実朝

小林秀雄はともかくたくさんものを書いているから、それらに一通り目を通さぬことには、小林秀雄について語ることはできまい。しかしながら、彼が歌人について書いたのはどうやら西行と実朝の二人だけらしい。昭和17年から18年にかけて、つまり戦争の真っ最中に。私は和歌についてはそれなりに学んできたと思っているので和歌について彼が語っている部分には多少口出ししても差し支えあるまい(和歌についてはもちろん彼は宣長のことも多く語っている)。

この西行と実朝の二人について書いたのは、芭蕉が弟子に「中頃の歌人は誰なるや」と問われて言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたからであるらしい。実に不純な動機である。まず芭蕉がほんとうにそういうことを言ったかどうか。小林秀雄は話のネタにするためにはどんな怪しげな伝説でも採り入れて勝手に話を作る。実際、

文学には文学の真相といふものが、自ら現れるもので、それが、史家の詮索とは関係なく、事実の忠実な記録が誇示する所謂真相なるものを貫き、もつと深いところに行かうとする傾向があるのはどうも致し方ない事なのである。

などと言い訳している。なるほど小説などのフィクションならばそれでよかろうが、評論はどうか。時代小説なら?歴史小説なら?小林秀雄はその線引きを意図的にごまかし曖昧にして話を盛ろうとしているようにもみえる。と思えば別の所では

僕には、実朝が、そんな役者とはどうも考へられない。「吾妻鏡」編纂者達の、実朝の横死に禁忌の歌を手向けんとした心根を思つてみる方が自然であり、又、この歌の裏に、幕府問注所の役人達の無量の想ひを想像してみるのは更に興味ある事である。

などとしれっと書いていたりする。信じてみたり疑ってみたり変幻自在だ。

で、「西行」に比べれば「実朝」は割としっかり書かれた文章であって、やはり、小林秀雄はある程度まで和歌のことはわかっている人である、と思われる。

出でて去なば 主無き宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな

が贋作なのは明白だが、私はかつて

もののふの 矢なみつくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

も贋作なのではなかろうか、と疑っていた。実朝がこんないかにも武士らしい、武張った歌を詠むとは思えなかったからだ。正岡子規もこの歌をべた褒めしていてますます怪しい。しかしいろいろ調べてみるに、これはそんな、いわゆる武家の棟梁が冬の那須高原で巻き狩りなぞをしている(父頼朝が富士の裾野でやったような)ところを目の当たりにして詠んだ歌ではなくて、単に人の歌を本歌取りにしただけの、宮廷趣味的な、或いは習作的なものであったのだろう、ということがわかってくる。おそらくこれはただ単に定家の

大空に たがぬく玉の 緒絶えして あられ乱るる 野辺の笹原

を多少アレンジしたものであったに違いなく、また、

時雨降る 大荒木野の 小篠原 濡れはひづとも 色に出でめや

わが恋は あはでふる野の 小篠原 いくよまでとか 霜の置くらむ

雪深み 深山の嵐 さえさえて 生駒の岳に あられふるらし

笹の葉の 深山もさやに あられ降り 寒き霜夜を ひとりかもねむ

笹の葉に あられさやぎて 深山辺の 峰のこがらし しきりて吹きぬ

などといったよく似た歌もある。あられの歌をあれこれ詠んでいたときにふと弓場で矢を射る武者の姿が目に入り、歌に採り入れてみただけだったかもしれない。まあしかし、いきさつはどうであれ、よく出来た歌だと思うし、実朝の真作であるとすればすごいことだと思う。

思うに小林秀雄は歌人について何かおもしろおかしく書いてほしいという依頼があって西行と実朝を取り上げて論じてみただけだと思う。あまり深読みしても仕方ないし、それほど歌人や和歌に興味があったとも思えない。彼は彼の書きたいようにものを書けば良いのであってそれは彼の自由であってそれに対してあれこれ言っても仕方ないのだけれど、世間一般の西行像、実朝像が、小林秀雄の言っていることとにたりよったりの焼き直しばかりなのは腹立たしい。もっと全然違う角度からいくらでも眺められるのに。ウィキペディアにせよ、ブログにせよ、AIにせよ、小林秀雄の個人的感想をそのまんま再生産している。

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