小説というのは、だいたいが現実逃避なんだなと思う。
現実逃避と言って悪ければ、非日常を描くのが小説。
漢詩や和歌などが、比較的、日常的な感情をそのまま形にするものであるのに対して、
小説の本質は非現実であることが多い。
短い詩形のもの、和歌や五言絶句、七言絶句、ルバイなどは、
表現をそぎ落として、感情をありのままに現したものなので、逃避や欺瞞、作為などの要素が入りにくい
(「白髪三千丈」などの誇張表現や技巧は使われるかもしれんが)。
ただし、俳句は短すぎて、感情の表現にはもはや用い得ない、と思う。
ファンタジーは現実逃避だ。
ただしごくまれに、SFなどには、現実よりもはるかに過酷な仮想世界を作り出して、
現実よりもはるかに過酷な仮想実験を行おうとする人もいる。
たとえばスタニスワフ・レムのような。
だが多くの場合、現実をそのまま受け入れられない人が自分の都合の良い世界、
都合の良い世界観の中に没入するためにある。
宗教のようなものかもしれない。
仏陀の教えは、もとは辛い現実に直接向き合うものだったが、次第に、
世の中に負けてもいいじゃん、仮想世界に逃げてもいいじゃん、みたいな方向へいった。
つまりはファンタジー化していった。
大乗仏教なんかまさにそうだ。
時代小説は、現代社会の愚痴みたいなもんを、江戸時代みたいな、割と現代に似た社会に投影して、
しかしそれはやはり仮想世界であって、現代社会をそのまま描くとぎすぎすするから、
つまり現代社会を江戸時代に置き換えることで仮想化している。
そうすることで精神の安らぎを得ている。
戦国時代や幕末維新なども、比較的現代社会や近代社会を投影しやすいから用いられるが、
たとえば南北朝時代などは投影のしようがない。
いや、巧めば投影できるが、ほとんどの人にはわけのわからんものになってしまう。
それでは時代小説にはならない。
歴史小説もまたそうだ。
ほとんどすべての歴史小説は平家物語や太平記などの軍記物のたぐいで、
受け入れがたい現実・そしてその現実をもたらした歴史を自分の都合の良いように解釈して、
精神的ななぐさめとするものだ。
司馬遼太郎の歴史小説の構造はほぼそれだ。
ドキュメンタリー番組の多くがやらせというフィクションであるのと同じ程度に、
司馬遼太郎の歴史小説は嘘だし、
彼が小説を書かなくなってからいろいろと書いていたことはもはや小説でないというだけで、
やはりフィクションだった。
歴史をありのままに掘り返してもそれを歴史小説として読んでくれるような読者は存在しない。
恋愛小説というのも、単なる体験記・私小説みたいなのはともかくとして、
恋愛というものはこうあると良いなという願望が書かれたものであり、明らかにフィクションだ。
現実逃避の最たるものと言って良い。
こうしてみていくと、小説というのは、現実逃避でなければ世の中に受け入れられない、もしくは、
現実逃避であるほうが受け入れられやすい。
世の中の大半の人は、現実から逃避したい。そういう需要がある。
論文や論説が世の中に受け入れられにくいのは、内容が難しいからというよりは、
事実をありのまま記述しようとするからではなかろうか。
内容を簡単にしよう面白くしようといくら努力しても、
それが現実をそのまま描写したものであれば、
結局は現実から積極的に逃避しようとする文学に勝てないのではなかろうか。
そんな気がしてきた。
少なくともオタク文学(?)はそうだ。
そして世の中はオタク文学の方へは容易に変容しやすい。
戦隊物とかロボット物などがそうだ。
どんどんパターン化ステレオタイプ化していく。
最初は多少現実世界を反映したものが、
そのリアリティを薄めて、紋切り型のフィクションの方向へ変わっていく。
ようするに漫画化・幼稚化である。
脳に余計な負担がかからずに誰でも楽しめるようなものになっていく。
時代劇も長寿番組となってマンネリ化すると自然とそうなる。