小倉百人一首の成立

小倉百人一首がほぼ現在の形になったのは、続後撰集が出た後だろう。
1251年続後撰集に、承久の乱の後の後鳥羽院や順徳院の御製が採られたことによって、
おおやけに、院らの名誉回復が行われた。
小倉百人一首が院らの鎮魂という形で完成した。
時の鎌倉幕府執権は北条時頼。
天皇家では後嵯峨院が院政を敷いていた。
為家を選者としたのも後嵯峨院。

後鳥羽院や順徳院の名誉回復を強く願ったのは順徳院の中宮・九条立子だったはずだ。
彼女は1247年に死んでいる。
生きているうちには名誉回復がなされなかったのだから、無念だっただろう。
だれかがその遺志を継いだのだ。

定家が明月記に宇都宮頼綱の依頼で襖絵に歌を書き記した、いわゆる小倉色紙というものが成立したのは、1235年。
承久の乱はそれに先立つ 1221年。
頼綱は鎌倉幕府の御家人だから、後鳥羽・順徳の歌など、たとえ好きだったとしても立場上、
襖絵に飾ることはできなかったし、
定家だってわざわざそんな政治的冒険をするはずもないのである。

では1235年にできたのが「百人秀歌」であったろうか。
「百人秀歌」に名誉回復された後鳥羽院らの歌を載せて「小倉百人一首」ができたのか。
おそらく宇都宮頼綱は小倉山に新築の別荘を建てた。
頼綱の娘が定家の息子為家の室になっている。
これも同じ頃のことだろう。
為家はすでに37歳。
頼綱が定家・為家父子のパトロンになったということだ。

どうだろう、いくらなんでもふすまが100もある部屋など作るだろうか。
可動式の屏風であったかもしれないが、100もいきなり画賛を書くだろうか、定家という人が。
小倉色紙は最初はもっと少ない、たとえば20枚くらいだったのではないか。

「百人秀歌」が「小倉百人一首」のプロトタイプだとみなすのも危険だ。
後世、後鳥羽院や順徳院の歌が入った「小倉百人一首」を定家が選んだはずがない、
その矛盾を解消するために贋作されたのが「百人秀歌」かもしれない。

それでまあ、私としては、定家が選んだ20枚程度の小倉色紙というものがまずあって、
そこへ九条立子の遺言で定家自身の歌や後鳥羽院、順徳院、
立子の父の九条良経の歌

> きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ

や、定家の義理の弟・西園寺公経の歌

> 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり

などが付加されて、あといろんな歌を見繕ってちょうど100首にした。
それを見繕ったのは定家の息子で続後撰集の選者である為家その人というよりは、九条家や西園寺家の、
必ずしも歌はよくわからない、有象無象の定家の崇拝者たちだっただろう。

良経の歌が人麻呂の歌の本歌取りになっているのだが、あまりにも陳腐で笑ってしまう。
見た目は立派だが、
古今集の詠み人知らず

> さむしろに衣かたしきこよひもや我をまつらむ宇治の橋姫

とか藤原忠房

> 蟋蟀いたくななきそ秋の夜の長き思ひは我ぞまされる

などを適当にパッチワークにしただけなのだ。
この人はたぶん大してセンスのある人ではなかった。
たくさん歌を詠んだからには歌が大好きだったようだが、どれもきれいなだけで、
真心がない。

公経の歌はあきらかに後鳥羽院や順徳院の歌に唱和している。
良経よりはまだ少しみどころがある。

続後撰集と小倉百人一首がほぼ同時期に成立したとして、この時点で小倉百人一首が定家の撰だと言いたい人は誰もいなかったはずだ。
そんなことはあり得ないのだから。
しかし為家が死んだあとになると、やはり定家が選んだってことにしたい連中がわいてきて、
そのつじつま合わせのために「百人秀歌」がでてきたのではなかろうか。
それで、歌は全部で100だとして、どの歌を採るかなんてことは、
鎌倉末期まではかなり流動的で、いろんな人の「改竄」を経た可能性がある。
いわば小倉百人一首もまた、一種の二次創作なのだ。

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