蔵人は天皇の秘書、というか個人的な使用人のようなものであり、
天皇が幼少の場合には学友のようなものだった。
令外の官ということは、つまり、それだけ私生活の部分にかかわる仕事なのであろう。
上西門院蔵人と言ったり二条天皇蔵人と言ったりするから、
天皇だけでなく、中宮付きの蔵人もそれぞれいたということか。
貴人の付き人を「小舎人童」と言うが、宮中に出仕する場合は特別に「蔵人」と呼ばれる、
ということかな。
頼朝も二条天皇の蔵人だったが、
頼朝12歳。
二条天皇13歳。
まあ、遊び相手か学友みたいなものだっただろう。
同じ頃に右近衛将監、右兵衛権佐などになっているがこれはれっきとした武官であるが、
年が若すぎる。
実際には御所の警邏などは担当しなかっただろう。
一応武家の子とみなされていた、という程度なのではないか。
蔵人の中には滝口がいる。
蔵人が校書殿、滝口は清涼殿というから、まあほぼ同じ辺りに詰めていた。
滝口は庭番のようなもので、夜中には夜回りをした。
江戸時代の夜回りは拍子木を叩き「火の用心」と言ったが、
滝口は弓を弾いて「火危ふし」と言った、と源氏物語に書かれているそうだ。
火の気のないところまで回ることはなかろうから、人気も火の気もある後宮辺りを警備したのだろうと思う。
滝口といっても、みんなが滝口に詰めていたのではなく、それぞれの主人の近くに侍っていたはずだ。
滝口というのもそもそも正式な職名でなくただのあだ名だ。
もし実際に火事になったらどうしたのだろう。
滝口が火消しの仕事もしたのだろうか。
ちょっとしたぼやなら消したかもしれないが、
そんな高度な消防組織、消防技術があったとも思えない。
普通に逃げたのではなかろうか。
滝口は弓矢がうまいものがなったというが、
主な仕事は猿や鼬、野犬などの獣を追い払うことだったのではなかろうか。
特に当時京都はまだまだ自然が多くて、猿は比叡山山王社の使いだというので野放し状態だったはず。
田舎の農家レベルに獣が出没しただろうと思う。
そういうのをひっくるめて当時の人たちは「物の怪」と言っていたのではなかろうか。