マッハ

マッハ見た。
アクションは確かにすごい。
見えないところにトランポリンが置いてあったりとか、
リアクションがオーバー過ぎるとか、
そんなまやかしは一切ない。
もちろんCGも速回しもない。
たぶんブルースリーを超えてる。
しかし、映画としておもしろいかというと、どーかな。
良くも悪くもタイ映画というか。

シュレック2も見たが、なんと退屈な続編だろうか。
また途中で寝てしまった。
そりゃあ3年でCGは見違えるほど進歩したろうさ。
しかしそれがどうしたというのだ。
キルビルとはえらい違いだ。
スパイダーマン2にも悪い予感しかしない。
それはそうとキャシャーンがずーっと貸し出し中で借りられんのじゃー!
キューティーハニーはあまりまくってるのだが。
勝負ありまくりだよな。
つーか、シュレック2をそんなたくさん借りるやついねーよ。
なんだかなー。

アートには社会的なアートもあれば反社会的なアートもある
(非社会的だと言いたいわけではない)。
技術的なアートもあれば非技術的アートもある。
資本主義的アートもあれば共産主義的アートもある。
平均してならしてしまうとアートというものがわからなくなるが、
世の中が無秩序で迷信に包まれるとアートは体制的になったり啓蒙活動と結託しようとするし、
世の中が安定し画一化するとアートは反社会的アナーキズムへ向かう。
アートという純目的的なものがあるのではなく、
むしろアートは社会から積極的に影響されようとし社会を変えようとする
(アーティストが、というよりはアートを愛好する人たちが、といった方がよいかもしれない)。
この点、社会や人間性から比較的自由なのは科学の方であって、
特にもっとも「非社会的なアート」は数学だろう。
アーティストはしばしば数学を拒絶し理解しない。
これは「数学がアートでない」からというよりむしろ、
より社会的な人が(つまり数学を解さない人が)多くアーティストになるからではないか。

アートが「美」や「真実」よりもしばしば「コンセプト」や「哲学」を重視するのも同じ理由ではないか。
コンセプトとはより具体的に「社会的メッセージ」と言えばわかりやすいだろう。
数学者は社会に何かメッセージを送りたくて数学をやるわけではなく、
むしろその正反対だ。
そういう意味では数学は「美しい」が「アート」ではない。
プログラミングについても同じことが言える。
プログラミングは「何かを表現するための手段」であるというよりは、
それ自身がアートだ。
IllustratorやPhotoshopやカメラやコンピュータは「何かを表現するための手段」であるが、プログラミングや数学はそれ自身がアートなのである。
しかしこのアートは社会的でもなく反社会的でもなく体制的でもなく反体制的でもなく、建設的でもなく破壊的でもない。
人を崇高にもさせない代わりに堕落もさせない。
そのようなコンセプトを盛るための器ではく、
従って純粋に目的そのものなのである。
社会から遊離し隔離された純粋目的であるからこそ価値がある。
だからアートに嫌われる。
だから、アートとは呼ばず、技術とかあるいは Hack などと呼んだ方がよいかもしれない。

世の中が技術的に未熟なときか発展途上のときは、
アートと技術の関係が一番良好で、
アートは技術を支援しようとする。
技術が発展した今日ではむしろアートは非技術的で非生産的で原始的な方向へ行きたがるようだ。
アートとしてはそれでよいかもしれないがエンジニアや科学者にとってはたまったものではない。
芸術は科学と対立する位置に置かれることもある。
これはアートだと科学的に説明した瞬間にそれはアートでなくなってしまう。

芸術と科学の融合というが、
芸術が本来もつそのようなあまのじゃくな性格を理解せねばうまく行かないと思う。
レオナルド・ダ・ヴィンチの時代は芸術と技術が未分化であってかつ技術が未発達だったので、技術と科学の蜜月関係が生まれたのだろう。
同じことが現代に通用するだろうか。

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