タルコフスキー、特にソラリスについて、過去に何度も書いている。タルコフスキーのソラリス、ソラリス総括というのも書いている。
DVDを借りてタルコフスキー版のソラリスを見たのは冨田勲の『宇宙幻想』を聴いて知ったからだ。初めてみたのがいつ頃だったかよくわからない。1998年、私が33才の時に『僕の村は戦場だった』と『アンドレイ・ルブリョフ』を見ている。『僕の村は戦場だった』はわかりやすい、トラウマになる映画だが、『アンドレイ・ルブリョフ』は確かにつまらない。確かロシアの農村で熱気球に乗る冒険家みたいなのが出てくる話で、もっと先まで見れば面白いのかもしれないが、いまだに見れてない。『鏡』はちょっと頭だけ見てやめてしまった。『ストーカー』『ノスタルジア』『サクリファイス』などは見たことが無いと思う。今後見るかどうかもわからない。
ローラとバイオリンは、わかりやすいけど、なんかどうでも良い作品だったような気がする。
タルコフスキー版ソラリス冒頭の「バートン報告」。以前私はこれを「台詞棒読みの謎シーン」などと評しているのだけど、改めて見直すとそれほど悪い構成ではない。ただ、原作の「バートン報告」というものはああいうバートン本人の口述を録画したというものではなくて、長大で精細な報告書なのであり、それをクリスがソラリスステーションの中で読むという筋書きになっているはずだ。映画という媒体の都合上、映像で表現するためにああなってしまうのは仕方ないのかなと思う。だがあれをあの台詞だけで説明するのにはもともと無理がある。
クリスがソラリスへ旅立つ前日、クリスの父母の家に息子クリスが泊まりにくる。父母の死に目に会えるかどうかもわからない長いミッションであるらしい。池の上にしぼんだ風船が木の枝に引っかかっているのはここに子供が住んでいるということを暗示している。その子はクリスとハリーの間に生まれた娘であるらしいが、そんなことは一切説明されないし、原作にも無いことだ。母ハリーが死んだあと、父クリスが祖父母に娘を預けて田舎で育てられた、と解釈しようと思えばできる。その娘はバートンが連れてきた息子としばらく遊んでいるが、クリスがバートンを怒らせてしまい、バートンは息子を連れて帰ってしまう。その後バートンと息子が乗ったタクシーが延々と東京の首都高速を走る有名なシーンがあって、何か特別な意味があるかと注意してみてみたがよくわからん。でもタルコフスキーの映画ではただひたすら白樺林の中でくるくる回っている主観視点の映像などあるから、こういう目の回るようなシーンが好きなのかもしれない。首都高シーンの後に再びクリスの父母が住む田舎のシーンに移るから、文明と自然の対比を言いたかったのかもしれない。この田舎のシーンが非常にくどいのは最後のオチがまたこの田舎に戻ってくるから、伏線として念入りに描写したのに違いないし、昔はこういう長回しのシーンが許容されていたということもあるかもしれない。ともかくも現代から見れば不可解なほどに長い意味不明なシーンがたくさんある。
タルコフスキーとしてはソ連にああいう立体交差の高速道路があればそれを撮ったに違いないが当時も、今のロシアにもそんなものはあろうはずがない。タルコフスキーとしてはアメリカのインターステートみたいなものを撮りたかったのではないか。しかしソ連の映画監督がアメリカに撮影に行くこともできなかったろうし、また、標識が英語で書かれているのも都合が悪かっただろうから、しかたなく東京で撮影したのかもしれない。
カラーと白黒のシーンがランダムに混ぜられているように思える。モノクロにすることに何か意味(回想とか想像とか)があるのかと思って見てみたが、よくわからん。当時は映画がモノクロからカラーに移行するときに当たっていて、地の部分をモノクロで、特に派手に演出したいところだけをカラーにしたのかもしれない。
クリスがバートンから直接話を聞くという設定も、クリスがバートンに無理解なのも、映像でストーリー説明するにはこうするしかなかったような気もする。最後のオチも、原作のあっけない終わり方では映画にならないから、タルコフスキーが苦心して付け足したものかもしれない。
ソラリスステーションに到着したばかりのクリスがなんだかよくわからない東欧風かアメリカ風なのかわからない普段着を着ていて、革のブーツの紐がほどけていてつまづくなどというのは奇妙だ。基地の内部も今の目で見るとあまりにも宇宙船ぽくない。というのは私たちがキューブリックの2001年宇宙の旅を見た後だからそう思うのかもしれない。
などとあれこれ考えてみるにアレは何か奇をてらったとか、余計な解釈をしたというよりも、レムのゴリゴリのSFを割と無難にタルコフスキーが映画にまとめた作品だった、と言っても良いのかもしれないなと思った。
あの映画の恐ろしさというのは、やはりハリーの登場シーンで、目を覚ますといきなりハリーが椅子に座っていて、手に持った櫛で顔をなでる。それから立ち上がり寝起きのハリーにキスする。バートンが見た幻覚を馬鹿にしていたハリーが、自らその幻覚を見るはめになった驚きと恐怖が良く表されていると思う。もちろんその後にもショッキングなシーンはいくらもあるのだが、ひっぱってひっぱってあそこでいきなりハリーを出したのはやはりインパクトを最優先した効果的な演出で、それはソダーバーグ版ソラリスとは全然違っている。ソダーバーグ版ではクリスと妻レイア(ハリーから改名)の映像が冒頭から延々と繰り返される。
wikipedia惑星ソラリスには
上記の、東宝から発売された『名作・ソビエト映画』吹替版VHSは、(中略)地球シーンが無いことなど、実は「映画版」と「小説」が乖離している部分がかなりカットされており、タルコフスキーの世界観を度外視するならば、奇しくもレムによる原作に近い仕上がりになっていると言える。
などと書かれているが、誰が書いたかしれないが、ずいぶん余計な感想だなと思う。レムとタルコフスキーが喧嘩した話なども、そりゃそれくらいの意見の相違はあったろうなとしか思えない。レムは、映像だけでストーリーを説明しなくてはならない、ちゃんと起承転結をつけて客を楽しませなくてはならない映画という媒体に対しておそらくまったく何の理解もなかったと思うし、レムの言う通りにやればそもそも映画化は不可能だっただろうと、タルコフスキーに同情したりもする。
ところで クリス・ケルヴィンはロシア語では Крис Кельвин (Kris Kelvin) と書くらしいのだが、Kris も Kelvin もロシア人の名前らしくない。彼はイギリス人という設定だったのだろうか。Sartorius はドイツ人ぽい。スナウトもなんとなく英語っぽい感じだ。Hariという名もなんだか変だ。レムは無国籍な、聞き慣れない名を使いたかったのだろうか。Henri Burton に至っては明らかにイギリス人の名だ。Gibarian もイギリス人かドイツ人の名前っぽい。
それからついでだが『宇宙幻想』は冨田勲が46才のときに作った作品だが、今からみると2001年宇宙の旅に始まり惑星ソラリスに終わる、途中にLPレコードに収まりきれるだけ曲を安直に詰め込んだ宇宙SFもののアラカルトに見える。だが当時、あんなふうにフルオーケストラの曲をそれっぽく、正弦波と三角波と矩形波とノコギリ波とノイズしか出せないアナログモジュラーシンセサイザーとデジタルシーケンサーだけで演奏したというのはおそろしくすごいことである。今ならDAWがあれば誰でもあれくらいのものは作れてしまうのだが。
『惑星』『宇宙幻想』『バミューダ・トライアングル』はSF三部作と呼ばれているらしい。『惑星』が一番名高いらしいが私はどちらかといえば『宇宙幻想』『バミューダ・トライアングル』のほうが好きだった。『バミューダ・トライアングル』を知らなければプロコフィエフを聴くなんてこともなかっただろう。