玉葉集風雅集攷

次田香澄『玉葉集風雅集攷』というものを読んでいるのだが、
この著書の編者でもある岩佐美代子によれば、
岩佐が恩師次田の遺稿をまとめてこの一書がなったことがわかる。
岩佐は今日、京極為兼についての本を書くほぼ唯一人の作家であるが、
なぜ彼女が為兼に関心を持ったかはよくわかった。
では次田はなぜ為兼に関心を持ったかだが、名前から察するに彼女もまた女性であろう。
本を読んだ感じで大胆に想像すれば、彼女は、最初芭蕉の俳句に興味をもった。
それから、俳句のわびさびの世界を室町和歌まで遡り、そこに永福門院を見いだした。
永福門院の師が為兼であった。ということではないか。
岩佐にも『内親王ものがたり』などがあるところを見ると、
式子内親王など女流歌人に関心が高いのではないか。
両者とも京極派の創始者として為兼をある一定の程度評価しているに過ぎず、特に次田は、彼女の好みは京極派の中にある、自然観察とかわびさびのようなものにあるように思われる。
為兼の歌に

萩の葉をよくよく見れば今ぞ知るただ大きなるすすきなりけり

というのがある。
普通こういう歌は江戸時代には狂歌と呼ばれる。
また、古今集では俳諧歌という部立てでこのような滑稽な、
不真面目な歌が採られている。
古今集にはあったこのような遊び心は、おそらく、
和歌から俳句や連歌の方に専門が分かれたのだろう。
そういう意味では俳句の源流が京極派、特に風雅集時代にあって、
その先駆的歌人が永福門院であった、のはまあ当たりなのかもしれんが、しかし、為兼その人は別に俳諧歌を詠もうと思って詠んでいたのではないと思う。
また、自然観察が主たる目的でもなかったと思う。

為兼は漢文が書けなかったという。
当時の高官たちの必須教養である漢文が書けないということは、
つまり日記も書けなかった。
歌論などの和文は多少は書けたらしい。
漢文の序を書けない、
紀貫之以来の口伝を受けてない、
歌が奇矯であり、俳諧的であるというのが、
勅撰集編纂者として不適任だと指摘されたのは、
当然だったようにも思われる。

為兼その人はたぶん、西行のような、心に浮かんだことをそのまま歌に詠みたかっただけで、それが巧まずできた人だった。芸術家肌、天才肌の人であっただろう。自然主義や俳句の先駆者になろうと思ったわけではあるまい。
枯れとか寂びなどは定家に、女流歌人では永福門院に任せておけばよかろう。

為兼は勅撰集の題名に新とか続とか後とかを付けるのに反対したそうだ。笑える。
室町時代の勅撰集はそんなのばかりだ。

万葉集や古今集の頃までは文字というものが庶民の間になかったから、歌という口伝えの文学しかなく、ましてや教科書や類題集などというものはなかった。歌をたしなむかなり濃密なコミュニティが存在していたのだろうが、時代が下るとそういう自然発生的なコミュニティは廃れて、自然に詠歌の習慣を維持することが困難になり、それでも古典を継承していくために学問とか道としての歌道・歌論が生まれ、これによって初めて安定して存続することが可能になり、ますます知識階級によるサポートなくしては残れなくなり、彼らの発言力がますます強くなる。庶民の趣向は逆に圧殺され、ますます和歌の世界は萎縮していく。貴族や学者などという生命維持装置を外すと死んでしまう。それをなんとか救おうとしたのが為兼だっただろう。民間人がもっと和歌に参加すべきだと考え、そのための方便として天皇家や勅撰集という権威を借りようとしたのではなかろうか。

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