googleにインデックス登録してもらう

サイトマップとインデックス登録リクエストに書いたことと同じなのだが、あれだけではよくわからないと思うので、改めて具体例を挙げて解説してみる。

まずこの https://soul.natsumeshinsha.com というサイトだが、検索されてクリックされることはほとんど無いようだ。それは当たり前で、そもそも検索かけても上位に上がってこないからクリックされるはずがない。上位にあがらなきゃ検索されることもない。ではどうやれば検索上位に上がることができるのか?鶏と卵どっちが先かという話のようにも思える。

上のスクリーンショットは google search console だけれども、2月2日になぜか何度か検索されているのはもしかしたら私が google search console を使い始めたからかもしれない。google console insights を見ても、このサイトがほとんどさっぱり検索されていないことがわかる。

しかしながら最近アクセス数や表示回数は徐々に増えてきている。

2月8日から急にアクセスされるようになったことがわかる。ブログ村のアクセスも最近明らかに増えてきている。

どこがどうというわけではないがじわじわランクが上がってきている。

google search console の「ページ」というところをみるとこのサイトはクロールはされているけれどもインデックスに登録されていないページがたくさんあることがわかる。「クロール済み」というのはつまり検索エンジンが巡回していてページが存在していることは認知しているということ。検索結果に表示されるためにはさらに「インデックス登録」されなくてはならない。つまりgoogleにインデックス登録されていないと、この世の中にそのページは存在しないのと同じ、ということになる。

googleがクロールしてもインデックス登録しない理由としては、インデックス登録する価値がないと思われたのかもしれないし、サイトマップに載ってないので要らないページと判断されたのかもしれない。或いはURLは(パラメータ部分など)違うが内容は重複していると判断したのかもしれない。

ともかくインデックス登録される前提条件として、サイトマップは必ずgoogleに認識されておいたほうが良いだろう。サイトマップに載っているページをクロールしないということもあるようだが、こちらとしては登録されたいページを厳選してsitemapに載せているにもかかわらずクロールすらしてくれないというのであれば、それは明らかに google 側の怠慢だ。

ちなみにここ https://tanaka0903.net の場合、半分以上がインデックス登録されている。なぜそういう違いができるのかよくわからないのだが、ページの古いデータがgoogleに残っているせいかもしれない。ページ数が途中で急に増えているのは sitemap を登録したせいだと思う。

「クロール済み インデックス未登録」を開くと具体的にどのページが未登録なのかがわかるので、マウスオーバーして一番右に出てくる虫眼鏡を押すとそのページのURL検査が出る。

「インデックスに登録されなかった理由」を見てもその理由はよくわからないので見なくて良いです。あるページをどうしても登録してもらいたいときは「インデックス登録をリクエスト」を押して登録してもらう。ただし1日当たり10ページくらいまでしかリクエストに応えてもらえない。

wordpress の場合まずどうしても登録してもらいたいページというのは投稿ページなので、/?p= などとなっているページは全部登録してもらいましょう。/?cat= はカテゴリーのページなので、特に重要なページだったら登録してもらったほうが良いかもしれない。

しばらくするとこんなふうにインデックス登録が完了するので、このページはもうgoogle検索に反映されている。

wordpressは自動的にサイトマップを生成してくれるはずなのだけど、プラグインのせいかうまく作られていなくてはまった。サイトマップは SEO対策のプラグインが勝手に生成することが多く、どのプラグインを使うかあらかじめ決めた上で、適当にやり方を決めると良い。

URL検査というのは一番上にあるテキストボックスにURLを直接ぶちこめばいつでもできる。検査してみた結果、実はクロールもされてなければサイトマップも見つかってないページというのがけっこうある。当然インデックス登録もされていなければ検索結果に出てくることもない。なのでそういうページも一つ一つ見つけてはインデックス登録をリクエストしていく。こうした地道な努力を重ねるとだんだんにアクセスが増えていく、という仕組みになっているらしい。

検索上位に上がってくるかどうかということはまったく別問題なのだけど、そもそもインデックス登録されていても、検索結果に出てくるとは限らない。ページの本文はおろかタイトルですらろくにサンプリングされていない可能性が高いように思われる。インデックス登録されるというのは最初の一歩に過ぎず、その間にいろんな段階があって、やっと検索結果に載るようになり、さらに精進すると検索上位に上がってくる、そのためにはやはりある程度 google に(google workspace とかで)課金するしかないのではなかろうか(google としては検索に課金という言葉を露骨に使いたくないのだろうが)。

なお microsoft にも bing webmaster tools という、google search console とほぼ同じツールがあるので、bingの検索結果にも興味ある人は使ってみると良いと思う。

貝印のカミソリ

私はこれまでカミソリはシックかジレットしか買わないことにしていた。コンビニなどで売っている貝印の使い捨てのカミソリと相性が良くなくて、貝印は買わないようにしていたのだが、シックかジレットぽい見た目の5枚刃のカミソリが安売りしてたので買ってみた。axiaという銘柄だと思う。ちゃんと顔を石鹸で洗い、肌をお湯でふやかした後で剃れば、シックやジレットに劣らぬ切れ味だったのでほっとした。これからは貝印を買おうかと思うが、こういう替え刃式のカミソリは一度買うとたぶん軽く10年以上使うことになるのでもう二度と買わないかもしれない。

ビジネス書

定年退職まであと5年くらいで、その後は無職になるわけだが、下手をすればその無職期間が20年くらい続くかもしれない。何か老後の趣味でも作っておかないと時間がもったいない。逆算すれと、その老後の趣味を準備するのに定年までの5年間をフルに使わなくてはならんことになる(追記。正確に計算すると定年まであと7年だということがわかった)。

最近はソウルフードを手伝ったりして、いろいろSEOの勉強などもした。ブログ村のランキングも上がってきているので効果はある程度あったと思う。

世の中はなんだかんだ言ってビジネスでできている。ブックオフの一番売れている売り場はビジネス書だ。よくもまあこんなにビジネス本を読む人がいるもんだとあきれる。その次に売り場が広いのが漫画だが、日本人はもうビジネス書と漫画しか読まなくなるんじゃないかというくらいに圧倒的だ。

私はできるだけビジネス、というか、営業職から逃げてきた。そのために専門職、技術職、研究職に就いてきたし、できれば独立して作家として飯が食えたらどんなに良いだろうと思っている。しかしながら最近は割とユーチューブで税理士とかマーケッターなどの動画を見ている。ビジネス書というものは、Audible がおすすめしてくる朗読もそうだが、どれもこれもくだらない、課長の朝礼みたいな話ばかりだけれど、中には面白い話をする人もいるし、現場で何が起きているのか非常に興味深い話をする人もいる。そういう人をよって、手作業などしながらラジオ代わりに聴いていたりする。ユーチューブもあれこれ見過ぎてもう見飽きてしまった、ということもあり得る。

私の実家は自営業でもあるし、株も少しやってるし、本の印税ももしかしたら増えるかもしれないし、いろいろやりたいことはたいていやり尽くしたし、ぼけ防止に商売のまねごとでもやったら良いのじゃないかと思うし、暇つぶしにその勉強もしたほうがよいかもしれない。定年後は法務局とか商工会議所とやらにも行ったほうがよいのかもしれない。

近頃のブログはアイキャッチ画像付けて、スマホで撮った写真をいくつも載せて、スマホでちゃちゃっと書いた文章ばかり、どれもこれも似たり寄ったり。ある特定のテーマかカテゴリーに特化して、同じ興味の読者どうしで閉じる傾向があるように思う。多くの場合著者は匿名であり、テーマが複数ある場合はそれぞれのテーマで別のブログを書いたりする。結局はそうした方が(弱小サイトが有名人に対抗するには)コンバージョンとかアフィリエイトとかマーケティング的に有利であって、みんながそういう書き方をするから自然と世の中全体がそういうふうになり、ブログ村みたいな場も作られたのだろう。或いはみんな、自分が書きたいことを書くのでなくて、書くことによって記事をバズらせたり、「いいね」を増やしたりといったことの方が楽しいし励みになるのだろう。だから自分が書きたいことではなくより多く読まれることを書くようになり、それはすでにメディアが昔からやっていることだから、個人のサイトもメディアと似たり寄ったりになっていくのだと思う。テレビにせよ、私は東京MXやJCOMのあまりマーケティングしてない番組のほうがぼーっとみていられる。NHKやキー局なんかはみててイライラしてみてられない。そういうのが嫌いだからブログとかSNSやってたのにそのSNSやブログもどんどん普通のメディアと代わり映えしなくなってきている。

ブログというは私からすれば前世紀の遺物のようにも思えるが、これはこれとして一つの趣味として、けっこう楽しんでやっている人もいるようだから、これからもほそぼそとつづいていくのかもしれない。

じんましん2

唇が腫れて体全身にじんましんが出た件だが、あちこちに出ては消え出ては消えして三日くらいかかった。一番最初にじんましんが出たのが唇だったというだけのことのようだ。

今から思えば、常温で放置していたオートミールを食べたことによる食あたりだったと思う。昔から食あたりでじんましんになることはたまにあった。原因不明でじんましんになることもあったけど、2~3日の潜伏期間の後に食あたりになってじんましんが出た、と考えると腑に落ちる点が多い。ストレスとか疲れだとか原因不明だとかいろいろ言われているが私の場合はたぶん単なる食あたり。

それで、年も年だし、免疫も落ちてきているだろうし、古いお茶など残しても飲まずに捨てるようにした。いずれにしてもかゆいのは不快だ。

今ははや心にかかる雲もなし

花山信勝『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』を読んだ。私がわざわざこの本を図書館から借りてきて読んだのは、東条英機の辞世の歌

今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ

を調べるためであった。この歌は実はすでに『虚構の歌人 藤原定家』にも載せていたのだが、その頃から、この歌が和歌についてそれなりにある程度学んだ人でなくては詠めない歌であることに気づいていた。戦時中、日本人はみんな和歌を詠んでいた。本土決戦が迫ってきて、敗戦の恐怖におびえ、人々は日本古来の和歌を心のよりどころとするようになって、私の祖父でさえも和歌を一日一首詠んだ日記を書いていたのである。

この東条英機の歌は、『虚構の歌人』を書いていた時には気づいていなかったのだが、実は足利尊氏が詠んだ

今ははや 心にかかる 雲もなし 月を都の 空と思へば

の本歌取り、というよりも露骨な焼き直しなのであった。しかしそのことについて私は東条英機を咎めるつもりは毛頭無い。なにより歌をまったく詠めない現代人よりはずっと優れている。東条英機は素人歌人に毛の生えた程度の人だっただろう。同じ時に詠んだ辞世「さらばなり 有為の奥山 今日越えて 弥陀のみもとに 行くぞうれしき」「明日よりは 誰にはばかる こともなく 弥陀のみもとで のびのびと寝む」など見ると、大田南畝の狂歌に近い歌を詠む人だったことがわかる。ならばパロディに近い本歌取りも芸のうちだったわけである。

尊氏の本歌は中先代の乱の最中に関東で詠んだものと思われる。決して戦の歌には見えない。武士の歌にも見えない。しかしながらこれほどよく出来た武士の歌がまたとあろうかと思えるほどよくできた歌である。これほど武士らしい歌はない、とも思えてくる。

もののふの 矢並つくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

なるほどこの歌は実によく出来ている(正岡子規『歌詠みに与ふる書』「もののふの矢なみつくろふ」の歌のごとき鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強きことは並ぶものなくこの歌を誦すれば霰の音を聞くがごとき心地致候、等々)。この源実朝の歌(おそらくは贋作)は武士の歌の絶唱とされている。しかしいかにもわざとらしくしつらえてある。実朝がこんな歌を詠むはずがない、と私には思える。それにくらべて尊氏の歌はどれも素晴らしい。なぜみんな実朝の歌を褒めて、尊氏の歌の素晴らしさに気づかないのだろう。ほんとに不思議だ。

夜空には一点の雲もなく月が明るく輝いている。都で眺める月も、今こうして戦場で眺めている月も同じ月であるから、どこにいようと同じである。尊氏はそれほど京都に執着も愛着もなかっただろう。足利氏の頭領であるからにはどちらかと言えば北関東の足利よりも京都に住むことが多かったのだろうけれども。

アメリカでは従軍聖職者のことをチャプレンという。死刑執行に立ち会う聖職者もチャプレンと言う。死刑囚がキリスト教徒の場合は神父か牧師、ユダヤ教徒の場合はラビ、イスラム教徒の場合にはイマーム、仏教徒の場合には僧侶、などと宗教や宗派によって変わるというのが、宗教国家アメリカの古くからの習わしなのだという。いわゆる教誨師というのもまたチャプレンだが、東京裁判における死刑囚の場合には僧侶が呼ばれた。それが著者の花山信勝であった。彼は死刑囚がみな死ぬ前に仏教に帰依したと書いているのだが、それはある程度割り引いて考える必要があると思う。

死とは単に生の終わりに過ぎない。死後の救いとか魂の不滅など虚構だ。なるほど宗教には美しい側面もあると思うが、死んだ後にも天国があるだの地獄があるだの生まれ変わるだの奇跡があるだの、根も葉もない作り話をでっち上げて、人の精神的な弱さにつけこんでたぶらかすのもいい加減にしろと言いたい。

私ならば死ぬ間際に宗教に頼りたいとは思わない。できれば無神論者として死にたいと思う。死の恐怖を宗教なぞで紛らわしたくない。死ぬと決まってから悔い改めたくはない。教誨師に懺悔して死ぬなんてまっぴらごめんだが、それはまあおいといて、東条英機もまた仏教くさい辞世をいくつか詠んでいる。この「西へぞ急ぐ」も明らかに死後浄土で救われることを願ったものだ。

「これ(「今ははや」の歌)はこの前のものです」と東条英機は言っている。「この前」がいつかはわからないが、死刑判決の言い渡しは昭和23年11月12日には済んでいるのだが、12月6日にアメリカ大審院が訴願を受理しており、死刑執行は自動的に停止された。ところが20日になって訴願を却下し、これによって最終的に死刑執行が行われることになり、23日に執行された。

いずれにせよ、東条英機は12月22日16:00より前に「今ははや」を詠んでおり、他の(思いつきで詠んだ)辞世の歌よりも前に詠んでいたにもかかわらず一番最後にこの歌を取り上げたということは、この歌が自分の辞世の歌であるということを意識して、じっくり考えて用意したものだと思われるのである。いや、この歌がそんな簡単に、即興で詠めるはずがないのである。

戦前教育では南朝が正統で北朝の尊氏は逆賊とされていた。わざわざその尊氏の歌を引いて自分の辞世の歌としたことにはそれなりに深い意図があったのだろう。尊氏の立場と、謀反人、逆賊、戦犯として死んでいく自分の立場に通じるものがある。死を宣告され、歴史の皮肉、真相というもの気付いていたに違いない。

ともかくも、尊氏の本歌は仏教臭さなどない、きりっとした、武士らしい良い歌なのだが、東条英機の歌はそれを仏教くさい、抹香臭い歌に作り替えてしまった。そのことに私は不満なのであるが、しかしそれでも、これはよく出来た歌だと私は思う。和歌としてはともかく狂歌としてみれば相当優れた歌だ。これほどの歌を詠める人はそうたやすくは見いだせまい。

くちびるが腫れた。

夜中の4時頃急にまず下唇が腫れ始めて10分くらいの時間差で上唇も腫れた。体中ほかにもかゆいところがある気がするので、一種の食中毒だろうか。といっても今日は酒も飲んでないし、食事を最後に摂ったのは前日の19:00くらい。ネットで調べてもよくわからん。疲れやストレスのために免疫が落ちていて腫れることもあるという。腫れた箇所はだんだん周りに拡散しつつ、唇自体の腫れは少しずつ引いてる気もするがそうでもない気もする。

仕事のストレスに関しては思い当たるところが多すぎる。

ついでに最近なんだかすごく胸焼けがする。

ガソリン車は臭い。EVはもっと普及すべき。

私はガソリンエンジン車は臭くて嫌いなので、早く滅んでほしいからもっとEVが普及すれば良いのにと思っているが、まず市街地にはEVしか入って来れないようにするとか、人が大勢集まる駅周辺に車で入り込めなくするとか、電動自転車は時速8kmまでしか出ないようにするとか、やらなきゃいけないことは沢山あると思うんだよね。きっとどれも実現しないけどね。

要するに町中であれば非力で数時間しか持たないEVで十分だし電動自転車もゆっくりで良いのだが、ときどき遠出しようとなるとそれではもたない。電気自動車で日本縦断とか怖くてできないだろう。

だから都市部とそれ以外、という棲み分けをしない限りEVは普及しないんじゃないの。というかそういうふうにしてほしい。というか電動アシスト自転車って要するにあれがEVだよね。そしてEV自転車が周りもろくに確認しないで歩道も車道もかまわず疾走しまくるから、世の中とても危険極まりない状態になった。いったいどういう圧力団体が政治家を動かしてこんな社会にしようとしているのだろうか。

ていうかね、歩車分離というか、居住区に車が入れないようにするってのある意味当たり前な理想なんだけど、絶対実現しそうにないよね。それが人間社会ってもんだよね。

雨の日、子供を送り迎えするために駅の入り口に車を横付けにして歩行者の邪魔をするようなやつがいなくなってほしい。社会制度的に。

都心だとあまり感じないが、田舎道だとなんであんなにガソリン(排気ガス)臭いんだろうな。郊外はディーゼル車が多いのかな?

あとあの新宿西口の喫煙所をどかせよ。臭いよ。みんなもっと苦情言おうよ。

ブログカテゴリー

ソウルフードの手伝いをしていて結局このブログも「にほんブログ村」と「人気ブログランキング」に参加したのだが、たとえば人気ブログランキングのカテゴリー見てみると「香道」「華道」「書道」「茶道」或いは「俳句短歌」というカテゴリーはあるが、「和歌」とか「歌道」というカテゴリーはない。「国学」というカテゴリーが無いのはしょうがないとして「国文学」というカテゴリーも無い。どうも私は現代に生きる資格も場所もないようだ。世の中2割の例外はほっといて8割のマジョリティをターゲットにするのがマーケティングだとすれば古文漢文、国文なんて学ぶ必要無いってのはもう最初から答えでてるよね。

それで最近はどちらかと言えば映画やドラマのレビューを書くことが多いので、人気ブログランキングの方は「映画評論・レビュー」「ドラマ考察」というカテゴリーに入ってみた。面白いね、映画はレビューだけどドラマは考察なんだね。違いはなんとなくわかる気もするがわかりたくもない。あとは無難に「日記雑談」「居酒屋」。

ブログ村のほうはシンプルに「酒」だけにしておいた。

どうでも良いことではあるが、このブログは最初は「田中久三」という名で書き始め、それからわけあて「田中紀峰」という名前に変えて、今回「田中紀岑」というのも使ってみた。他にも作曲するときには Kelvin TANAKA という名前を使うことがある。気分でいろいろな名前を使ってみたくなる性格なのである。

左腕だけ筋肉痛

近頃なぜか左腕だけ筋肉痛になり、ずっと治らない。年を取ったからもうこれ以上酷使できないのだろうか。しかし右腕と左腕で左腕だけが筋肉が衰えるとも思えないので、鍛えれば右腕と同じくらい使えるようになるのだろうか。ネットを検索してみたがわからない。ほったらかせばなおのこと筋肉が衰えて筋肉痛になりやすくなるようにも思えるし、しばらく休ませたら治るような気もするし、ほんとにわけがわからない。