これまで出版の話はいくつかあったのだが、今回書いているものも、いずれ出ることはあるかもしれないけどいつまで待てば良いのかわからなくなってきた。まあ、出なきゃ出ないで kindle で出せば良いんだけど、気長に待つことにする。7月くらいから書き始め10月にはいったん書き終えたのだが、まだ出る気配は無い。
一般受けするものを書こうという試みもこれまで何度もやってきたが一度も成功していないのだから、私にはきっと書けないのだ。諦めたほうがよさそう。私にはクリスマスの良さがさっぱりわからんし、クリスマスに良さなどあるはず無いのだが、世の中はそれでもクリスマスが好きだ。売れる本を書くということはそういうことだろう。クリスマスにケンタのチキンを本気でうまいうまいと言って食える人間のほうが素で一般受けする本を書けるわけだから得だと思う。しかしそういうこの世に存在しなくても誰も困らぬものを書く気にはなれん。では私の書いているものはこの世に存在する価値があるのかと言われると、実はよくわからん。自分は単にあまのじゃくなだけなのかもしれない。世間が好きにならぬものを好む、ただそれだけなのかもしれないといつも不安になる。
歌を詠む 人もなき世に 歌詠めば 独り狂へる ここちこそすれ
それで、早めに出した方が良いと思われる部分はここに先に書くことにした。別にブログに書いたものを後でまとめて本にしてもよかろう。
早めに出そうと思った歌書はまず明治という元号をなぜ籤で決めたかという話と、「秋の夕暮れ」古今集仮名序疑惑と、「五月雨の頃」はまず西行が詠んだという話だ。これら三つのトピックがどういうふうに一つの本の中で扱われているかってことは、本が出るまで楽しみにしておいてもらいたい。
私も一時期は今にも死にそうだったが、どうもしばらくは生きているようだ。書きたいものはたいてい書いてしまったが、手直しはしたい。死んだ後も書いたものを残すには、出版するのが一番だが、kindle でもまあ残るだろう。あれだけのコンテンツ、amazon が倒産したとしてもなんらかの形で残るに違いない。死んだらすぐに消えるのはこのブログなので、特に残しておきたいものはハテナブログにも転載しておこうとおもう。はてなという会社がいつまで残るかかなり疑問だが、note とかカクヨムなんかにはいまさらまったく書こうという気がおこらない。
ともかく、死んだあともこの世に残そうと思えば勝手に kindle で出せば良いだけだ。
今の世の中はSNSとかメディアがとんでもなく発達しているから、何か良いものを書いても、目立とうとするコンテンツが溢れかえっていて霞んでしまう。しかしそんなことは今に始まったことではなく、江戸時代だって明治だってコンテンツは常にあふれかえっていたはずだ。結局、良質なオリジナルコンテンツを作ってそれが世の中に気付かれるのを待つしかない。今のSNSはこれから生成AIがどんどん再生産してノイズばかりが増えていくだろう。オリジナルなものはほんの一部で後は単にAIで水増しされたコピーでそういうものばかりが目につくようになる。まとめサイトなんか書かされていたライターは失職する。だからもうコツコツとオリジナルコンテンツを作っていくしかない。
自分で書いたものでも「民葉和歌集」なんてのは今見るとまったくダメだ。これはなんとかしなきゃなるまいと思っている。
ドイツ語翻訳も中途半端に手を付けては放置しているんだが、これはもうわざわざ私がやらなくても良いのではないかという気がしてきた。