視覚

幼児はモノが見えていない。
モノが見えてないというよりは見えないはずのモノが見えたり、
見えるはずのものが見えなかったり、
いろんな現象が起きているように思う。

大人になるとだんだんと、「見えるべきものが見える」「見えてはいけないものは見えない」
の二つに収束していく。
その前段階として「見えるはずのないものが見える」とか
「見えるはずのものが見えない」という現象があってもおかしくない。
子供に妖精や幽霊が見えるのも同じことじゃないか。
大人は理性や経験やらで見えるはずのないものをものすごい勢いで排除している。
見ようとする vision と見てはならないという vision が、
お互いに抑制し制御しあっているのでないか。
その協調関係が壊れればたちまち見えてはいけないものがどんどん見えだすだろう。
あるいは何も見えなくなってしまうだろう。
大人でもLSDで幻覚が見えるようなもんだろう。

感情によっても視覚は変化する。
ヘッドフォンステレオかぶって自転車乗っているだけでも、
情景はだいぶ変わって見える。

視覚というのはまだ何もわかってない。
脳科学の成果をもっときちんと追いかけないといけない。
視覚や脳科学は「21世紀の科学」だという人がいるようだがまさにそうだろう。
視覚はあまりにも自明で完璧なのでとっかかりがないが、
錯覚、幻覚、子供の妖精やお化けなど、
「見えるべきものが見える」「見えてはいけないものは見えない」
あたりの異常現象から攻めていくと良いのでないか。

文献メモ

バートン・L・マック著、秦剛平訳「失われた福音書 – Q資料と新しいイエス像」青土社。[加藤隆著「一神教の誕生」講談社現代新書。 これによれば、ダビデ、ソロモンの時代には、ヤーヴェはユダヤ教の主神ではあるが、ユダヤ教は一神教ではなく、イスラエル王国の滅亡やバビロン捕囚などを経て、一神教に収束していった、つまり、徐々に多神教から一神教が生まれたように書かれている。

いや、もちろんそういう要素はあったかもしれんが、私としては、フロイトの説のように、一神教はもともとはエジプトのアトン信仰に由来するものであり、アトン信仰がユダヤ教と融合することによってユダヤ教も最終的に一神教になったのだと思う。で、フロイトも指摘しているように、アトン信仰も古代エジプトで忽然としてアメンホテプ4世の時代に創作されたというよりは、シリアなどでもっと古くから存在していたのではないか。

燃えよ剣下巻

本棚を整理していたら燃えよ剣の下巻が出てきたので読み始めた。
もともと私の本ではなく死んだ祖父の本を拝借したもの。
うーん、なんちゅうか、七里研之助を倒し、伊東甲子太郎を暗殺したところまでは、
面白かったんだが、その後は史実をなぞるだけな感じでどうでしょう、という。

うすうす感づいてはいたがやはり七里研之助は架空の人物だったのだな。
こちらはまあ良く書けてるとして、妻として出てくるお雪とのあれこれというのは、もうはっきり言って邪魔。
下巻読む気を失わせる一番大きい原因かも。

やはり、鳥羽伏見の戦い辺りからもう新撰組がどうこうという話ではなくなってしまうので、
小説としては書きにくかったのではないかなとか。

後書きが陳舜臣で割と面白い。
司馬遼太郎がこれを執筆したのが昭和三十年代後半というのだから、ちょっと驚く。
当時三十才後半くらい。
まだ私は生まれてない。
そのころは調布も府中も八王子もあの辺一帯まだまだ田舎で桑畑だらけだっただろう。
ちょうど、今で言う所沢あたりのように、冬は畑から土埃がもうもうと舞ったのだろう。
初夏には竹のささらで地面を叩きながらマムシを避けないと歩けなかったのだろう。
気性も荒く、殺伐としていて、子供の喧嘩も酷かったのだろう。
という多摩の風土を書いたものとして読めば面白いのだが、
維新後に北海道に渡って独立国家を作ろうなどというのはどうも私にはただの茶番に思えて仕方ない。
結果論というやつかもしれんが。

内村鑑三「代表的日本人」の「上杉鷹山」のところを読む。
山形県的には偉人、というか昔の日本人的には偉人なのか。
江戸中期くらいに藩の財政改革として荒れ地に桑を植え始めたのかな。

マルコ福音書

マルコ福音書は最初に13章までが書かれたのだという。
つまり受難の前まで。
さらに受難の章14,15が書かれた。
復活について書かれた16章目は、もともとマルコには含まれていなかったという。

ということはだ、マルコの最初の形は、冒頭ヨハネの話がちょっと出てくるが、
いきなりイエスのガリラヤ布教の話に移る。
そしてほとんどがガリラヤでの布教活動の記述の列挙で終わる、ということだ。
つまり、マルコ福音書というのはもともとは「イエスのガリラヤ布教伝」
というものだったらしいのだ。

「イエスのガリラヤ布教伝」というテクストがまずあって、
これに若干加筆してマルコとなり、
また「ガリラヤ布教伝」または「マルコ」を参考にして「マタイ」と「ルカ」が出来た、ということらしい。

「マタイ」が現在の新約聖書の冒頭に配置されているのは、「マタイ」がダビデからイエスまでの系譜やら、
イエスの誕生などを時系列で丁寧にまとめているからだろう。

textual criticism関係

[加藤隆「新約聖書はなぜギリシャ語で書かれたか」大修館書店](http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%AA%9E%E3%81%A7%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%8B-%E5%8A%A0%E8%97%A4-%E9%9A%86/dp/4469212369/)。
面白い。
amazonの書評も読んでみたが、割とけなす人がいるんだな(笑)。

ネタバレになるが、
パウロの書簡はともかくとして、
マルコ福音書がなぜギリシャ語でかかれなくてはならなかったかというと、
エルサレムにおいて、キリスト教徒は、
ユダヤ教に改宗し共通語としてギリシャ語を話す外国人(ヘレニスト)と、
イエスの直弟子たちに導かれているもともとのユダヤ人が居て、
このうちのヘレニストが迫害されたり殉教(ステファノら)したりする。
それでイエスの直弟子らを批判する書としてギリシャ語でマルコ福音書が書かれ、
しかもエルサレムに居る指導者らからは得られない、
ガリラヤなどでイエスの活動(奇跡など)の伝承を取材して掲載したのだという。
確かに、イエスの弟子たちは福音書の中で何度も何度も怒られている。
特にマルコ福音書にそれが顕著であるという。

原始キリスト教では、エルサレムのキリスト教共同体はユダヤ教化しつつあったという
(いや、ユダヤ教化しつつあったのではなく、もともと純然としたユダヤ教の一部だったということだろう)。
しかし、ガリラヤやアレクサンドリアなどでは別の共同体が存在していたという。
ギリシャ語の福音書が出てきたのはエルサレム以外の場所の共同体であろうし、
それはすでに「反ユダヤ教化」しつつあったキリスト教だったろうし、
イエスのガリラヤの布教活動について詳しく記述し、
しかもエルサレム共同体に残留した直弟子らを厳しく批判しているマルコ福音書は、
ガリラヤ起源である、とも言えそうだ。

[wikipediaのヘレニスト](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%88)。
上記著書では、ヘレニストとは、もともと異邦人がユダヤ教に改宗して共通語としてギリシャ語を話す人たち、
と言っているが、wikipediaではユダヤ人の中でユダヤの地を離れて国際語であるギリシャ語を話すようになった人たち、とある。
ギリシャ語を話すユダヤ人という意味では同じだが、言ってることは真反対である。

[バート・D・アーマン著、松田和也訳「捏造された聖書」柏書房](http://www.amazon.co.jp/捏造された聖書-バート・D-アーマン/dp/4760129421/)。
これまた面白い。
しかしamazonには書評がないので、amazon.comに行ってみる。
[Misquoting Jesus: The Story Behind Who Changed the Bible and Why](http://www.amazon.com/Misquoting-Jesus-Story-Behind-Changed/dp/0060859512/)。
これは読むべき。ごく普通の聖書学入門として読める。

この本も主にマルコ福音書を取り上げている。
マルコに出てくるイエスは野性的で怒りっぽく、日本でいうところの、荒法師に近い。
山野で修行し、奇跡を起こす超能力を身につけたと称し、
自分の奇跡を起こす力を信じない信徒たちに怒り、叱りつける。
独裁的な、新興宗教の教祖の姿そのものだ。
ともかくマルコのイエスは荒々しく怒りっぽい。
モーセに対して神が怒りっぽかったように。
しかし、ルカになるとイエスは慈悲深い人になってしまう。

[山本七平「禁忌の聖書学」新潮社](http://www.amazon.co.jp/禁忌の聖書学-新潮文庫-山本-七平/dp/4101294216/)。
最初のヨセフスの辺りは面白い。
後はごちゃごちゃしてて何とも言えない。
ていうか、聖書学的に面白いのは新約聖書がどうやって成立したかってことで、
旧約聖書の薀蓄はこのさいどうでも良い。

[ケン・スミス著山形浩生訳「誰も教えてくれない聖書の読み方」晶文社](http://www.amazon.co.jp/誰も教えてくれない聖書の読み方-ケン-スミス/dp/4794964730/)。
期待して読んだがつまらなかった。ただの雑学。

新約聖書

新約聖書の中では、福音書よりも、パウロの書簡の方が先に成立したというので、
まあ、そりゃそうだわなと思い、パウロの手紙を読み始める。
文章として後世に残るというのは、古代にあっては特に、
リテラシーのある人たちまで広まってからでなくてはおきなかった。
たとえば日本の歴史で言えばだが、源義家の時代、彼の周りには特に、実時間で文書を記録する人がいなかった。
だから一次資料もほとんどなく、二次三次資料、後世作られた伝説しかない。
しかし、源頼朝までくると、公家らがほとんど実時間に日記に記録している。
第三者の視点で記録された一次資料というものがある。
平家物語ですら、歴史というにはあまりにも一次資料に欠けている。
たまたま琵琶法師の平曲でそう言ってたというだけで歴史扱いされているのだが、
平家物語は実時間の記録ではなく、50年近くかけてだんだんにできたものであり、
史実とは言い難い。

新約聖書にも一次資料などというものはない。
パウロ書簡からがほんとうに後世に残された資料で、
福音書はその後に教団ごとに整理されたもの。
当時リテラシーがあった人など人口の1%もいたかどうかだろう。
初期の使徒らはみな文盲だっただろう。
教団ができてから、その中のほんの一部の人が、文字を読めて書けたのだろう。
で、パウロという人は、おそらくは、キリスト教団の中で初めて文字を読めて書けた人だったのだろう。

つまり、文書として後世に残った時期にはすでに相当に世の中に広まった後だということ。
キリスト教は実はパウロ教だというのもまあわかった気がする。

ウィキペディア英語版ではJesusだけなのに、
対応する日本語版には「イエス・キリスト」「ナザレのイエス」「史的なイエス」などと項目が細かく分かれる。
ドイツ語版は Jesus Christus と Jesus von Nazaret に分かれていて、やや日本語版に似ている。

司馬遼太郎3

つまり、司馬遼太郎は、
義経は書いているが、鎌倉幕府とか北条氏の時代から何も書いてない。
太平記の時代になり義満の時までない。

つまり、源頼朝から足利義満までの間のことは小説に書いてない。

なるほど、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康は武士であろう。
薩摩や長州も武士だし、新撰組も武士だろう。
明治の軍人たちは武士の子孫に違いない。

だが、執権北条氏も、足利氏、新田氏、楠木氏らもまた武士であろう。
南北朝や応仁の乱のごたごたもまた武士であろう。
それらを全部ひっくるめて武士なのである。
しかし、司馬遼太郎は、吉川英治「私本太平記」を例に挙げて、
吉川ですら残念ながら水戸史観を頼りにこの時代を見ている、などと批判している。
水戸史観を通してみれば悲壮美にみちたきらびやかな時代だが、
それを取り払えばただのごたごたでなんでもない時代だ、と言っている。
なるほど、なんでもない時代ならなんでもない時代として淡々と描写すれば良いのではないか。
あるいはそれこそ水戸史観を司馬史観とやらで置き換えれば良いではないか。
まあ、新田次郎などはそれをやろうとして、派手に失敗しているし、
吉川英治も中途半端にやろうとして適当にごまかしているがな。
歴史家か歴史小説家が、ある特定の時代を取り出して、なんでもない時代、なにもなかった時代などというのは怠慢に過ぎない。
プロじゃない。
そもそもなにもない時代なんてものがあるはずがない。
逆に、なにもかもおもしろかった時代というのも幻想に過ぎない。

南北朝時代と応仁の乱の時代は、時期的にも近接していて、非常に良く似たものだっただろう。
どちらも、ほんとうの歴史というものは、ごたごたしただけのものだ。
司馬史観というが、幕末や安土桃山時代ばかりとりあげて、
武士の、日本史の暗黒の歴史、つまらなく、ごたごたどろどろした部分はほったらかして、
それじゃただミーハーなだけではないか。
頼山陽の立場で考えれば、彼はまあ彼の生きた時代なりに、日本の通史を書こうとして、
武士の良いところも悪いところも全部彼なりに最初から最後まで書いてみた。
さらに日本政記やら日本楽府も書いた。
そして彼は彼なりに、日本に武士がおこった所以を説明してみた。
藤原氏による国家の私物化、武家による簒奪(或いは王家の傀儡化)、
さらに北条氏という、天皇家でも貴族でもない階級による一時的な「善政」と崩壊。
長引く混乱の中で荘園制から守護大名、戦国大名への変遷。そして封建制の完成。
すべては連続的にかつ必然的に起こってきたこと。
だが、司馬遼太郎は日本の歴史をつまみ食いしただけだ。
彼が、宋学とか、水戸史観とか、そういうものを嫌っていたのはわからんでもないが、
それもまた武士の思想なのであり、
それをどうにかこうにか自分なりに消化しなくては武士を描写することなどできまい。

思うに、太平記がただのつまらない歴史だと言うのであれば、
史記に描かれた項羽と劉邦の話だって、脚色を取り払えば、ほんとうの歴史はごくつまらないものだっただろう。
安土桃山にしろ幕末にしろ、史実が明らかになればなるほど、ふつうのごくつまらない事実の積み重ねに還元されるだけだろう。
そんなことは当たり前のことなんじゃないのか。
歴史小説を書くには何かの脚色が必要で、だから司馬史観などと言われるのではないのか。

司馬遼太郎2

司馬遼太郎は案外著作は少ない。長編が多いせいかもしれない。
歴史小説で時代が古い順に並べてみる。

#### 秦漢

項羽と劉邦

#### 平安初期

空海の風景

#### 平安後期

義経

#### 室町

妖怪

#### 戦国初期

箱根の坂

#### 安土桃山

梟の城、夏草の賦、新史太閤記、尻啖え孫市、功名が辻、城をとる話、国盗り物語、
戦雲の夢、風神の門、播磨灘物語、城塞、関ヶ原

#### 明末清初

韃靼疾風録

#### 戦国・江戸初期

覇王の家、宮本武蔵

#### 江戸初期

大盗禅師

#### 江戸中期

菜の花の沖

#### 幕末

上方武士道、風の武士、龍馬が行く、燃えよ険、北斗の人、俄 浪華遊侠伝、十一番目の志士、
胡蝶の夢

#### 幕末・維新

最後の将軍 徳川慶喜、峠、歳月、世に棲む日日、花神、

#### 維新

翔ぶが如く

#### 明治

坂の上の雲、ひとびとの跫音、殉死

司馬遼太郎

「燃えよ剣」を読むまで、まったく気がつかなかったのだが、結構重大なことのようなので調べてみる。

「燃えよ剣」の中で司馬遼太郎は、近藤勇が日本外史の愛読者であり、
また頼山陽にまねた書を書くなどと書いている。
近藤勇は当時の平凡な田舎武士、あるいは町道場主として描かれており、
その趣味が頼山陽なのであり、
それ以上のことは書いてない。

また、「項羽と劉邦」の後書きで、頼山陽と日本外史について次のように触れているそうである。

日本人が中国大陸から漢字・漢籍を導人するのははるかなのちのことになる。
以後、日本社会はその歴史を記録として織りあげてゆくのだが、人間のさまざまな典型については自分の社会の実例よりも、漢籍に書かれた古代中国社会に登場する典型群を借用するのがつねであった。
このことは、ひとつには江戸末期に日本社会が成熟し、頼山陽が出て『日本外史』を書くまで自国の通史が書かれなかったことにもよる。中国文明の周辺の文化というのは自国を鄙であるとするらしく――朝鮮やヴェトナムも同じだと思うが――通史が成立しにくい。
たとえ成立しても、人間についての彫琢にとぼしい。『日本外史』にもそのきらいがあるが、それは山陽の罪ではなく、多くは日本社会の性格によるといえるであろう。
中国社会の場合、すでにのべたように田園にみずからを飼い養っていたひとびとがに挙に柵を脱し、山野へ奔りだすということがあるために、そこに浮沈する人間たちは、浮沈の力学として彫琢が深刻にならざるをえない。典型ができやすいということがあり、とくに戦国から秦末の争乱にかけてはそうであった。まだその典型たちの塚が古びていない時期に、記録者の司馬遷があらわれている。かれは宋代以後の学者よりもはるかにこんにち的な感覚をもち、二十世紀に突如出てきても違和感なく暮らせるほどに物や人の姿を平明に見ることができた。

日本外史が日本初の通史であろうか。
水戸藩の大日本史は確かに日本外史よりも完成は遅れたが、
それよりも先に編纂が始まっていた。
北畠親房の神皇正統記は、日本の通史とはいえまいか。
ほかにも日本外史に先立つ日本通史に近い著作はあるだろう。
また、日本書紀は明らかに当時としての通史であっただろう。
それらについて、司馬遼太郎ともあろう人があまりにも無関心すぎないだろうか。

また、日本外史が、史記と比べて、「人間についての彫琢にとぼしい」
と言っているのはどうにもわからない。
史記は司馬遷が書いたというよりは、地方に伝わった伝承を蒐集したものであろう。
民間伝承とはつまり平家物語や義経記、あるいは太平記などの軍記物語に近いものだったろう。
それらをつなぎ合わせて史記ができている。
それを後世の宋代の学者と比べて「はるかにこんにち的な感覚をもち」
などと評するのはあまりにもとんちんかんではないか。

[司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由その1](http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-424.html)、
[司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由その2](http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-426.html)。
なるほど、これは詳しい。
よく読んでから、また書いてみる。

司馬遼太郎と日本外史

司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んでいたら、近藤勇の愛読書として「日本外史」が出てきた。
その紹介はあっさりとしたもので、
楠木正成についてもごくありきたりの解釈。
もしかすると、司馬遼太郎は、平家物語や太平記辺りの日本史についてはあまり興味がないのかもしれんなと思った。
日本外史についてもせいぜい江戸時代に流行った講談もの程度の認識なのではないか。
ほとんど読んでないのではないか。
そんな気がする。

「燃えよ剣」自体はなかなか面白い。
特に調布から八王子辺りの地理をある程度知っている人には楽しめるだろう。
なんというか、関東に来てみないとよくわからない小説というものは実際ある。
志賀直哉の「城之崎にて」など冒頭、山手線にはねられて背骨を痛めてどうのという話があるが、
そもそも山手線というものがどんなもので、それが大正時代にはどんなふうでという具体的なイメージがつかめないと、
面白みがだいぶ減るのではないか。

眼福至極。