怪帝ナポレオンⅢ世

鹿島茂『怪帝ナポレオンⅢ世』というものを借りてきた。
ナポレオン三世に関する本というのはなかなか無い。珍しい。しかも翻訳ではない。
全体はゆっくり読ませてもらうとして、ともかくもイタリア戦争のところを読んだ。
Wikipedia などと合わせ読むと次のようになる。

* 1859年4月23日 オーストリアからピエモンテに最後通牒
* 1859年4月29日 オーストリアがピエモンテに宣戦布告
* 1859年5月3日 フランスがオーストリアに宣戦布告
* 1859年5月10日 ナポレオン三世がパリを出発
* 1859年5月14日 ナポレオン三世がアレッサンドリアに到着
* 1859年5月20日 モンテベッロの戦い
* 1859年6月4日 マジェンタの戦い
* 1859年6月24日 ソルフェリーノの戦い
* 1859年7月11日 ヴィッラフランカの和議

ここで驚くべきは、ナポレオン三世が、たったの四日間で、パリからアレッサンドリアに着いているということだ。
ちょっと信じられないが事実だろう。
パリからマルセイユまで鉄道で。おそらく二日かかる。1950年には10時間かかったそうだ。
日本では、1870年に新橋横浜間の所要時間が約1時間、時速は30kmほどしかない。
ノンストップで走っても1日に700km。
パリ・マルセイユは860kmもある。
やれやれ。

マルセイユからジェノヴァまで海路で。
黒船サスケハナは時速10ノット、つまり、20km/h くらいだったらしい。
マルセイユからジェノヴァまでは 300km はあるので、
いわゆる黒船、蒸気機関の外輪船でもって、まる一日かかるだろう。

ジェノヴァからアレッサンドリアまで鉄道で。二、三時間ってところかな。

不可能じゃない。計算すればちょうど四日ほどかかるわけだ。

今の感覚で、飛行機を使わず、鉄道と船でいくと考えれば、ごく普通。
しかし、鉄道網ができかけの欧州では電撃戦となり得た。

これでオーストリア軍が負けない方がおかしい。
当時の資料がなけりゃSFになってしまう。
或いはミステリー小説か。松本清張の『点と線』みたいな。
ま、当然きちんと記録は残ってるわな。残っているから歴史小説になり得る。

『怪帝ナポレオンⅢ世』にはまた、フランスの先遣隊がモン・スニ峠を越え、ジェノヴァから来た皇帝とアレッサンドリアで合流したと書いてある。
つまり、フランス先遣隊はおそらくリヨンに居て、
そこからサヴォアのモリアンナまで鉄道で、そこから徒歩でアルプスのモン・スニ峠を越え、
スーザからトリノを経てアレッサンドリアまで移動したのだ。
いやー。楽しいね。
しかし著者は書く。

> フランスがオーストリアに対して宣戦布告を行ったとき、フランス陸軍の総司令部は、完全に不意をつかれる形になった。

> 陸軍の内部からいえば、武器弾薬も兵站も整ってはおらず、とても戦争などできる状態ではなかったのである。

ふーむ。これはあれだよね、敵を欺くにはまず味方からってやつだよね。
オーストリアを油断させとくためでしょう。
絶対そうだよね。
だって陸軍に戦争準備させてたらオーストリアがピエモンテに宣戦布告しないからでしょう。
戦争準備しないことも戦争のうちなんだよなあ。電撃戦・奇襲戦の場合。
真珠湾の太平洋艦隊が無防備だったみたいなもの?
うんうん。
ちょっとニュアンス違うがけっこう似てる。

しかし、普通は、オーストリア側の将軍ギュライが皇帝ナポレオン三世よりもっとまぬけだったとか、
そういう程度しか書いてないことが多いんだよなあ。
しかも、フランスはトスカーナを攻めて南からロンバルディアに向かう、と見せかけた。
うーむ巧妙だ。
孔明の罠だ。
いやこの場合策士はカヴールなんですよ。
カヴールの手のひらの上で、オーストリアとフランスの皇帝が踊ったのだよ。

というわけで、またしても
[アルプスの少女デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196)
を書きかえた。
詳しくすっきりとした。
前は星形要塞についてくだくだと書いていたが全部削除。
まあ、あれは無くてもよい。少し面白いけど。

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