亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘旅行’ Category

草加

07.14.2010 · Posted in 旅行

出張で草加まで行く。広々としている。綾瀬川。ほとんど起伏無く真っ平らな、典型的な武蔵野。 武蔵野の広さを実感するには、浅草から日光までじっくり東武に乗ってみるとわかるだろう。 これが神奈川だと、だいたい川沿いには深い谷ができる。 崖にすらなっているが、神奈川の風景とはだいたいが山から川が出てくる谷地ばかりだからだ。 草加の綾瀬川などは、周りの土地に何の渓谷も形成していない。 つまりここは氾濫原であって、川筋が固定されたのはつい最近のことなわけだ。 これだけまったいらで広々したところに首都を作ればどれほど便利だっただろうか。 軽くロサンゼルスくらいの規模の街を作れるだろう。 だが、江戸時代にはそんなに広大な都市を造ろうという発想はなかったに違いない。

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駿府城

07.11.2010 · Posted in 旅行

たまたま静岡出張で、初めて行くところだったのであちこちぶらぶらした。 なんか典型的な県庁所在地という感じ。 しかし雰囲気は城下町というよりは、門前町の長野に似てる。 一応東海道の宿場町だったはずだが、 旧街道と、浅間神社の表参道が交わるあたりが一番の繁華街だったろうと思われるが、 風俗店はパチンコ屋が二軒くらいしかない。かなりストイックな感じ。 すぐそばに徳川慶喜の隠居跡もあるくらいだし。 慶喜は水戸か江戸に住んでいたはずだが、老後は静岡というのは、 やはり駿府城下が一番徳川家にとって人情的には居心地よかったのだろうか。 旧旗本ごと越してきたからか。 ははあ。なるほど晩年は巣鴨に住んだんだな。 明治天皇に謁見したり勝海舟と会ったのもこの頃だわな。 するとまあやはり静岡に暮らしたのは謹慎・蟄居とかそんな感じだったのだろう。 正室美賀子の歌:

かくばかりうたて別れをするが路につきぬ名残は富士の白雪

「別れをする」と「駿河」をかけている面白い歌。慶喜が美賀子の三回忌に詠んだ歌:

なき人を思ひぞ出づるもろともに聞きし昔の山ほととぎす

慶喜の歌を一通り調べてみたい気もするよね。

駿府城はお堀がなんとも立派だった。 三重の堀のうち、内堀はほとんど埋め立てられ、外堀も部分的に埋め立てられていたが、 なんかすごい城だ。 だが家康が晩年住んだ他はあまりメンテナンスもされなかったようだ。

駿府というのは駿河国の国府という意味なのか。 甲府と同じだわな。

浅間神社にも行く。 このような、甲斐を甲府といったり、駿河を駿府と言ったり、浅間をせんげんと読んだりする趣味はあまりすかん。

静岡鉄道にも乗る。

海産物が安いようだ。駿河湾と相模湾はお隣どうしだから、江ノ島や小田原あたりと魚も近いようだが、 こちらの方がずっと安いようだ。金目とかしらすとか。

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大国魂神社

03.22.2010 · Posted in 写真, 旅行, 詠歌

なぜか大国魂神社にしだれ桜を見に行く。 そのあと府中美術館。 歌川国芳展。まあまあ。 文覚が那智の滝に打たれる三枚続きの浮世絵が印象的。

ひろびろとして良い町。 工場も多いし競馬も競輪もあるからさそがし地方税やら医療費やらは安かろう。 戦闘機も飛ばず静かだし。 のんびり住むには良い町だろう。

たま川をわがこえくれば川の辺に咲きたる桜ひと木だになし

しだれざくらは赤みが強い。エドヒガンの一種らしい。ということはやや早咲き。 ほぼ見頃だが、まだ満開ではなく散るようすもない。


こちらはやはり早咲きの、府中美術館近くに咲いていた大寒桜。


頼義・義家父子と家康が奉納したという大国魂神社ケヤキ並木を

武蔵野の司の道にうゑつぎていやさかえゆくけやき並みかな

しかし八幡太郎が千本植えてさらに家康が補充したはずなのに現在は150本しかなくてしかも並木道の全長は500mもあるっていうのはどういう計算なんだいという。 もともとせいぜい100本くらいしか植えなかったんじゃないのかなと。 イチョウ、ケヤキの並木、大木が多い。五月頃来るとまた美しいのだろう。

二宮金次郎

菜の花の咲けるをりには思ひやれ身を立て世をも救ひし人を

「歯がない」と「はかない」をかけて

をさなごの歯の生えかはりゑむかほのはかなきものは春ののどけさ

をさなごのはかなきかほをながめつつ春のひと日を過ぐしつるかな

またたばこ

いたづらに立つや浅間のけぶり草目には見えでもけむたきものを

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修善寺温泉

01.31.2010 · Posted in 写真, 旅行

伊豆の修善寺温泉に行くことにしたのだが、 鎌倉などに比べてネット上にあまり情報がなくて困った。 まあ、鎌倉と比べるのもかわいそうだが、るるぶなどの旅行情報誌にもあまり情報がない。 るるぶ紙面では沼津や三島などの情報も非常に少ない。 今回、沼津、三島、韮山、修善寺と観光して回ったのだが、 潜在的需要の割りには観光情報が不足していると感じた。

沼津駅から若山牧水記念館あたりまで歩く。 海からの富士山の眺めはいわゆる絶景。 田子の浦の製紙工場の煙突の煙もよく見える。 とんびかからすかかもめかしらないが富士山を背景に群れ飛んでいる。

沼津港で昼食。まあまあ。 タクシーで駅まで戻る。 1000円かからない。 タクシーならあっと言うまだが、ぶらぶら歩くと1時間コース。 時間がないときはあっさりタクシーで移動した方が良いだろう。

JRで三島に移動。 沼津市内にはほとんど観光客向けの表示がなくて難儀したが、 こちらはいたれりつくせり。 三嶋大社まで楽に歩けた。 三嶋大社はいろんな意味でいろいろ興味深い。 境内の南側に池があり、島があって、鶴ヶ丘八幡宮の場合ここは弁天様だが、 こちらは厳島神社が祭ってある。 富士山の豊富な伏流水が、ここ三嶋で湧き出しているのだ。 安政の大地震で社殿はすべて倒壊したが、 時の神主・矢田部盛治の尽力によって総檜造りで慶応四年に復興したという。 この矢田部家は物部氏の一族で伊豆国造の子孫でずっと三嶋社の神主として世襲しているというが、 国造というのはつまり律令で国司が任命されるより前の土着ということであるから、ほんとうならばおそろしく古い家系だ。 国造の子孫が今も続いている家系というのがどのくらいあるだろうか。 宝物殿の絵巻を見ると昔の社殿は朱塗りだったようだが、 幕末に復興された今の社殿はしぶく黒ずんだ天然木目である。 彫刻もかなりほどこされているが東照宮のように華美ではない。 やや狭いが神鹿苑というところに数十頭の鹿が飼われているのは、かつて鹿がここらで放し飼いになっていたなごりだろうか。 神馬社というのもかつてはほんとの馬を飼っていたそうだ。

三嶋社はもともと三宅島にあったが、 延喜式の時代には下田に移り、頼朝の時代にはすでに今の場所にあったようだ。 明治には官幣大社。 これまた宝物殿の説明によれば、伊豆沖に新島ができたり火山が噴火したり、 地震が起きたりといった自然現象はすべて三嶋の神の仕業だと考えられており、 また伊豆は地震や噴火が多いので、延喜式にも神社が非常に多く記録されているのだという。 確かに地震の神様とか噴火の神様というのは日本に居てもおかしくない。 浅間神社などがそれか。

伊豆諸島に680年頃に新たにできた島ってなんなのだろう。 調べてもよくわからん。

それから伊豆箱根鉄道駿豆線に乗って修善寺駅に向かう。 伊豆箱根鉄道というのは他にも小田原から大雄山線も運営しているのだな。 なるほど西武グループなのか。 バスが西武系なので不思議だと思った。 三島駅から修善寺駅までは30分程度。 そこからバスで210円で修善寺温泉へ。 タクシーだと1200円程度のようだ。 日が暮れたのでその日はそのまま寝る。

翌日観光。 伊豆半島の中央を流れて沼津辺りで駿河湾にそそぐ狩野川という、わりと大きな川があり、 その支流の桂川沿いに修善寺温泉郷はある。 なぜここに来たかと言うと、源頼家と範頼がこの地に幽閉され、殺害されもしくは自害し、 この地に墓があるからだった。 で、いまでは「伊豆の小京都」と呼ばれてミシュランで二つ星をもらっているらしい。 ミシュラン二つ星がどの程度すごいのかよく知らんのだが。 なるほど、レストランガイドの赤ミシュランと、観光ガイドの緑ミシュランというのがあって、 こちらは緑の方なのね。


まずは、頼家の墓、 頼家の死後蜂起した十三人の家臣の墓、 頼家の菩提をとむらうために北条政子が建てたという指月殿というものを見にいく。 指月殿は伊豆に残る最古の木造建築であるという。 指月殿にはなるほどそこはかとなく風情がある。 本来は修善寺に寄進された大蔵経を収める経堂だったらしいが、それらは散逸し、 今は釈迦如来像と仁王像が置かれている。


修善寺温泉郷の中心地は修善寺近くの桂川の中にある「独鈷の湯」というものらしい。 そのほど近くに新井旅館という古風な旅館がある。桂川に面しており、 向かいの岸辺の竹林は確かに小京都というだけのことはある。 おそらく戦前はこの新井旅館周りのこぢんまりとした温泉場だったのだろうなと思う。 独鈷の湯の周りの河川敷は工事中で入れず。 川沿いに新たに足湯なども建設中。 山奥のせいか梅もまだほとんど咲いておらず、桜もなく、紅葉もなく、 独鈷の湯も工事中ということで、いわゆる完全なシーズンオフに来てしまい、 宿もずっと外れだったわけだが、 だから割安だったのだろう。 人混みしているとそれはそれで鬱陶しい。

修善寺は寺の表記は「修禅寺」となっており、曹洞宗であればそれでも良いのだが、 弘法大師が開祖とは不思議だと思ったのだが、 もとは真言宗だったのだが、途中から臨済宗(禅宗の一つ)となり、 のちに北条早雲が曹洞宗(これも禅宗の一つ)として再興したのだという。 手水が温泉なのがやや珍しい。

鬼門に日枝神社あり。ここに範頼が幽閉された館があったらしい。 ここらだけ、杉木立がうっそうとしており、夫婦杉などある。 神社の境内は樹木の伐採などしないから自然とそうなるのだろう。


範頼の墓。やや離れたところにある。


帰途、韮山で降り、江戸時代の江川氏の代官屋敷、韮山町の郷土資料館、韮山城跡に行く。 正確には、韮山町は合併して伊豆の国市となったらしい。 韮山城は北条早雲の最初の居城。城山と城池が残る。 子母沢寛「新撰組始末記」によれば、近藤勇が生まれた調布も韮山代官江川氏の支配だったという。

蛭が島。 頼朝と政子の像。 富士山の方角を向いているのだが、 どうしても逆光になる。 フラッシュかレフ板が必要だな。 記念撮影しにくい。 しかも背景の送電線が気になる。 北向きに銅像を建ててはいかんね。 向きを変えた方がいいんじゃあるまいかなどと思った。 流刑地が蛭が島というのは後世の伝承、推定らしいが、 それ以外に特に情報もなく、 ここらは昔は狩野川の氾濫原で、 この辺りのどこかに、蛭が島という狩野川の中州があって、頼朝が居たと思ってもまあいいかと思った。 平氏がもし北条氏に託して頼朝を厳重に幽閉しようというのであれば、 北条の里の後背地で、より行き詰まった修善寺辺りの谷あいに住まわせるだろうが、 おそらくそこまで配慮はしていないだろう。 このやや狭苦しい伊豆の内陸部の狩野川の流域が北条の里であり、頼朝や北条氏や後北条氏の故地であった、 とおもえば、なにやら感慨深い風景ではあるな。


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鎌倉宮の謎

01.13.2010 · Posted in 旅行

鎌倉宮創建は明治2年、明治天皇わずか17才。 明治天皇の直接の意思で創建されたとは考えにくい。

思うに、鎌倉宮のほど近くの山中に、大江広元と島津忠久、毛利季光の墓が江戸時代に作られたとあるが、 長州と薩摩がわざわざ同じ場所に、鎌倉幕府の故知に祖先の墓を作るというのはこれはただごとではない。 もしやすると、江戸時代と言っても末期、薩長同盟の成ったあとに徳川幕府転覆を祈念してここに墓を建てたのではなかろうか。 碑文を良く読むとわかるかもしれん(碑文はしかし維新後のものかもしれんなあ)。 明治新政府の意思とはつまり薩長の意思であって、 維新成立後速やかに鎌倉宮が創建されたのもまさに同じ意図によるか。

ふむ。どうも、島津氏の墓が先にあってあとから毛利氏の墓が移設されたようだ。 なるほど。頼朝の墓も薩摩藩主・島津重豪が整備したのか。 で、途中にあったのが三浦一族の墓なのだな。

東京招魂社も明治2年創建。 もともと招魂社は長州藩に1865年に最初に作られ、 東京招魂社も長州藩の大村益次郎が献策している。 もしかすると鎌倉宮も長州関係かもしれない。

というか、鎌倉宮はもともと東光寺という寺だったそうだから、 単に、廃仏毀釈運動と連動して創建されただけなのかもしれん。

ええっと東光寺という寺は当時すでに廃寺だったらしい。

旧暦・明治2年(1869)2月起工、6月20日神体が決定、7月21日社殿落成、鎌倉宮と命名、創建される(「明治天皇紀 第二」宮内庁 昭和44年 吉川弘文館)

やっぱちゃんと天皇紀を読まなきゃだめか。

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鎌倉宮

01.07.2010 · Posted in 写真, 旅行, 詠歌

初詣を兼ねて鎌倉に行ってきた。 未だに参拝客は多い。 車が多く道が狭い。 要するに混雑している。

JR鎌倉駅東口から若宮通り段葛を鶴岡八幡宮入口まで歩いてそこからいったん右に折れ、 まずは宝戒寺に行く。 拝観料100円は他と比較すれば別段高くもない。 ここは北条義時が建てた小町邸の跡で以来北条執権の屋敷となり、 北条高時はここからさらに東南裏手葛西ヶ谷にある北条氏菩提寺の東勝寺で討ち死にし、 小町邸跡に高時の菩提を弔うために後醍醐天皇が足利高氏に命じて天台宗宝戒寺を建立したと言う。

宝戒寺境内にある徳崇大権現とは北条高時を祭る神社らしい。 これすなわち北条得宗家代々の霊廟という意味だろうと思うとなんとも畏れ多いことである。 この中に高時の木像が置かれているらしいが、気づかなかった。

北条氏の屋敷というのが、当時どのくらいの規模でどの範囲まであったのかなどは、 今となってはさっぱりわからない。

鐘を撞かせてもらう。 庭にリスが居る。 あと、ヤブツバキ。 東勝寺跡の高時の墓を見るのを忘れた。 今度の機会に訪れよう。 幕府やら御所やら執権の屋敷やらの詳しい配置が知りたい。

もののふのほろぼされたるやかたあととぶらふ寺となりて残れる

鶴岡八幡宮方面へ戻り、池の周りに作られた牡丹園400円にはいる。 ボタンといえば花札では六月だが、 一月頃に咲くものや春に咲くものが普通らしい。 数も多く、花も大きくて極めて美しい。

そのあと池の中にある旗上弁天社へ。 源氏の白旗が乱立、白鳩やその他水鳥などが美しい。

静御前が舞ったという舞殿(当時はなかった)、実朝が暗殺されたという大石段を通り、 本宮を参拝。

鶴の岡のやはたの宮のきざはしをのぼれば君のおもほゆるかな

宝物殿200円。

しづやしづしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

これは本歌が伊勢物語で、

いにしへのしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

しづというのは本来は「賤」と書いて要するに貧しい者とか田舎者とか言う程度の意味だが、 静御前の「静」にかけてある。 まあ、これまた良くできた伝説と言うべきだろう。

境内の白旗神社方面へ向かうと路傍に句碑あり

歌あはれその人あはれ実朝忌

毎年実朝にちなんだ句会が開かれるらしい。

鎌倉国宝館の仏像や肉筆浮世絵などを見る。 葛飾北斎筆「酔余美人図」 (つまり酔っぱらって二日酔いの女性の絵)、 司馬江漢「江之島富士遠望図」などが少し面白い。

それから頼朝の墓へ向かう。 ここにも白旗神社がある。 ここの狛犬はなかなか古風で小ぶりだが味わいがある。 墓から見下ろす平地、小学校辺りに最初の幕府(大蔵幕府)が置かれたという。

そこからすぐ近くの山腹、ややわかりにくい場所に、 大江広元、島津忠久、毛利季光の墓が三つ並んである。 も少し厳密に言えば真ん中に大江、そのすぐ隣に毛利、参道が分かれるが大江の反対隣が島津。 毛利季光は大江広元の四男で毛利氏の祖、 島津忠久は島津氏の祖。 この三人の墓が頼朝の墓の近く、最初の幕府を見下ろす岡にあるのは、 何か意味ありげはある。 追記

さらに行くと荏柄天神という神社があるが、 ごく普通の天神さん。 大蔵幕府の鬼門に当たるという。

さらに行くと官幣中社鎌倉宮がある。 後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が祭られた神社で、 いわゆる建武中興十五社の一つとして一括りにされているが、 創建が明治二年と維新からまもなく極めて迅速、 明治政権によって新たに作られた神社の中では最初期に当たる。 そのせいもあってか規模は必ずしも大きくはない。 本殿後には、護良親王が幽閉されたという岩窟がある。 よくわからないが中はかなり広い。 しかも二段になっていて、奥がまた一段下がって広いらしい。 いったい鎌倉というところは至る所に岩窟がうがたれていて、 それは多くは墓か倉庫のようなものだろう。 先の大江氏や島津氏の墓もやはり岩窟である。 普通に考えればこんなところに九ヶ月も人が住めるはずがない。 太平記の記述では土蔵となっているから、 実際にはこんな穴の中には居なかったと思うが、 しかし、伝説としてはすさまじいものを感じた。

すめらぎの皇子と生まれて野に山に仇と戦ひ果てし君かも

五箇条のご誓文と教育勅語を合わせた碑などが建っている。 また、明治天皇が行幸したときの行在所が今は宝物殿となっていて、 かなり手狭な建物だが、 中には明治天皇下賜「鎌倉宮」の額、 東郷平八郎「制機先者勝」(機先を制する者は勝つ)の掛け軸、 山本五十六「至誠奉公」の額、 乃木希典「忠孝」の額、 それから伊藤博文、勝海舟、山岡鉄舟らの何が書いてあるかよくわからない書などが、 かなり無造作に展示されているのだが、 これらは特に断り書きもないのですべて真筆であろうと思われる。 私自身、大船の本屋でるるぶ鎌倉を買うまでこの神社の存在すら知らなかったのだが、 なんというおそるべき宝物群であろうか。 思うに、明治神宮も東郷神社も野木神社もなかった明治時代には、 この鎌倉宮の意義はもっと重かっただろう。 そのほか、大塔宮護良親王の故事事績を表した錦絵なども展示されているのだが、 なんちゅうかあまりにももったいない。 こんだけのコンテンツがありながら、 あまりにも宣伝しなさすぎる。

護良親王の身代わりになって吉野城で切腹して果てた村上義光を祭神とする村上社も同じ境内、 本殿向かって右手に祭られている。 宮の身代わりに死んだ義光は、今も参拝者の身代わりに厄払いの神となっている。 つまり、 「身代わり様」と呼ばれ、 「撫で身代わり像」というものがあってこれをなでさすると厄を身代わりしてくれるということだろう(2004年に出来たらしい)。 また、千円ほどで「身代わり人形」というものが売られており、 この人形になにやら願い事を書いて奉納すると厄が払えるとのこと。 吉野城軍事や村上義光親子の忠節を知っていればあわれで恐れ多くて、 村上義光にこれ以上厄除けで働いてもらおうなどとは思わないと思うのだが。

身代はりにいのちささげて今もなほ人を助くる神あはれなり

他にも厄割り石というかわらけが100円で売ってある。境内に何カ所もある。 これを投げつけてこなごなに割ってストレス発散すれば良いらしいのだが、 なんかもう由来的にはすごくまがまがしいものを感じてしまう。

藤原保藤の娘・南の方を祭る南方社が本殿の隣に配置してある。 南の方とは護良親王が幽閉されたときにお世話をし、死後も御霊を弔ったとのこと。 写真はもろ逆光でピントも手前に合ってしまっているが、これまた2004年に現在の位置に移したという。 親王の隣に寄り添うよう仲良くという配慮だろう。

惜しむらくは創建があまりにも早すぎて、神社の規模が小さすぎることと、 また戦後民主主義的にはやっかいな存在となって、 積極的に観光ルートに乗せられてないのだろう。 鎌倉にある平凡な神社の一つ、観光スポットの一つになってしまっている。

さてここから引き返して今度は鶴岡八幡宮の反対側にある北条政子と源実朝の墓に向かう。 ここもまた岩窟。 他の墓同様にきわめてささやかなものだ。 ここは寿福寺という寺の裏の墓地。 寺から直接いけないのは、つまり途中の岩窟が危険なので迂回しなくてはならないからだろう。 墓地の木の上でもごもご鳴いている動物が居ると思ったらリスだった。 鳴き声はかわいくない。

もののふのふりにし墓をたづねむと登れば険し鎌倉の山

ここから若干引き返して険しく細い山道を登って源氏山公園の頼朝像とご対面し、 あとは山道を降りる途中にある銭洗弁天に寄って帰った。 あまり期待してなかったがここはなかなか愉快なところで参拝者も多い。 参道がやはり岩窟。 岩窟を抜ければそこは銭洗弁天だった的。 元はと言えば鎌倉山中の岩穴に湧く泉だったのだろう。

だいたいに、京都や日光東照宮のようなものを想像していると北条氏ゆかりの遺跡というのは総じて地味であって、 実際にはそんな派手で宮びなものではなかったのだろうなと思う。 鶴岡八幡宮の社殿にしてもこれはおそらく家康入府以後に東照宮的な趣味で再建されたものであり、 頼朝や実朝の時代にはどんなふうだったろうか。 こんな華美ではなかっただろう。 鶴岡八幡宮、銭洗い弁天、小町通りや若宮通りあたりが人混みが激しいが、 あとはわりとひっそりしていて気持ちよく観光できた。

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頼山陽記念館

03.28.2000 · Posted in 旅行

羽田 10:50 発。広島空港着。 15:00 頃広島バスセンター着。雨。原爆ドームや平和記念館などを見たあと、頼山陽記念館に行く。ここには頼山陽の親類縁者の書画しかない。戦前は多少はあったのが、原爆ですべて灰塵となったか。或いは京都のあたりにあるのかもしれん。 1500 円の中央公論「頼山陽」という本を買う。これは「日本外史」の一部和訳が載っていて、なかなかおもしろい。が、しかし、北条氏、豊臣氏、徳川氏などがごっそり抜けていて、全訳だったらもっと良いのにと思った。

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上海帰りの

10.15.1995 · Posted in 旅行

去年北京を見て,今年は台北を見てたので,上海もたいしたことはあるまいとタカをくくっていたのだが,上海は北京の十倍,いや百倍はきれいだし,台北よりも資本主義的に見えた.台北はゴミゴミしてたが,上海にはなんとなく余裕さえ見えた.これは誇張でもお世辞でもなく,私の観察によるところの率直な感想だ.上海はおそらく二・三年で東京並になるだろう.

上海経由で武漢にいったのだが,武漢は北京によく似た雰囲気の都市であった.つまり人民中国的な雰囲気の都市だった.上海はどうやら中国の都市の中では別格らしい.

それで,どうして上海がこのように独り中国の中で富み栄えており,しかもこのような自由な雰囲気に満ちているのか,という疑問が湧いてきた.

上海浦東区のだだっぴろい特別区を見学に行った.ここに免税などの優遇措置でもって外国企業の工場を誘致しようというわけだ.既に日立や松下などの参入が決っているという.「もしあなたがソニーの社長なら投資しますか?」と質問された.そのとき私は,

  • 中国は大きなプロジェクトが好きな国だが,必ずしも成功してるとは限らない.国家プロジェクトではなく,民間の個々の自由な活動にまかせるべきではないのか.
  • 広東の経済特別区(深(土川)など)の優遇措置は撤廃という噂が流れており,一応の成功は収めたものの,投資額は減少し,他に移転する企業が増えている.上海でも,初めのうちは優遇措置で外国企業を誘致しておいて,うまくいきだしたら規制を強めるのではないか.
  • 外国資本の投資に依存していては,中国市場が大きければ大きいほど中国は損をするのではないか.
  • 上海は,中国の中では一番物価の高いところだろう.安い製品を作るなら,上海でなくて他の地域や他の国に工場を作るべきではないか.

などと思った.この特別区はなりはでかくて立派だが,結局それほど工場は入らないのではないか.それにしてもこの投資の仕方は気違いじみているなぁ,と思ったものだ.

で,それからいろいろと調べてみたのだが,この一見無謀に見えるプロジェクトだが,実は今の国家主席,上海出身であり,上海交通大学出であり,元上海市長であった江沢民の,上海を経済的な首都にしようという政策によるものらしいということがだいたいわかってきた.おおすじでは,

  • 北京はひきつづき政治的首都として残す.
  • 現在再開発中の上海浦東区を特別区とし,外国企業の工場を誘致する.
  • 市内に外国銀行を誘致して香港以上の金融センターとする.
  • 広東の経済特別区の優遇措置は暫時撤廃する.

らしい.

香港は欧米諸国の干渉が多くて中国の思い通りにならないので,香港の機能をまるごと上海にもってきて,さらに広東優遇もやめて,上海に一元化しようということのようだ.上海はかつて世界の金融センターだったことがあり,なんとなく自由な雰囲気が残っているので,もしかするとうまくいくのかもしれない.

人民中国は,文革のおり,字画を減らした簡体字というものを考案して以後ずっとその字体を使っているものとばかり思っていた.この簡体字というものはあまり美的センスというものを考慮していないような気がするし,フォント作りも真面目にやってないような気がするし,手書きで書くときにも気合いが入らないのではないかという気がする.北京は町中にほとんど活字のない町であった.一回ごとに書き手の気分で手書きしてるような,そういう道路標識が多かった.きくところによれば,橋や道路の名前は,偉い政治家に頼んで書いてもらうのだそうな.台北に行ったときには,旧字体の美しい活字が町にあふれていて,とても美しく見えたものだった.ところが今回,上海と武漢に行ってみると,簡体字とともに旧字体もかなり使われていることがわかった.活字による道路標識も至るところでみられた.「なぜ簡体字を使わないのか,簡体字を使わなくても政府は文句をいわないのか」と尋ねてみたところ,「文化大革命はもう終った」とのことであった.北京は,いまだに毛沢東の肖像が睨みをきかす町なので,簡体字を使い続けているのだろう.

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