇家と武家の間を直接仲介するほど身分は高くない。
官位官職はもらえたかもしれんが出自が怪しすぎる。
というか官位官職をもらうために仲介役が必要で、
そのために足利氏の正統な血を引いている吉良氏などが必要になったのである。
つまり天皇家と徳川氏の間の仲介をするために足利将軍家の血統を保っている吉良氏などのいわゆる高家が必要になったのである。
徳川氏が足利氏を実力で排除してとって代わった、という発想になりがちだがそれはまったく当たってない。徳川氏はもし足利宗家が残っていたら、やはり彼を幕臣として重く用いたのに違いない。信長が義昭を利用したように。

高家は堂上公家的に単に有職故実に詳しいからというので徳川氏の旗本になったのではない。重要なのはその知識ではない。知識などは身分の低いものでも学べばいくらでも身につけることができる。吉良氏が重要なのはその血筋によるものであり、
誰も吉良氏の代わりにはなれないのだ。

だから、義央が長矩にいちいち畳の縁の模様まで口出ししたなどというのはなんか違和感がある。義央は高家、長矩は五万石の大名である。畳のことでいちいち諍いしたりするだろうか。
遺恨があるにしても全然違うことだったように思う。遺恨と言っているが義央はいちいち身に覚えがないと言っている。もしかして恥辱を受けたのは長矩本人ではなく長矩の父であったかもしれん。そっちの方がずっと筋が通りそうな気がする。
遺恨というのは普通は親の仇とか積年の恨みというものであろう。
たまたま勅使応接の仕事を任されて、その上司が吉良で、上司に腹を立ててカッとなったというのが遺恨であろうか。あまりに戦後日本的な解釈ではないか。

いずれにせよ、足利将軍家の血を引くものがいきなり江戸城本丸中奥辺りの廊下で、無抵抗の幕臣に切りつけ、重傷を負わせたのだから、いくら大名とはいえ、長矩が切腹になるのは仕方の無いことだと思う。また、忠臣蔵はあまりにも有名な事件だから、もうこれ以上、遺恨とはなんであったかなど調べても何も出てこないのだろうなと思う。

ただ、義央が何かごちゃごちゃと古今伝授のようなことにこだわっていたというのは、まあ間違いなく誤解なんじゃないかなと思う。

ハイディの真相

ドイツ語版Wikipedia Sargans駅の歴史 など読むとわかるが、チューリッヒからサルガンスまで鉄道が通ったのは1875年。
ハイディの作者のヨハンナ・シュピリは弁護士の夫と一人の息子とともにチューリッヒに済んでいて、1871年から執筆活動を始めていた。

おそらくハイディの中で作者ヨハンナに一番近いのはクララのおばあさんだろうと思う。
シュピリ一家は1875年以降に、鉄道でラガーツ温泉に夏の保養に来ていたに違いない。
ラガーツ温泉の当時の最寄り駅はサルガンスだったはず。
そこで、シュピリの担当になった住み込みの仲居と懇意になる。これがおそらくはデーテのモデルとなった人物。
ヨハンナは仲居からラガーツ郊外のマイエンフェルトの話などをいろいろと聞く。
サルガンスの隣駅のLandquart駅まで行き、そこから徒歩で Malans、さらに山の上の炭焼き小屋までハイキングしただろう。
ここまではほぼ確実だろうと思う。

そこから先、その仲居の女に姉夫婦がいて二人とも死んでしまったから、
その一人娘の姪を引き取ったのかどうか。
仲居は温泉を辞めて都会に働きに出たかどうか。
姪もやはり女の紹介で都会に奉公に出たかどうか。
姪が出戻りになったかどうか。
姪の祖父が傭兵だったかどうか。
まあそれに近い事実はあったかもしれない。
それと、ヨハンナが子供の頃に詠んだフォンカンプの原作が合わさってハイディという小説になった。ヨハンナは1879年に一箇月でハイディを書き終えている。もしかすると執筆した場所はラガーツ温泉だったかもしれない。

そうすると自然とラガーツ温泉、プフェファース、マイエンフェルト、マランスなどが舞台となるストーリーができあがる、というわけである。

ヨハンナは子供の頃グラウビュンデン州都のクールにいたことがあるという。
クールはドムレシュクに近い。
ドムレシュク関係の要素、たとえばアルムおじさんに関する逸話などは、そのころに仕入れた可能姓がある。

栃木弁と群馬弁

群馬には訛りがない。栃木や茨城は訛りがひどいという。いわゆる東北弁だ。
群馬に近い長野にも訛りがないという。
静岡も神奈川もけっこうなまっている。

東京の山の手言葉が長野群馬から来たということを意味している。
なぜか。
ずばり、ここが足利氏の故郷だからだ。
足利幕府発祥の地だからだ。
こんなへんぴなところの言葉が日本の標準語となったのだ。
それ以外考えられない。

足利市は厳密に言えば栃木だが、ほとんど群馬である。
栃木でも訛りがきついのは茨城に近い方だろうと思う。
私は足利市に行ったことがないのだが、
ここの人たちは正確な標準語を話しているのに違いないと思っている。
少なくとも群馬の高崎や前橋あたりの人の言葉は自然と標準語になっている。
また、訛りのきつい栃木県人も知っている。

マイエンフェルト駅は無かった?

ハイディのドイツ語原文を検索しても、Bahnhof Maienfeld というものは出てこない。
Bahnhof という単語は一箇所だけ出てくる。
ドイツ語の Wikipedia を調べていると、どうもマイエンフェルト駅とかラガーツ温泉駅などというものは当時はなかったらしく、最寄り駅としては Bahnhof Landquart というものがあるのみ。
この Landquart というのはマイエンフェルトからライン川をさかのぼって支流がドムレシュクとプレッティガウに分かれる分岐点にある。
ていうかマイエンフェルトというよりはプレッティガウという方が近いと思う。
思うのだが、Maienfeld と Landquart の間に Malans とか Jenins という小さな集落がある。これらがデルフリのモデルなのだろう。
そして、山小屋からデルフリを抜けてLandquart駅に向かったとすれば、Malans が一番デルフリの場所としてはふさわしいように思われる。

Landquart駅が出来たのは1858年だが、このときグラウビュンデン州の州都Churからサンクトガーレン州までライン川沿いに鉄道が延びただけであり、途中 Sargans からチューリッヒまで鉄道が延び、これによってフランクフルトとマイエンフェルトの間が鉄道で結ばれたのは 1875年のことらしい。

ラガーツ温泉ができたのは 1870年のことである。
フランクフルトからお金持ちがラガーツ温泉まで保養にきたというのは鉄道できたのに違いなく、それは1875年から後となる。
となるとハイディがアルムおじさんに預けられたのは1876年以降となり、このときハイディが8才であるから、ハイディの生まれた年はやはり1868年くらい、ということになる。

まあともかくクララのおばあさんは開通したばかりの鉄道でラガーツまで遊びに来ていたというわけだ。
観光客はたぶん、Landquart駅ではなくて Sargans駅からラガーツに馬車か何かで移動したのだろうと思う。


追記: Bahnhof Maienfeld ができたのは 1858年である。

吉良氏と上杉氏

清水義範は名古屋の出身なので吉良氏にはかなりシンパシーを感じているようだが、
その「上野介の忠臣蔵」を読んでみると、彼でさえ、
吉良氏がなぜ武家の中で家格が異様に高いのか、
ということをうまく説明できていないように思われるのである。

吉良氏が清和源氏であり、八幡太郎義家の子孫であり、
足利氏から分かれたから家格が高い、
というところまではわかっているようだ。
でもそれだけじゃほとんどすべての日本人ははあそれがどうしたで終わってしまうだろう。

吉良氏は足利幕府時代には足利御一家ということで対等扱いだった。
武力も広い領地ももってないが、とにかく足利氏と同じ扱いを受けた。
足利将軍家は断絶したが、吉良家は残った。

それに比べると上杉氏は尊氏の家臣というにすぎない。
関東管領どまりだ。
毛利や島津は頼朝の家臣というに過ぎない。
つまりは源氏の家臣であり、吉良氏はまっとうな源氏だから全然格上ということになる。

しかも徳川氏は源氏を自称しているが、それが大嘘であることは公然の秘密である。
本家本元の源氏は吉良氏なのである。実力ならともかく家格であれば頭が上がるはずがない。
その上、徳川氏は足利氏の子孫、つまりこの場合は吉良氏から、
室町時代の幕府制度をあまさず継承したくて仕方なかった。
教えを請う立場である。
だからますます低姿勢にならざるを得ない。
この、江戸幕府が室町幕府の徹底的な真似(武威という意味ではない。特に天皇家からもらう官位官職やら公家との意思疎通やら)で出来ていることを認識しておらねば、
なぜ徳川氏が吉良氏を厚く遇するかわかりようがない。
ただ、赤穂浪士の頃にはもうほとんど徳川幕府は足利幕府の引き継ぎを終えていただろうから、
そろそろ高家などというものは要らなくなりつつあっただろう。

清水義範は

> 家の格では吉良家は上杉家にいささかもひけをとるものではないのだ。

などと言っているが、これは間違っている。
家格ということで言えば吉良氏は上杉氏よりも圧倒的に上だ。
吉良氏が上杉氏を乗っ取ろうとか、そんなことをするはずもない。
したければ室町時代だろうと戦国時代だろうととっくにやっているはずだ。
吉良氏はずっと昔に公家化してしまったので、そんな武家みたいな発想はないのである。

> 吉良家はいわゆる正式の武門ではない。将軍家が京の朝廷とつきあう時の折衝役であり、そういう場面でも正式の作法の指導役であった。だから武家というよりはむしろ公家に近い感覚なのである。

嘘ではないが非常にわかりにくい説明だ。
頼朝は本来公家であり、足利氏も公家である。清和源氏という王族であるから公家である。
しかも武家の棟梁だから武家でもある。
徳川将軍家と朝廷の折衝役というのはつまり高家に足利幕府の伝統が伝わっているからであり、
それは足利氏の子孫だからなのだ。
清水義範ですらきちんと認識してないのだから普通の日本人がわかるはずがない。

足利嫡流に比較的近いのは一色、渋川、斯波、石堂、今川。
少し遠くて細川、仁木。

> (足利)将軍家に次ぐ家柄といわれ、権勢並ぶもののがないほどだった。

それはどうだろうか。たぶん吉良、今川、一色はいずれも高家だ。足利氏だからだ。
さほどの優劣はなかっただろう。
実力や権力ならば細川氏や今川氏の方がずっと上だっただろう。
つまり、吉良氏というのはすでに室町時代から異様に家格は高いが権力を持たない、
武家の中の公家のような存在だった、というあたりが当たっているのではないか。

なぜそうなったはわからないが、おそらくは、足利氏の分家の中で比較的所帯の小さなところが本卦還りして公家に戻った、ということではなかろうか。

西遊記とインド映画

のんびり西遊記など読んでいたのだが、なぜかインドのめちゃくちゃなストーリーのCG映画を思い出した。
思うにこれらは根っこは同じなのかもしれない。
西遊記はどう考えてもこれは道教、というよりヒンドゥー教かなんかの影響が濃い。
こんな無茶なストーリーは中国土着のモノではなかろう。
中国の大地から自然に沸いてくるような物語というのはやはり三国志演義とか水滸伝みたいなものではなかろうか。西遊記はかなり毛色が違う。
天竺にお経をとりにいく、というのとか閻魔大王とか、こういうのはインドの影響で中国に生まれた文学ではなかろうか。
そしてインドでは、手が何千本何万本に分かれて戦い合うみたいな。
毛を吹くとその化身が何千体何万体もできるみたいな。
千手観音的なおとぎ話がいくらでもあるのではなかろうか。
それを3DCGで忠実に再現すると今のインド映画みたいになるのではなかろうか。

解説追加

[アルプスの少女デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196/)が未だにPVを伸ばしていて、
ほかのはほとんど読まれてないか、
デーテのPVが特に多かった時についでに読まれているという感じだ。
googleで「デーテ」で検索すると上位二番目に来るところまで来た。
他の Yahoo や Bing ではこうまでならない。
思うに Yahoo や Bing などの順位付けは割と static だが、
google は positive feedback がかかっていて、
アクセスが多いところはすぐに順位をあげてますますアクセスが増える、
というサイクルになっているのではなかろうか。

デーテが牽引となって他のも読まれると非常に嬉しいのだが、
実際には今まで一度も本が売れたことがない。
そこがむなしいとも言えるが、今のところ様子見するしかない。

で、昔はデーテには長い長い解説が付いていた。初期バージョンからついていたが、ある日付けるのをやめた。
本文だけで楽しめるできになったと思ったからだが、
最近加筆していくうちに脚注をどうしてもつけたくなり、
脚注つけるんなら解説もあったほうがいいかとか、
解説ないと、検索で来たひとがなんでこんな小説書いたんだろうと不思議に思うかもしれんし、
とにかく得体が知れないので[解説](http://p.booklog.jp/book/27196/page/1182350)を新たに書き起こして追加した。

三すくみ

室町時代の勅撰集を、滅び行く王朝文化の最後の残照、などと表現することがある。
応仁の乱で、勅撰集とともに王朝文化は途絶した、王朝文化とともに寿命を終えたと。
いくら延命措置を施しても無駄だ。
これは丸谷才一的解釈。

正岡子規は、だいたい同じだが、和歌は家元制度の伝統芸能みたいになってしまって、
過去の負の遺産をひきずっているだけだと。
新しく改革しなきゃいけないと。
新しい明治の和歌を創らないと。
名前も短歌と変えよう(伝統芸能の家元制度がダメなら歌舞伎や能や落語や生け花やお茶はどうなってしまうのだろうか。
問題の本質はそこではないと思うのだが)。

ま、だいたい、新古今よりあとの勅撰集はこんなふうにおおざっぱに語られることがおおい。

そうではないと最近思い始めた。

室町時代の勅撰集というのは、それより前の勅撰集とはまったく性質も性格も違うものだった。
それは、将軍家と天皇家と公家が運命共同体となり、三位一体となり、ある意味では三すくみとなって、
日本を統治していくという儀礼に化したのであり、従ってその内容や歌のできばえなどというものは、
ほとんど顧みられなくなったのである。
逆にほんとに芸術肌の人にしか歌が詠めないようだと、それは儀礼としては都合が悪い。

足利氏が天皇に執奏し、天皇が公家に綸旨を下し、公家が企画編集し、最後に三者が一同に介して歌集の完成を祝う。
それを武家、公家、天皇家で回覧する。
実に良くできたシステムだ。

なんでもかんでも足利幕府の真似をした徳川幕府も、勅撰集だけは真似しなかった。
実に不思議だが、おそらくそれは徳川氏の都合というよりも、天皇家や公家が嫌がったためだろう。
足利氏ならともかく徳川氏に和歌をいじくり回されるのは嫌だ、と。
これは宮中行事の一種であり、公家マターだから、武家は来るな、と。
足利氏のときはそんな拒絶反応はなかったのだが。何しろ足利はかなり正統な源氏だから。
徳川も源氏だと言ってるがそれ嘘だから。
だから勅撰集は途絶してしまった。
ただそれだけのことなのだ。

京極為兼あたりまで、和歌は、沈滞すると改革者が現れるなどして、常に自助努力で再生してきた。
しかし室町時代になるとそれが政治システムの三位一体にがっちり組み込まれてしまったために自己再生能力を失った。
王朝文化が死んだというのとはちと違うと思うのだ。

そして、足利幕府がなくなるや、武家や町人商人らが勝手に和歌を詠むようになり、
逆に江戸時代末期には和歌の一定の隆盛を見た、それが明治年間における和歌の復興の直接のエネルギーになった、
と私は思う。
大正以後衰退したのは、江戸期の原資を使い果たした上にそれに変わるものを生み出せなかったからだ(むしろ過去の遺物としてやたらと粗末に扱った)。
だから、私は、万葉、古今、新古今に並んで、江戸後期をもう少し和歌の流行期として評価すべきだと思うのだ。