光琳と宗達

岡本太郎は尾形光琳を非常に愛好していて、その理由をいろいろと自ら解説しようとしているのだが、それを読んでもいっこうによくわからない。岡本太郎が個人的に光琳を好きなのは、別に趣味なのでかまわないのだが、それを一般化しようとして、光琳以外の画家やら江戸時代の文化芸術をゆがめて解釈しようとするのは、非常に迷惑で、ちょっと許しがたい気がする。はっきり言って、少なくとも私には、その論理がまったく意味不明なのである。はたして世の中にわかっている人はいるのだろうか?

じじつ、光琳があの絢爛で、心にくいまで力づよい仕事をつくりあげた世界は、元禄年間、日本の近世文化がもっともはなやかに開花した時代です。

これがよくわからない。元禄文化。実際、言論人の中では元禄を褒めて江戸後期の文化をけなす人が一定数いる(渡部昇一などがそれに近いと思う)。元禄文化の代表としてそれらの人々が挙げるのはたいてい井原西鶴と尾形光琳。江戸時代というものは、平安時代から続いて安土桃山で開花し、江戸初期の元禄で最も発展した。その後鎖国の影響で、封建社会の世の中で芸術も文化もいびつに歪んでいき、あきらめ、わび、さび、など、しぶくくすんだ文化がはびこった、というのである。そうした主張をする文化人はたいてい明治維新によって日本が世界に開かれたことによって、日本の文化や芸術は再び活気を取り戻したのだと言いたい人たちが多い。

そうなのだろうか。たぶん、安土桃山というのは、信長が築いた安土城とか千利休の金の茶室とか、そういうイメージで、そういう金ぴかなものが元禄の頃までは続いていた。しかし江戸城の天守閣も焼け落ちて以後再建されなかった。なんかダセーな。そんな感じだろうか。

わび、さびなどは鎌倉時代から顕著になり、おもに仏教の影響で、安土桃山時代に最高潮に達した。元禄は江戸文化の中では非常に初期的で、ナイーブで、未発達なものだった。日光東照宮に代表されるように、安土桃山元禄は、ありとあらゆるものをごちゃまぜにして、兜に鹿のツノをはやしたり虎革のパンツをはいたり、やたらと金箔を貼ったり金の茶釜を作ったようなゲテモノ文化が流行った時代であった。

時代劇にしてもそうで、戦国時代は派手で、江戸時代は地味だ。そんなイメージだろうか。

幕府や士族階級による締め付け、鎖国による閉塞感というものは確かに江戸時代を通じてあったけれども、町人文化がそれを押しのけてあまりあった。また学術的な考証がきちんと積み重ねられていき、古いものと新しいもの、外来のものと日本古来のもの、儒教と仏教と道教と神道の違いなどがだんだんと整理されていった。

江戸初期の神道というものは、太宰春台が「今の世に神道と申候は、仏法に儒者の道を加入して建立したる物」などと評したような、実に情けないものだったが、太宰春台の師である荻生徂徠が始めた古文辞学を取り入れて、本居宣長らが神道に混入していた仏教や儒教の成分をより分けて、より近世的な、洗練された神道を作っていった。

明治になると江戸時代(というより徳川幕府)はなんでもダメだと決めつける薩長のプロパガンダが世論を圧倒し、戦後になっても江戸時代の名誉回復はまったく不十分だった。

ともあれ、岡本太郎らがいうような、元禄時代が日本の近世文化が最も開花した時代である、という主張はまったく受け入れがたい。私は天保が最も爛熟しその絶頂であったと思うし、それ以降幕末まで、江戸時代は非常に文化的に豊かな時代だったと思う。元禄を初ガツオだとすれば天保は戻りガツオ。そのくらいに脂ののり方がまったく違う。江戸時代もそれぞれの時期に良さがあり、どこが良いなどということは、そう簡単には言えないはずだが、岡本太郎は乱暴にも、元禄以降をばっさりと切り捨ててしまう。非常に困った人だ。

さらに岡本太郎は俵屋宗達と尾形光琳を比較して光琳のほうが優れているということを証明しようとするのだが、これもよくわからん。

光琳の重厚絢爛で威圧的な気配が、教養ある趣味人には、ほんとうには好かれていない。

宗達には今までの日本の教養人に、何か情的にふれてくるきずながある

これにたいして、同じく典型的な日本人でありながら、光琳はそれとまったく異質な非常な世界を現出させます。

はっきり言って私には岡本太郎が何をいいたいのかさっぱりわからない。教養ある趣味人とか日本の教養人とは誰のことか。典型的な日本人とは誰のことか。光琳や宗達は典型的な日本人なのか。では江戸後期の日本人は典型的な日本人ではないのか。わけがわからない。思うに宗達の絵は伝統を踏まえていて、昔っぽくて、新鮮味が足りないけど、光琳は金ぴか感がすげーあって、派手で斬新でカッコイイと言いたいのか。

宗達というのはつまりあの風神雷神図のようなものをいうのだろう。光琳というのは燕子花図や紅白梅図屏風のようなものをいうのだろう。はっきりいって私にはどっちもどっちとしか思えない。ああいう絵が良いとはまったく思っていない。悪いとも思わないが、私にはなんの面白味もない。檀家がたくさんいて金持ちな京都の寺の金屏風くらいにしか思えない。風神雷神の、ああいうぶさいくな、おなかがぶよぶよな醜悪な絵柄はむしろあまり見たくないとすら思う。私なら歌川国芳の相馬の古内裏のような錦絵や、谷文晁の南画のほうがずっと面白い。どっちが良いというのは趣味にすぎないが、あの時代はよかったがこの時代は悪いとなにか芸術理論のごときものを語りたいのであれば、もうちょっと勉強して理論武装するべきではなかろうか。

江戸時代は260年間もあって、明治維新から現在までおよそ150年だから、それより100年も長いわけである。昔は時代の進化が遅かったから時間が長くても大したことはなかった、退屈な、空疎な時代だったと今の人は思っている。まずそこから間違っている。さらにその前の室町時代もなんと240年間もあった。これも明治維新から今までよりずっと長い。長いけど何があったかよくわからんから、現代人は、ただ時間が長いだけで大したことは何もなかった時代だと思い込もうとする。そんなことはない。ちゃんと見ていくと江戸時代も室町時代も長いだけではなくものすごく濃密な時代だった。しかしそれをちゃんと理解しようとするとおそろしく手間ひまがかかるから、今の人たちは坂本龍馬が活躍して日本は文明開化した、それまでは封建時代でいびつに歪んで文化も停滞していた、というごく単純化された歴史モデルで理解したことにしたいのだ。なぜそうなるかといえば、要するにちゃんと調べるのがめんどくさいからだ。坂本龍馬は歴史を極限まで簡略化して何も考えなくて済む(わかった気分になって自分を納得させられる)ようにする便利なツールなのだ。無理解と無関心。岡本太郎の態度もまったくそれと同じだ。

神宮外苑の銀杏並木を切るなという人たちがいる。あんなものはせいぜい、関東大震災以後わずか100年の伝統しかない。戦後日本人は江戸城の堀を埋めたり上に高速道路を通したりして台無しにしてしまった。隅田川添いにも自動車道路を通して景観を台無しにしてしまった。400年の歴史がある江戸の風情をぶち壊しておきながらせいぜい100年の銀杏を守ろうとするとは。ばかげていて話にもならない。要するにみんな歴史なんてどうでもよくて、今目に見えている景色を守ればよいとか、今常識として信じられていることを信じたいだけなのである。戦後80年。ちっぽけな時代だよ。今自分が生きている時代だけが正しく、過去は間違っているという考え方自体が間違っている。

今の私たちは封建という言葉に対してだいぶものわかりがよくなってきている。客観的で正確な歴史的認識を持っている。それは日本においては古代の大和朝廷による中央集権的な国家体制が瓦解し、これに代わって中世から近世に至る地方分権的な武家政権のことを言うし、ヨーロッパの中世社会と非常に類似した社会であった。しかるに敗戦後のいわゆる戦後民主主義の一時期においては、ナチズムやファシズム、家父長制や男尊女卑などと同様な絶対悪のイメージで、封建的とか封建制とか封建主義とか封建時代という言葉が使われていた。岡本太郎もまたそのドストライクな意味で封建という言葉を使っており、戦前の旧勢力を攻撃するための便利なレッテル貼り、革新の自己肯定的免罪符として、当時この言葉をそういうニュアンスで使っていた人々の中の一人であったといえる。

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