自殺

すでに誰か指摘していることだと思うが、
夏目漱石の「こころ」では「K」がまず自殺し、次に乃木希典が妻を巻き添えにして殉死という形で自殺し、
最後には「先生」も自殺してしまう。
この小説のテーマが自殺であることは紛れもない事実だ。
なぜ高校の教科書に必ずと言ってよいほどに「こころ」が掲載されているのか。
自殺した作家も多い。
すぐに思いつくだけでも病気を苦にして死んだ芥川龍之介、情死した太宰治。
三島由紀夫も自決という形で自殺したし、
江藤淳も妻を追って自殺した。
他にもいるかもしれないがこのくらい挙げれば十分だろう。

日本は自殺が多い国だが、この特殊な、近代日本文学の影響は当然あるだろうし、
そうした状況で、「こころ」が必ず教科書に採られるというのは異様な気がする。
自殺防止に躍起になる一方で自殺を美化しているような。

小説やテレビドラマでは死、殺人、自殺があふれていて日本人は不感症になっている。
だから別に高校教科書だけ健全でも仕方ない、影響ないと言えばいえるかもしれない。
実際古代ギリシャ悲劇にも死や殺人はつきものだ。
アガメムノーンの娘イーピゲネイアも、神に犠牲として献げられる形で自殺している。

だが、それにしても「こころ」は大した話の盛り上がりもないのに、
「K」「先生」の二人が自殺するというのは異常ではないのか。
高校生の頃は案外読んでもピンとこないものだが、
年をとってから改めて考えてみるとどうにも疑問だ。
少なくとも夏目漱石は日本の高校生全員に読んでもらうためにこれを書いたはずない。
きっとあの世で困っているに違いない。

「こころ」以外にもいくらでも良い小説はある。
菊池寛とか志賀直哉とか吉行淳之介とか安岡章太郎とか。
志賀直哉にしても「城の崎にて」よりかは「清兵衛と瓢箪」とか「小僧の神様」のほうがすっと面白い。なぜ高校生に「城の崎にて」を読ませる必要があるのか。
芥川の「羅生門」にしてもそうだ。
どうも終戦直後の暗い雰囲気をいまだに引きずっている感がある。
個人的には葉山嘉樹が好きだ。「セメント樽の中の手紙」とか。
中島敦にしても「山月記」でなく「名人伝」ではなぜいけないのか。

「こころ」「城の崎にて」が「小僧の神様」「名人伝」に置き換わるだけで国語教育の雰囲気は全然変わってくると思うのだが。

詩人は伊東静雄が良い。「春のいそぎ」とは言わぬ。
「わがひとに与ふる哀歌」「水中花」「そんなに凝視めるな」などをなぜ読ませないのか。
なぜいつもいつも中原中也や宮沢賢治なのか。

みささぎにふるはるの雪
枝透(す)きてあかるき木々に
つもるともえせぬけはひは

なく声のけさはきこえず
まなこ閉ぢ百(もも)ゐむ鳥の
しづかなるはねにかつ消え

ながめゐしわれが想ひに
下草のしめりもかすか
春来むとゆきふるあした

「みささぎにふる」「はるの雪」ではないのだな。
「みささぎに」「ふるはるの雪」なんだな。
七五調かと思わせておいて五七調。
そこがトリッキーなのだが。

そんなに凝視(みつ)めるな わかい友
自然が与える暗示は
いかにそれが光耀にみちてゐようとも
凝視(みつ)めるふかい瞳にはつひに悲しみだ
鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな
夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな
手にふるる野花はそれを摘み
花とみづからをささへつつ歩みを運べ
問ひはそのままに答えであり
耐える痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ
風がつたへる白い稜石(かどいし)の反射を わかい友
そんなに永く凝視(みつ)めるな
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ

伊東静雄は46才で死んだのか。私が死に損なった年ではないか。はは。
「春のいそぎ」が戦中で「そんなに凝視めるな」が戦後だ、というヒントだけで、
勘の良い人には詩の意味するところがわかるだろう。

それから、俳句や、まして短歌を詠ませるな。
まして自由詩を作らせるな。
代わりに都々逸を詠ませれば良い。あれはもともと口語で歌うもので、
誰でも比較的簡単に作れる。
そうすれば詩とは何か、歌とは何かということがわかるに違いない。

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