『吾妻鏡』文治2年4月8日
> 二品並びに御台所鶴岡宮に御参り。次いでを以て静女を廻廊に召し出さる。
これ舞曲を施せしむべきに依ってなり。この事去る比仰せらるるの処、病痾の由を申し参らず。
身の不肖に於いては、左右に能わずと雖も、豫州の妾として、忽ち掲焉の砌に出るの條、
頗る恥辱の由、日来内々これを渋り申すと雖も、彼はすでに天下の名仁なり。
適々参向し、帰洛近くに在り。その芸を見ざれば無念の由、
御台所頻りに以て勧め申せしめ給うの間これを召さる。偏に大菩薩の冥感に備うべきの旨仰せらると。
近日ただ別緒の愁い有り。更に舞曲の業無きの由、座に臨み猶固辞す。
然れども貴命再三に及ぶの間、なまじいに白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を発す。
左衛門の尉祐経鼓たり。これ数代勇士の家に生まれ、楯戟の基を継ぐと雖も、一臈上日の職を歴て、
自ら歌吹曲に携わるが故なり。この役に候すか。畠山の次郎重忠銅拍子たり。
静先ず歌を吟じ出して云く、
> よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき
> 次いで別物曲を歌うの後、また和歌を吟じて云く、
> しつやしつしつのをたまきくり返しむかしをいまになすよしもかな
> 誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。二品仰せて云く、
八幡宮の宝前に於いて芸を施すの時、尤も関東万歳を祝うべきの処、聞こし食す所を憚らず、
反逆の義経を慕い、別曲を歌うこと奇怪と。御台所報じ申されて云く、君流人として豆州に坐し給うの比、
吾に於いて芳契有りと雖も、北條殿時宣を怖れ、潜かにこれを引き籠めらる。
而るに猶君に和順し、暗夜に迷い深雨を凌ぎ君の所に到る。
また石橋の戦場に出で給うの時、独り伊豆山に残留す。君の存亡を知らず、日夜消魂す。
その愁いを論ずれば、今の静の心の如し、豫州多年の好を忘れ恋慕せざれば、貞女の姿に非ず。
形に外の風情を寄せ、動きに中の露膽を謝す。尤も幽玄と謂うべし。枉げて賞翫し給うべしと。
時に御憤りを休むと。小時御衣(卯花重)を簾外に押し出す。
これを纏頭せらると。
「静女を廻廊に召し出さる。これ舞曲を施せしむべきに依ってなり。」
とあるが、廊下で踊ったわけはない。廊下跡に舞殿が作られたというのも変。
しかも今、鶴岡八幡宮には回廊らしきものはないのだから、
当時と今ではかなり構造が違っていたと考えなくてはならない。
回廊というのは普通、拝殿と正門の間にぐるりと巡らし中庭を囲った廊下であるはずだ。
「八幡宮の宝前に於いて芸を施す」とあるから、これは、明治神宮で横綱が土俵入りするように、
静御前は回廊の真ん中の広場で踊ったはずである。
頼朝に見せるために踊ったのではない。少なくとも、形式的には、神前で舞を奉納したのである。
石清水八幡宮は、回廊の中心の広場に仮設舞台が設けられることがあるようだ。
屋根は無い。
おそらくこういうところで、雅楽のような形で伴奏付で舞ったのではなかろうか。
今の鶴岡八幡宮の石段を上がったところにある本宮では、そのような広い中庭を作るような場所はない。
であれば、やはり、石段を下りたところに拝殿、門、回廊があったと考えるべきではないか。
つまり、昔は上宮と若宮(下宮)が直列になっていて、
下宮というのはつまり拝殿のことであり、
拝殿から石段が伸びた上に本殿、正殿、つまり上宮が位置していたのではないかと思う。
でまあなんでそんなことをうだうだ言うかといえば、
『将軍放浪記』で、
> 段葛を進み朱塗りの鳥居を二つ三つくぐると、参道を遮るように舞殿が設けられている。白木造りの吹きさらし、檜皮葺の屋根はあるが壁はない。まるでこの、屋根と四本の柱と舞台で切り取られた空虚な空間が、鶴岡八幡宮の神聖なる中心、本殿であるかのようだ。
などと書いてしまったからだ。
小説はフィクションであるから、舞殿というものも、作者の心象風景でかまわないと思うのだが、
いろいろ調べてみると、今、舞殿とか下拝殿などというものは、おおよそ参道を塞ぐ形であることが多いが、いかにも邪魔である。
昔からこんな配置であったはずはないのではないかと思う。
昔は仮設だったのではないか。
それがだんだんめんどくさいので常設になり、
一番目立つところにあるから華美にもなり、
スポンサーの提灯なんかをぶら下げるようにもなった。
だいたい舞殿の柱は四本というのは少ない。六本、十二本、もっとたくさん、というのもある。
四隅に一本ずつ、四本というのは相撲の土俵とか、能舞台のイメージだと思う。
薪能などは仮設舞台の四隅に柱を立ててしめ縄を引き回すようだが、
だいたいこういうイメージ。
神の依り代となる空間、みたいな。
でまあ、1333年、北条高時が鎌倉で死んだときに舞殿があったかと言えば、
たぶんなかったのだけど、
何度も言うがこれは作者の心象風景ってことでひとつよしなに。