筆記試験における圧迫面接的要素

某予備校の現国の問題集を読んでいると、なんだってまた現国というものは、こんな不愉快な現代文を読まされ、問題を解かされなくてはならないのだろうという気にさせられる。その中に菊池寛の書いたものが混ざっていて、私はそれを一気に読み終えて、爽快感を覚えた。こんな菊池寛みたいな文章ばかりが出題されたのなら私はきっと現国を好きになれただろうと思う。

要するに現国というものはまず書かれた内容に私はまったく共感もできなければ関心も持てないのだ。むしろ反感しか抱けないのだ。読む気が起きない、こんな文章に付き合わされるのが苦痛でしかたないのである。中には、理科系や科学に対する露骨な敵意と無理解が綴られただけの文章もある。エセ科学者や科学評論家が書いた鼻持ちならぬ文章もある。衒学的としか言いようがないこむつかしいだけの無意味な文章もある。なぜこんな文章を読まされねばならないのか。おそらく世の中のマジョリティがこうした文章を読むことに快感を覚えているからに違いない。世の中にはそうした需要があり、多くの人はこうした文章を読むことになんら抵抗が無いのだろう。私には信じられないことだが。そして彼らは自分たちがマジョリティであることを確認して安心しているのに違いない。こういう幼稚としか言いようがない現状に、大いなる不幸を感じる。

「自由とは無条件に良いものだと思われがちだが、」そんなこと思ってねーよ。世の中に「無条件で良いもの」なんかあるはずねーだろ。あり得ない誘導するなよ。はなからあり得ない前提に基づいて延々とお説教聞かされている感じ。だから全然読む気になれないんだよ。

世の中で教養人とか文化人ともてはやされている連中の有り難くもない御託や蘊蓄や価値観や思想を強制的に押しつけられ苦痛に耐えるだけのイベントとしか思えない。現代に残る圧迫面接の一種か。マークシートだけでなく記述式や小論文にもそうした筆記試験における圧迫面接的要素はあるのだろう。つまり未だに入試が、出題者が属する学術的コミュニティに受験者が適しているかどうか同調圧力をかけて試す通過儀礼の場、ある種のアカデミックハラスメントとしての性格を有しているからだろう。

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