司馬史観

いちいちいろんな人の批評を見ずに wikipedia の記述などでだいたいしか知らないで言うのもなんだが、
司馬史観と言われるものは確かにある。
司馬遼太郎が書いた小説は、小説はフィクションだからそれをどうこう言うつもりはないが、
しかし後書きや対談などで彼ははっきりと自分の歴史観について語っているのだから、
それについて彼は、自己の意見に対して他人から批評を受ける責任があろう。
また彼は作家なのであるから、作家が抱いていた歴史観という観点で批評されて当然だと思う。

代表的な歴史作家、時代小説作家、たとえば吉川英治や新田次郎らと比べたときに、
司馬遼太郎には明らかな特徴がある。
吉川英治や新田次郎は日本の古代から現代まで比較的均等に、好き嫌いなく勉強し、取材し、題材にしている。
しかし、司馬遼太郎は幕末・明治、戦国時代のものがほとんどである。
南北朝や室町は嫌いだと明言もし、一つも小説は書いてない。
これが司馬史観の第一の特徴だと私は思う。

日本人の多くは司馬史観論者である。
たとえばある財界人のスピーチで私は聞いたのだが、室町時代は政治は混迷していたが、文化や産業が栄えた、
これは戦後の日本と同じ状況だなどと言っていた。
これとまったく同じことを司馬遼太郎も言っている。
これを意識的に司馬史観だとわかって言っているなら良いが無意識に言っているようだ。
聞いている側も無意識にその通りだと思って聞いているが、非常にまずい、危険な状況だと思う。

司馬遼太郎はまた、近世日本から近代への連絡を、また同時に近代から現代への連絡を、
意図してかせずにかは知らないが、分断してしまった。
まるで、幕末維新の頃だけを劇場の中に祭り上げてしまい、
その前もその後も出来損ないの無用の時代のようにしてしまった。
幕末維新の偶像崇拝、特に坂本龍馬など。
これが第二の特徴なのだが、
第一と同じで、要するに、司馬遼太郎がまんべんなくすべての時代の歴史を公平に描写していれば、
そういう誤解を生むことはなかったのだ。
歴史は本質的には連続なものであり、因果関係によってできている。
むやみに切り取ってはならない。
一部を切り出して誇張するならその副作用についても考えないと。
もう彼は死んでしまったのだから彼だけの責任ではないのだが。

室町幕府や足利将軍というのは非常に面白いのだが、
通常は、司馬遼太郎も言っているように、
吉川英治や新田次郎がやったように、太平記を下敷きに書いてしまっている。
新田次郎はくどくどと独自取材をやった上で書いたんだなどと言い訳しているが、
それでもやはりおおよそは太平記に沿って書いている。
太平記の時代のことを太平記によらずに書くのはもちろん非常に難しい。
公家の日記などの一次資料を丹念に読めば可能かも知れない。
室町時代まで下ってくるとこの手の資料は探せばいくらでもあるはずだ。
しかし、歴史小説家は歴史研究者ではないから、
だいたい太平記を読んでざっと現地取材して小説にしてしまった方が楽だろうと思うし、
おそらくその程度のことしかしてないだろう。
吉川英治や新田次郎はそこまでしかやらなかったし、
司馬遼太郎はそこから先に行こうとさえしなかった。

平家物語の時代には一次資料がおそらく圧倒的に少ない。
その代わり、文芸作品としての平家物語のできが良い。
となると、平家物語から離れて小説を書くことは不可能だろう。
しかし、室町時代ともなると、太平記のような読み物もあるがそれ以外の資料もある。
資料に当たり出すときりがない。
だから、たぶん普通の小説家はやらない。
もっと派手な、戦国時代とか、
あるいはもっと身近な江戸時代など書いた方がましだということにならんか。

室町時代は政治が混迷していたのではない。
一次資料が多すぎて、互いに矛盾しあっていて、小説として、歴史としてまとめにくいのだ。
政治的にはだから現代と同じくらい豊かな時代だったのだと思う。
つまり、政治というものは当然錯綜するものであり、
きちんと誰かが統治していたなどというのは嘘八百に違いないからだ。
文化や産業が栄えた時代にそれなりの政治がなかったはずがない。
単に将軍家の権力が衰えたというだけで、領国ごとに政治はあったはずなのだが。
司馬遼太郎はそこをあえて無視する。
おそらくはそのおもしろさに気づいてなかった。
ある意味「もののけ姫」はその辺に気づいてあえて挑戦している。
司馬史観の本質はそこだと思う。
宮崎駿がそこまで考えて「もののけ姫」を作ったかは知らん。

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