ヒマだったので、八王子から高尾辺りを散策した。
八王子が北口だけ栄えているのは、つまり北口に甲州街道沿いの旧宿場町があったためなのだろう。
そして、駅前が異様に猥雑な感じがするのも、旧市街から隔離する意味合いがあったのに違いない。
甲州街道と中央線に挟まれたあたりに発達した町なのである。
だから南口は完全に見捨てられて今日に至った。
甲州街道を歩くと乾物屋などがたくさんある。
さらに西へ行けば、多摩陵、武蔵野陵などがある。
南浅川の遊歩道が特別良く整備されているのはこれらの陵があるためだろうと思う。
八王子城はさらにこれら御陵の山奥に位置していた。
家康が八王子城を廃城にしたのは、あまりにへんぴなところにある山城だったからだろう。
もし八王子城がもっとひらけた街道沿いの平城であったならば、そのまま江戸時代にも利用されていた可能性はあるだろう。
江戸時代には、もっぱら、城は町中の、街道沿いの、平城だけが残った。古河城や川越城がそうだが、
しかし、街道沿いの平城でも、世田谷城のように、残らずに、豪徳寺のような寺になったところもある。
世田谷城はあまりに江戸城に近すぎたからかもしれない。
とかいろいろ見て回ったので、超ヒモ理論を少し加筆した。
これ、八王子ネタでもう少しふくらませても良いかもしれん。
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