短歌はけっこう流行ってる

短歌は今わりと流行っているらしい。note にも短歌というジャンルがあって、多くの人が歌を詠んでいる。

文芸春秋は俵万智の新作をしばしば載せているし、彼女は4月からNHK短歌の選者になったらしい。俵万智は40年前からずっと歌壇に影響を与え続けてきた人だ。日曜美術館にも時々出ていたようだ。世の中の短歌というものが現在ほとんどすべて、俵万智の亜流の感があるのは当然だと思う。

俵万智は実際非常に優れた歌人である。現代語を用いて詠んだからだけではない。彼女の歌は、赤裸々な不倫の歌であり、シングルマザーの歌である。尋常な歌ではない。人をぎょっとさせる歌である。自分のプライバシーをさらけ出して詠んでるから迫力が全然違う。また、五七五七七の操り方もうまい。彼女はまさしく歌人である、といえる。和泉式部に近い。たぶんこの二人はよく似たキャラクターであったはずだ。もちろん与謝野晶子とも似ている。

俵万智は、もちろんいろんな歌を詠む人ではあるが、本質的には不倫とシングルマザーの歌人であるといってよい。しかしながらそれだけで流行ったのではない。もうひとつ、一般人に、自分もまねできるのではないか、自分でもああいう歌が詠めるのではないか、と思わせた。多くの模倣者を生んだ。このふたつの相乗効果で流行った(ほかにも、佐々木信綱の孫、佐々木幸綱に早稲田で学んだ、ということも割と重要なことであったかもしれない)。

俵万智の歌の面白味というか凄みは、彼女の独特の体験からにじみ出てきたものであって、たぶん彼女はものすごく奇矯な性格の人であって、それゆえ必然的にああいう経験をしてしまうのであり、だからその歌も、ごく普通の一般的な日常を送っている人には決して詠めない類のものである。それをむりやり似せようとすれば、どぎつい、露骨なエロスを詠んだだけの歌になってしまうのではないか。

今の短歌の中にも、現代語特有の語感を活かしたちょっと独特で面白い歌もあるにはあると思う。それ以外はほとんどが俵万智的な何かだ。新しい歌というものはそう簡単には詠めないもので、これまでも、天才が出てそれの模倣者がでて、という歴史を繰り返してきた。みなが勝手に口語で歌が詠めるのではない。

私は口語で歌を詠まないと決めたから、今の短歌と呼ばれるものがどうなろうとしったこっちゃない(たまに詠むとしてもそれは狂歌のたぐいだ)。そういうものをうっかりみてしまうと、何か乗り物酔いか3D酔いしたような気持ち悪さを感じてしまうから、見ないようにしている。ただ、ときどきこわいものみたさでみてしまったりする。なぜいまそこそこ短歌が流行っているのか私にはよくわからない。今の短歌の価値も私にはよくわからない。今の歌人がどういう気持ちで歌を詠み、人の歌を評価し、また自分の歌の良し悪しを決めているのか。まったく想像もつかない。

自分のことを僕と言ったり私といったり俺といったり自分といってみたり。一人称をころころ変えるのは節操がない。歌とて同じことだ。こういう詠み方をすると決めたらずっとそういう詠み方をし続けなくてはならない。ブレがあってはならない。私はそう思っているけれども、人によっては、どんどん詠み方を、自己表現をとっかえひっかえしている人もいるのかもしれない。SNSではいくつも匿名でアカウントをもち、それぞれことなるキャラクターを演じている人もいるのかもしれない。

俵万智のような恋歌は、与謝野晶子の歌もそうかもしれないが、和歌というよりは、江戸時代の都都逸や常磐津のようなあたりからきたものではないかと、私には思える。都都逸には非常に優れた恋歌がたくさんあって俵万智や与謝野晶子もかすむくらいであろうと思う。ほかにも浄瑠璃とかなんとかかんとかとかいろいろたくさんあって、ちゃんと調べると膨大なものがあってそれらを超えることは容易でないと思うのだ。逆にいえばそうした厚みと下地があるからこそ、あのような恋歌は詠めるのだと思う。恋歌とていきなり詠めるわけではない。

そして、恋歌を詠みたいのであれば都都逸とか今様で詠むほうがずっとすっきり詠めるだろうにと思う。五七五七七という形式は非常に詠みにくい詩形で、それをわかったうえで詠んでいるひとは少ないように思う。あとやはり現代短歌はどこか気持ちが悪くて好きになれない。都々逸だと新作でも江戸の粋というものが感じられて気持ち良いものが多い。個人の感想だが。

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