源行家

投稿者: | 2013年4月13日

源行家、為義の十男。もともとの名は義盛。
同母姉に鳥居禅尼がいる。
行家が1141から1143年頃に生まれたというから、彼女は1130年代後半に生まれたのだろう。
夫は熊野別当だが、1173年死去。
平治の乱で行家が熊野に逃れたのが1160年くらい。
熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と称する。

思うに、以仁王はただのフーテンの遊び人であるし、
源頼政は74歳のおじいちゃん。
この二人が以仁王の乱の首謀者だとはとても思えない。
だいたいこの二人は最初にすぐ死んでしまっている。
源平合戦のきっかけにはなっただろうが、実際には、この二人はいてもいなくてもいい。

実際に動いているのは、乱の発起人となった頼政の子「前伊豆守源仲綱」。
仲綱が頼朝と何かの接点があったのは、ほぼ間違いない。
仲綱の弟の広綱と子の有綱は伊豆にいて後に頼朝の挙兵に参加している。

それから源義盛。彼は熊野から京都に戻ると行家と改名し、蔵人にしてもらっている(勝手に名乗ったか?)。
全国に以仁王の令旨を配り歩いた。
為義の妻、行家と鳥居禅尼の母は、熊野の人なのではなかろうか。
一説には熊野別当・長快の娘であるという。

思うに為義と義朝と義盛は熊野の人で熊野人は為義に同情的かもしくは親族同様、頼朝は仲綱と親しく、
木曽義仲の父義賢は為義の次男。
これら為義の子孫や外戚らが仲綱や頼政をそそのかして、
以仁王を担ぎ出した、というのが真相ではなかろうか。
仲綱の妻が誰かわかるともう少し見えてくると思うんだが。
義盛がただぼーっと熊野に20年間いたというのも変だ。
熊野と言えば山伏・修験者の本場であるから、義盛は諸国行脚しながら為義一派の連絡係になっていたのではなかろうか。

でまあ、源平合戦とはいうが、
特に間違いではないが、
本質は平清盛一門に対する、源為義一家の復讐劇、というものであり、
源頼政とかその他の源氏にはあまり関係なかったのではなかろうか。

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