ラーメン模様

ラーメン模様が古くは青銅器の獣面紋に由来するのは明らか。商の時代にすでにあったのは確かだが、おそらくこのような意匠は日本の縄文式土器のように、土器の時代にさかのぼるのじゃないか。つまりああいう文様というのはつちくれをいじくり回していると自然とできてくる。彩色でなくてテクスチャを表現しようとするとああいうふうになりやすいと思う。となると現代のラーメン模様は中国の歴史時代以前にまでさかのぼれることになり、そう考えるとラーメンどんぶりにも中国五千年の悠久の歴史を感じさせるのであった。

獣面紋はアフリカのお面とかアメリカのトーテムポールとかそういう原始芸術を思わせるよね。子供の芸術というか。

志賀直哉

志賀直哉の「剃刀」は27才のとき、「清兵衛と瓢箪」は29才のとき、「小僧の神様」は36才のときの作品なんだねぇ。もう私はそんな年とっくにすぎたよ。しかし「濠端の住まい」は41才、「晩秋」は43才、「万暦赤絵」は54才ですよ。そう言われてみると、確かに「剃刀」「清兵衛と瓢箪」は若さに満ちあふれとるし、「万暦赤絵」はいかにも年寄りじみてるし、「濠端の住まい」「晩秋」は四十路のおやじが書きそうだ。「小僧の神様」は年齢不詳(?)だが、三十台半ばといわれれば、はぁと思い当たる節もあるようなないような。じゃあおまえ年の順に並べてみろといわれてもできないようなできるような。

しかし若いと言えば中島敦は若いよねぇ。ほとんどの作品が32~33才。「山月記」も「李陵」も「名人伝」も。

いやしかしねぇ。

筒井康隆も読み返してみてるが、まあなんていったら良いのか。明らかにあまりにもひどいのもあるよねぇ、筒井康隆は。

幻魔大戦

すごく久しぶりに幻魔大戦 (DVD) を見た。1980年代の紙と木でできたぺらぺらの家屋に住む日本人って感じが良く出てた。1983年ですよ。まだCDプレイヤーとかもなかった時代。
いや、一部にはあったかもしれんが。アニメとしては非常に稚拙だが、中身はかなり濃い。超能力モノのアニメとしてはバビル二世がかなり古いような。ガンダムもイデオンもそうだしね。なんか超能力はやってたよねー。ユリゲラーのせいかな?めちゃくちゃ手を抜いて静止画で済ませてたり、ほんとまじで紙芝居並に止まってたりして、しかしサビんとこはディズニー並にこまかく動かしてたり、作り込みにムラがあるのよねー。まー、昔のアニメってそうだよね。破裏拳ポリマーもそうで、ときどき気合い入れて動きが良い場面とかあると、あー、ほんとは全編通してこのくらい作り込みたいんだろうなあとか同情したりして。

つーか、そういう意味じゃ、技術的には当然進歩したけど、大して進化してないんじゃないかなと思うね日本のアニメって。

あと、今じゃ絶対作れないくらい原色の明滅がきつい(笑)。私は全然平気だけど。ナムジュンパイクとか新興宗教の自己啓発セミナーとかこんなだよねきっと。

FF XI はすごいと言えばすごいんだろうけど、今時これくらいできて当たり前な気もするし、じゃあ自分でやりたいかって言われたらどうかな。

なんか、ガソリンスタンドでバイトしながらお金貯めて、バイク買って首都高とか峠をつるんで暴走するとかいうゲームなら、ちょっとやってみたいかも。追体験というのかな。事故っても死なないし。

シェンムーオンライン横須賀どぶ板編とかさ。毎日フォークリフトのバイトするとかさ。バイト仲間で弁当食いながら会話するとかさ。カモメにエビ天のしっぽ投げるとみゃーみゃー鳴きながら寄ってくるとかさ。

あるいは戦後の新宿の闇市で成り上がっていくヤクザ者のオンラインゲームとか。

初詣は京城で

「初詣は京城で」という中吊り広告があって、はあ、ソウルで初詣とは?とよく見ると、「初詣は京成で」と書いてあったのだった。よけいな背景のテクスチャのせいで見間違えた。

山羊や羊は野菜くずをあげるとよい、ただしタマネギ、ネギ、ほうれんそうなどはだめらしい。そのへんの草やはっぱや紙を食わせてもいかんらしい。それは過保護ではないか。山羊の目は横に平たいと思ってたが必ずしもそうではないのか。

アメリカ

アメリカのマクドナルドは今はなきバーガーキングと同じくらい巨大サイズなんだが、デニーズも古き良きアメリカって感じで、昼間っから Tボーンとかビフテキ 500gとか出てきますよね、という話をしたら、アメリカのデニーズは人種差別がひどいのであまり行かない、と言われた。

人種差別というのはアジア人や黒人が来ても、いつまでたっても注文を取りに来ないとかそういうことだそうだ。

坑夫

夏目漱石の「坑夫」というのを高校生のころに読んだが,あまり有名な小説でないので,それ以来見かけたことがなかった.漠然とどこかの炭坑のようなものを想像していたのだが,青空文庫で読み返してみると,この東京から北の方へむやみに歩いて松原が延々と続くというのは,どうやら川越街道の描写のようだ.とくに「松原が延々」というのは志木から川越の手前あたりのことに違いない.川越街道は「栗よりうまい十三里」で東京から 52km だから,夜通し歩けばだいたい三芳町あたりまでくるだろう.もしかして夜中に寝た八幡様というのは上福岡の鶴ヶ岡八幡神社だったかもしれん.

板橋街道というのが出てくるが,これはつまり中山道のことだが,これとは別もののようだ.中山道とは別に北へ行く街道と言えば,あとは水戸街道があるが,水戸街道や中山道は川を越えたり田圃を過ぎたりしてわりと変化がある.その点,川越街道は,志木を過ぎて柳瀬川をわたってからはほとんど何も変化がない.まず間違いないだろう.

さらに行くと,牛込神楽坂のようににぎやかで,東京と同じふうな人がいる町で,汽車のステーションがあるというところにでる.これは川越のことだろう.

それから汽車で足尾銅山に向かったとある.川越から足尾銅山へはずいぶん乗り換えがあるが,まあともかく,川越街道あたりで若者を勧誘して足尾銅山につれていく商売をしていたというのは大いにあり得る.

宮崎駿全発言

アニメージュ「宮崎駿全発言」というのを読む.
確かに子供が毎日三回「トトロ」を見てはいかんような気がするな.
しかしそういうことを言えば「お母さんといっしょ」や「セサミストリート」もいかんと思う.
人間は偶像がとてつもなく好きな生き物だから.
ぬいぐるみとか人形とかアニメのキャラなどはすべて業の深いものなのだ.
宮崎駿は,それを子供の教育の話にすり替えてしまっている.
昔の人間の方がより現実に近く,現在の方がよりバーチャルなのか.
そうとは言えまい.昔の方が人類は強く宗教や迷信や妄想に支配されていた.
貧困や病苦や死に翻弄されていた.
教育を受ける機会も少なかった.
たとえば藤原氏がのめり込んだ浄土思想を見よ.
あの平等院鳳凰堂の狂気狂信を見よ.
いま子供が毎日三回「トトロ」を見ているのとどこが違うのか.
では貴族でなく農民の子供として毎日ただ生きるために働いた方が幸せだっただろうか?

昔の子供は自然の中でのびのびと育った,というのも何か嘘臭い感じがする.
昔の子供も都市に暮らせば自然など知らないし,
今でも田舎で暮らせばいくらでも自然はあるはず.
宮崎駿は中世や神話や自然などを過度に美化していると思う.

縄文人の遊び

水子貝塚公園に行くと子供らが竪穴式住居によじ登って遊んでいた.
下から別の子供がボールをぶつけていた.
やがてみな屋根のてっぺんに並んで座り,
父親とおぼしき男がボールをなげつけていた.
昔の縄文人もこうやって遊んでいたのだろうか….

煮詰まったので聖書を読む.
サムエル記下6:19 に「輪形のパン」というのが出てくる.
これはもしかしてベーグルのことか.
文語訳では単に「パン」.
ヘブライ語ではパンは「レへム」,しかし安息日に食べるパンは「ハラー」というらしい.
ところが「ハラー」で検索すると「蜂蜜入り三つ編みパン」とか出てくる.
謎は深まる.

レビ記2:4に

> 献げ物をかまどで焼いて穀物の献げ物とする場合は、酵母を使わずに、
オリーブ油を混ぜて焼いた上等の小麦粉の輪形のパンか、
オリーブ油を塗った酵母を入れない薄焼きパンとする。

とあるが,これは
ベーグルとピタ
に相当するように思われる.

ダビデのことを「エッサイの子」などというが,
これはオサマ・ビン・ラディンをビンラディン(ラディンの子)と呼ぶのと同じか.
他にも
「アヒトブの子アヒメレク」
「アヒメレクの子アビアタル」
など用例多し.

聖書

煮詰まったので聖書を読んでいた.
サムエル記上(新共同訳)

> 18:25 サウルは言った。「では、ダビデにこう言ってくれ。『王は結納金など望んではおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだ』と。」サウルはペリシテ人の手でダビデを倒そうと考えていた。 18:26家臣はダビデにこのことを告げた。ダビデはこうして王の婿になることは良いことだと思い、何日もたたないうちに、 18:27自分の兵を従えて出立し、二百人のペリシテ人を討ち取り、その陽皮を持ち帰った。王に対し、婿となる条件である陽皮の数が確かめられたので、サウルは娘のミカルを彼に妻として与えなければならなかった。

むう.「陽皮」とは?(笑).
広辞苑にも載ってないのだが….

> 19:19ラマのナヨトにダビデがいる、とサウルに告げる者があり、 19:20サウルはダビデを捕らえようと使者を遣わした。彼らは預言者の一団が預言しているのに出会った。サムエルが彼らの先頭に立っていた。神の霊はサウルの使者の上にも降り、彼らも預言する状態になった。 19:21サウルはこの報告を受けて、他の使者を遣わしたが、彼らもまた預言する状態になった。三度、サウルは追っ手を送ったが、彼らもまた預言する状態になった。 19:22ついに、サウル自身がラマに向かい、セクの大井戸まで来て、「サムエルとダビデはどこにいるのか」と尋ねた。「ラマのナヨトです」という答えを聞き、 19:23サウルはラマのナヨトに向かってそこを去ったが、彼の上にも神の霊が降り、彼は預言する状態になったまま、ラマのナヨトまで歩き続けた。 19:24彼は着物を脱ぎ捨て、預言する状態になったまま、その日は一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れていた。このため、「サウルもまた預言者の仲間か」と人々は言った。

むむう.「預言をする状態」とは?