鈴屋集巻三

宣長の「鈴屋集」を読む。宣長には「石上稿」というものが別にあった。
思うのだが、「鈴屋集」と「石上稿」はもともと重複のない別の歌集だったのではないか。
「石上稿」は日々の歌道の鍛錬の記録として、時系列に書かれている。
「鈴屋集」はもともと二十首とか五十とか百くらいの比較的短い歌集の集まりであって、
詞書きもなしに、ただ興の向いたときに一気に書いたものだったのではないか。
このようなものとしてはたとえば「吉野百首」などの例が残っている。

最晩年になって子供たちに家集を残してくれと頼まれて、
「鈴屋集」という名前もつけて、
題の無いものについては改めて題をつけて、
題の種類で整理をして、「石上稿」の中でも比較的良いものもその中に含めた。
成立過程はそんなところではなかろうか。

なんでそう思うかと言えば、「鈴屋集」には、「石上稿」的なつまらぬ歌もだいぶ混じっている、
また、おもしろい歌とおもしろくない歌が混ざっている。
おもしろい歌は、だいたい、題の最初に来ていることが多い。
つまりこれは題詠という形で、整理した時に、
面白い歌と面白くない歌が混ざってしまったことを意味すると思う。
孝明天皇の「此花集」など見るに、やはり、
面白い歌というのはある一時期にまとまって詠まれるものであって、
私個人の体験も、それに近い。
それを題で序列して配置換えしてしまうと、わけがわからんようになってしまう。

「石上稿」をもって宣長の歌はつまらんと言ってしまうのはかわいそうだと思う。
「鈴屋集」の中で特に良いのは最初の三巻、つまり巻一は「春・夏」、巻二は「秋冬」、
巻三は「恋雑」となっていて、ここまででいったん自費出版されている。
巻七までが宣長の存命中に刊行されたが、その後巻九までがでている。
今改めて読んでみると、巻一から巻三までは非常に優れた歌がいくつか含まれている。
特に巻三には、宣長の青春時代に詠んだと思われる恋歌が見いだせる。
人は宣長の歌を陳腐で退屈で月並みだという。しかし、
これらを宣長の歌だと見破れる人がどのくらいいるだろうか。

> たをりても見せばやいかで忍ぶ山心の奥に染めしもみぢを

> 何をかくいとはれぬべき身のほども思ひはからで思ひそめけむ

> ふくるまで人にも人を待たせばや来ぬ夜の憂さを思ひ知るべく

> 見し夢よ誰に問はましうつつとも定めもやらぬ中の契りは

> 見せばやなちしほのもみぢたをり来て心の色は知るやいかにと

> 惜しまずよいとはるる身を変へてだに巡りあはむと思ふ命は

> この春は花をも知らで過ぐすかなうつろふ中のながめのみして

同じ巻三の雑歌には

> いたづらに年ぞ六十になりにけるなすべきわざは未だならずて

> 思ひ出づるみそぢの春もみそとせのかすみへだたる花の面影

などといった年寄り臭い歌も載っているのだが、
恋歌の方は、明らかに、全然違うときに詠んだものと思われる。
ちなみに「三十の春も三十年のかすみへだたる」とあるが、これは、
恩師の死去で一時松坂に帰ったけれども、再び、医者の婿養子になって京都に戻ろうと運動をしていた頃であろう。
翌年にはあきらめて地元の名士の娘と結婚している。
従って、宣長にとって何か忘れがたいことが三十の頃にあったのは、ほぼ間違いないだろう。
何があったのか、非常に気になる。

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