はたからみてわかりにくい孤独

創作活動の孤独というものを書いてその続きのようなものだが。

「山月記」を読めなかった男が1年半ぶりにもう一度読む日。非常に良い記事だと思うのだが、隴西の李徴という人は、誰がみてもそれとわかるような、本当に孤独な詩人であったが、こういう天涯孤独な詩人というものは案外少ないのではないかと私は思っている。

実際には、中島敦自身もそうであったかもしれないが、仕事もあり、妻子もいて、友人もいて、一見全然孤独にはみえなくても、自分の作品が理解されなくて、深い孤独を感じている人は多いと思うのである。

つまり何が言いたいかといえば、隴西の李徴という人ははたからみてわかりやすい孤独な人であるが、はたからみてわかりにくい孤独な人もたくさんいると思うのだ。

もちろん世の中には、友人が少なく、結婚もせず、結婚式にも呼ばれない、そういう、人間関係における孤独な人も少なくはないのだろうけど(そうした人たちは家族ができ友人ができれば孤独ではなくなるのだろうか?)、作家が感じる孤独というものは、また別のものではないかと思うのだ。

本居宣長も、『本居宣長』を執筆していた晩年の小林秀雄も、そうした意味の、はたからみてわかりにくい孤独な人だったと思うのだ。宣長にしても小林秀雄にしても、功成り名を遂げた人で、弟子も多く、家族もいた人だから、普通は孤独なはずなどないと人は思うかもしれないし、一方では、いや、彼らの孤独はよく理解できるという人も少なからずいるのではないかと思う。

ともかく、隴西の李徴という人は、私生活においても、仕事においても、そして作家活動においても、何から何まで、極めてわかりやすい孤独な人だったわけであり、そこが逆に、孤独とはなんだろうということをわかりにくくしている気がする。

己は努めて人との交わりを避けた。

李徴は言っているけれども、少なくとも私は、人との交わりを避けようと思ったことはない。多少臆病になって人に見てもらうことを躊躇することはあっても、どちらかといえば、新人賞に応募したりなどして、人に積極的に評価してもらおうとするほうだった。だがあまりにも、自分と同じことを志す人が少なくて、交流することが不可能だった、例えば歌を詠みかわすことすらできなかった、というのが実際だった。そのあたりがやはり李徴に感情移入できないところだ。中島敦自身はどうだったのだろう。李徴に近い性格の人だったとは思えない。誰か李徴に近い性格の人を知っていた、あるいは、自分のなかに若干そうした傾向があることに気付いていた、くらいだろうか。

私が今度出す本もはたからみてわかりにくい孤独な詩人の話である。思えば私が孤独ということについてここまで熱く語ったのは初めてのことではないか。というのは私自身、孤独ということをあまり気にしない性格であったから。少なくとも孤独そのものを恐れたり避けたりする人間ではなかった。むしろ孤独を楽しむほうだったと思う。年をとってそろそろこの世を去るというときになっていまだにいつまでたっても自分の仕事が理解されることがなくて、それで孤独というか焦りというか迷いを感じ始めたのだろう。だがそれも単に老人の孤独というものとは内容が異なるように思う。

そういえばこの空谷に吼えるというのも私が書いたものであったはずである。「黄色い犬」というのは当時 yellow dog linux という、PowerMac とか初代 PS3 で動いてた Linux のこと。2006年ということは41才くらいかー。

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