ハイディの真相

ドイツ語版Wikipedia Sargans駅の歴史 など読むとわかるが、チューリッヒからサルガンスまで鉄道が通ったのは1875年。
ハイディの作者のヨハンナ・シュピリは弁護士の夫と一人の息子とともにチューリッヒに済んでいて、1871年から執筆活動を始めていた。

おそらくハイディの中で作者ヨハンナに一番近いのはクララのおばあさんだろうと思う。
シュピリ一家は1875年以降に、鉄道でラガーツ温泉に夏の保養に来ていたに違いない。
ラガーツ温泉の当時の最寄り駅はサルガンスだったはず。
そこで、シュピリの担当になった住み込みの仲居と懇意になる。これがおそらくはデーテのモデルとなった人物。
ヨハンナは仲居からラガーツ郊外のマイエンフェルトの話などをいろいろと聞く。
サルガンスの隣駅のLandquart駅まで行き、そこから徒歩で Malans、さらに山の上の炭焼き小屋までハイキングしただろう。
ここまではほぼ確実だろうと思う。

そこから先、その仲居の女に姉夫婦がいて二人とも死んでしまったから、
その一人娘の姪を引き取ったのかどうか。
仲居は温泉を辞めて都会に働きに出たかどうか。
姪もやはり女の紹介で都会に奉公に出たかどうか。
姪が出戻りになったかどうか。
姪の祖父が傭兵だったかどうか。
まあそれに近い事実はあったかもしれない。
それと、ヨハンナが子供の頃に詠んだフォンカンプの原作が合わさってハイディという小説になった。ヨハンナは1879年に一箇月でハイディを書き終えている。もしかすると執筆した場所はラガーツ温泉だったかもしれない。

そうすると自然とラガーツ温泉、プフェファース、マイエンフェルト、マランスなどが舞台となるストーリーができあがる、というわけである。

ヨハンナは子供の頃グラウビュンデン州都のクールにいたことがあるという。
クールはドムレシュクに近い。
ドムレシュク関係の要素、たとえばアルムおじさんに関する逸話などは、そのころに仕入れた可能姓がある。

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