文覚という僧侶は、平家物語によれば、京都高尾山にある神護寺を復興し、平家の嫡流を保護し、源頼朝に後白河法皇の宣旨をもたらして決起を促したとある。
しかし、令旨を書いたのは以仁王とその謀臣の源頼政、
その令旨を頼朝にもたらしたのは源行家であり、行家は頼朝だけでなく甲斐や木曽の源氏にも令旨をもたらしている。
平氏に反発する親王と源氏という構図であって文覚が入り込む余地はない。
文覚に関する平家物語の記述はあまりにも誇張されているし、捏造にも度が過ぎている。
客観的な史実としては、
頼朝の勝利の後、後白河法皇や頼朝の援助で神護寺を復興したということ。
平氏の嫡流「六代」を神護寺に保護したということ。
鎌倉幕府側の勢力として後鳥羽天皇に疎まれていたということ。
頼朝の死後、政争に巻き込まれ、佐渡、対馬などに流されて死んだということ。
そのくらいではないのか。
頼朝との関係は平氏追討後からと考えた方がずっと自然だ。
平家物語は高尾山にかくまわれていた六代が処刑されたところで終わっている。
ここでもやはり神護寺が関わっている。
思うに平家物語は、もっとシンプルな(長々しい言い回しや余計な漢籍の引用がなく、仏教色が少ない)「治承物語」という原型があって、
それに文覚と六代に関わりのある神護寺の関係者が大幅に加筆したものではなかろうか。
また、平重盛を過度にひいきしていることも何か理由があるかもしれない。
重盛が頼朝、藤原光能とともに神護寺に肖像画が伝えられていることも何か意味深ではある。
藤原光能は文覚を頼朝のために後白河法皇に取り次いで平清盛追討の院宣を出させるように迫ったとされている。
あり得ないことだ。
どうも陰謀めいている。
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