亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for 1月, 2006

規制緩和・民間委託

01.29.2006 · Posted in 雑感

経済が行き詰まり財政赤字で首が回らなくなったから構造改革・規制緩和・民間委託やったんで、その結果姉葉やライブドアなどの不祥事が発生するのは想定の範囲内でないのか。 役人は減らすが政府の責任だけは増えるのか。 輿論の支持があってはじめてやれる政策だろ。 規制緩和して多少やりすぎる若者や姑息な経営者が出てくるのは当然なんじゃないのか。 その政策を支持したのは有権者だろ。 ホリエモンやライブドアはともかくとして経済全体は良くなって来ているだから、結果OKではないのか。 多少の行き過ぎは個別対応すりゃいいだろ。 こまかなことをぐだぐだ言い過ぎだよ。 自民党ももっと本質論でびしっと反論すりゃいいのに。

昔みたいにみんな役人や特殊法人がのさばって許認可制度にしろっていうんだろうか。 あほかと。 社民党や共産党はともかく民主党まで次から次へとよくもまあ、政権担当能力欠如をさらけ出している。 まー誰も民主党に期待してませんかそうですか。 民主党も政権とりたきゃ社民党や共産党のまねすんなよバカだなあ。 もっと本筋論でびしっと論陣張れや。

ていうか、冷凍牛肉の骨だけばらして輸出なんて、そんな手間かかることアメリカ人がやるわけないんじゃねーの。 凍らせる前に解体しないとなぁ。 そんな面倒なことやるかなあ。 今頃、屠殺業者が海の向こうで激怒してる様が見えるようだね。ははは。

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脳機能計測

01.15.2006 · Posted in 学問

いわゆる「脳科学」は「脳機能計測」に基づいている。

脳波計(EEG ElectroEncephaloGraphy) がもっとも古く時間分解能は 1ms (== 1000Hz) ときわめて速い。 しかし空間分解能はとてつもなく低い。 だいたい脳の中のおおまかな位置しかわからん。 森昭雄ゲーム脳理論はこのあまり当てにならない脳波だけみてて、しかもα波とかβ波とかの解釈がむちゃくちゃ。 もうどうしよもないので考慮するだけ時間の無駄という感じ。

PET (Positron Emission Tomography, 陽電子放射断層撮影) が実用化されたのは1980年くらい。 時間分解能は数十秒程度 (== 0.01Hz くらい!)、空間分解能も10数mm程度しかない。 かなりしょぼい。 しかも被爆するので今ではあまり使われてないと思われる。 1990年代までの脳科学に影響を与えたと思われる。

fMRI (機能的磁気共鳴画像診断法、functional Magnetic Resonance Imaging)が実用化されたのは1990年くらいから。 空間分解能は1mmとかなり細かい。しかし時間分解能は数秒程度 (== 0.1Hz!)。

脳磁図計測 (MEG magnetoencephalography) は脳波計みたいなもので、空間分解能、時間分解能ともだいたい脳波計と同じ。

光トポグラフィーには紫外線、可視光線、赤外線などを使うものがあり、近赤外分光法 NIRS (Near Infra-Red Spectrography) がよく使われるらしい。 PET, MRI, MEGなどよりも体を拘束しない、非侵襲式で、頭を固定する必要もない。 なので、ゲームなどの日常生活の作業などを計測するのによく使われるらしい。 ただし脳全体ではなくて額の部分だけの測定、空間分解能はかなり低く、時間分解能は1秒程度 (== 1Hz)。 なんだ、要するに脳波計と大差ないんじゃん? 「ゲーム脳」追試研究@エンタテインメントコンピューティング2003 参照。

ゲームの種類によって前頭前野を使うかどうかの違いを調べた結果、シューティングと音ゲーは前頭前野を使わないゲームであることが判明したらしい。 それはそうだろうなあ。 私もそう思うよ。 弾幕シューティングと音ゲーには明らかに類似性があるよ。 音ゲーが好きor得意な人は弾幕ゲーが好き。 その逆もまた真。

昔スペースチャンネル5というのがあったのだが、最初出たやつはわりとかんたんだったが、その次出たやつは途中のステージからタイミングがシビアになってうまくクリアできない。 しかし映像を見ずに目を閉じてやるとクリアできてしまう。 目から入る情報でいろいろ考えたりして、音の間隔が狂わされるから、目を閉じた方がうまくできる。

シューティングもあまり考えてはできない。 「無心」にならないとできない。 音ゲーやシューティングは反射神経だけを使い、それ以外の部分を逆に抑制しないとできないゲームではないか。 つまり Semir Zeki 言うところのあれですよ、現代抽象絵画のように、脳の特定領野だけを活性化させることで快感を生じさせる作用があるんだろう。

ビデオゲームが視覚野と運動野だけを使い、前頭前野を使わないと言う説を広めたのはDSの脳力トレーニングゲームで有名な 川島隆太氏その人らしい。 彼はPETを使ったようだ。 それでDSでは簡単な暗算をやらせているわけだよね。 あと料理や音読とか(笑)。

で、fpsはどうかということだが、実験した人はまだいないらしい。 でも 暴力的ゲームは人間の脳を好戦的に–米研究者ら、fMRIで解き明かす とかいう研究をした人はいるようだ。 どうやって解明したのか実にあやしげだが、そもそも暴力的なゲームをやっているときは脳の中も暴力的になってて当たり前なんで、暴力的ゲームを常習している人間がそうでない人間に比べて暴力的かどうかとか犯罪件数とか調べて立証しないと意味ないんじゃないの。

前頭前野が活動するのは行動計画や意志決定などのfpsは低いが高度な処理をする場合と、ワーキングメモリという一時記憶を利用する場合があるという。 暗算はワーキングメモリを利用するので前頭前野が活性化するが、高度な問題解決を行っているわけではない。 数分間暗算するというのはPETのような狭苦しいところで、PETのような時間分解能が低い装置で「有意なデータ」を出すのに適した作業だっただろう。 時間分解能が低い場合、瞬間的に高度な脳の活動があっても数分間で平均すれば何も写らない。 一時記憶をだらだら常に使っている状態が脳を鍛えているといえるのか。 きわめて疑わしい。 PETに依存したチャンピオンデータのために暗算が適していたということではないか。 それは本末転倒というものだ。 脳を高度に使っている状態というのは、不規則に瞬発的に何かの判断をしているときではないのか。

fpsにもquakeみたいにただひたすら撃ちまくるのもあれば、謎解きやパズルをやるものもあるし、シングルプレイとマルチプレイでもまた全然違ってくる。 そのへん研究しないとただ同じビデオゲームでくくるのは意味ないんじゃないの。

澤口俊之著「「私」は脳のどこにいるのか」という本を読んだが、彼は意識の本質は脳の modularity と hierarchy だと言っている。 modularity については脳がさまざまな領野にわかれて並列分散処理をしているのは今やほとんど疑いがない。 しかし hierarchy に関してはまったく何の証拠も見つかってない。 いわゆる統合領野というものは見つかってない。 前頭前野が計画や意志決定を行っているのはたぶん正しいが、脳の活動の hierarchy の頂点にいるとか、脳の他の部分を制御したり統合したりしているということは証明されてない。 だから 意識の正体は脳の細胞間の無線通信?というような珍論も出てくるし、また脳は単なる機械であって魂は別にあるという二元論も出てくる。

客観的に見ると脳には modularity はあるが hierarchy はないのでないか。 無数の微少な無意識が並列分散してるだけではないのか。 私らは普段ほとんど無意識に行動している。 会話したり本を読んでるときもほとんど無意識。 読書に集中しているときなどまさに「我を忘れている」。

たとえば「視覚」は「意識」かと言うと違う。 いちいち判断しながら見ているとものは逆に見えなくなる。 たとえば「霊感」は「意識」かというと違うと思う。 だらだら散歩してて雑念が浮かんでは消えてるとき、ふとすごく良いアイディアを思いついたりする。 これなどまさに「無意識」の所産ではないか。 たとえば「会話」は「意識」かというと、私は違うと思う。 あまり考えすぎると会話はむしろできない。 話言葉と書き言葉が違うようなものだ。 考えすぎる人は書くのと同じようにしかしゃべることができない。 つまり考えて下書きして推敲してからでないとしゃべることができない。 私から見ると女子高生などが電話で長話してたり、おばさんがスーパーで通行をふさいだまま立ち話しているのは「無意識」でやってるとしか思えない。 では、「判断」は「意識」か。 これもなんともいえない。 私の見る限り、判断しているようでしてない人はきわめて多いように思う。 本当に判断しているのならば時間がかかるはずだ。 過去のデータやさまざまな相互関係などを客観的に分析し、総合して初めて判断できるはずだが、たいていの場合はその場限りの思いつきで「判断」し、発言している。 あるいは固定観念によって即断している ==「無意識に判断している」にすぎないのでないか。 囲碁などまさに「無意識の判断」なのではないか。

「自我」とか「自己意識」などというものは存在しないのじゃ無いかと思う。 存在しているのは「自我」という概念だけなのではないか。 「自我って何だろう」と考えているときだけ自我は存在する。 それ以外のとき、ふだんの生活のほとんど100%は無意識に並列にやってるのじゃないか。 脊髄反射と何ら違わない。

自我の目覚めというのはたぶんあると思う。 私の場合は高校に入った頃、15才くらいだったと思う。 それまでは考えずにしゃべり、考えずに行動し、考えずに「考えて」いたような気がする。 ほとんどすべての場合に。 自我が目覚めるとしゃべれなくなるし行動できなくなる。 内向的になるというのかなあ。 それを再び外向的にしていくのにはそうとう長い時間がかかったように思う。

記憶をたどりながら「問題解決」しようとしているときは脳内に階層に近い状態が一時的に生じているかもしれない。 それは問題解決に「階層」という概念というか手段が必要だからではないか。 問題解決には問題の形式化、分析と総合、そもそも解決すべき問題とは何であり何ではないかという取捨選択、優先順位の決定、そういうもんが必要だ。

しかしふだん脳には階層など存在しないのでないか。 脳の中の階層というものは、思考訓練によってソフトウェア的に作られるものではないか。 脳の中にもともと存在しない階層というものをわざと作りだそうと努力することが自我なのかもしれない。 昔から意識と無意識、高次と低次という階層関係 or 役割分担が存在しているに違いないという暗黙の前提があった。 しかしそれは根本的に間違ってるのじゃないか。 少なくとも build-in でも static でもないのではないか。 人間の社会には階層がある。 学問体系にも階層がある。 しかし脳の中もそうなっているとは限らない。 現実世界にも階層などというものはもともと存在しない。 「数」や「概念」すら存在しない。 人間が世界を階層化し、モデル化して把握しているにすぎない。 脳の中身も同じことなのではないか。

要するに、脳科学がよりどころの一つとしている脳機能計測では、 RPGとfpsとシューティングの違いを歴然と見分けることも未だできてないということであり、ましてやゲームで脳がやられるなどと断言できるような代物でもなんでもないということでしょう。

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脳が活発に活動している

01.08.2006 · Posted in 学問

だらだら放送大学を見てて思ったが、単純な筆算や調理、工作などが脳全体を活性化させるので脳を鍛えるのに良いというが、「脳全体が働いているから脳に良い」あるいは「PETで脳全体が活動しているように計測される」==「脳が活発に活動している」というのは根拠があるのか。 また「前頭葉をのぞく脳全体が活動しているときは娯楽に没頭してリラックスしてる状態だ」(音楽を聴いていたりビデオゲームをやったりパソコンをいじったりしている)というが、それも根拠があるのだろうか。 PETにはわずかに活動しているとか激しく活動してるとか区別できるのかとか、微妙に活動しているが計測されないということはないのだろうか。

確かに脳全体を活動させるのはリハビリやぼけ防止には良いとは思うが、調理や筆算が良いというのも一面的な見方だと思うんだよな。前頭葉側頭葉後頭葉がまんべんなく活動することに意味があるんかい。

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雑感

01.03.2006 · Posted in 雑感

電車男だか自転車男だかしらんがテレビで放送されているのを見たが、役者がどいつもこいつもまともにキーボードが打ててない上に、文字の打ち間違いもなく不自然きわまりない。 その上ストーリーがまるで陳腐で糞おもしろくもない。 なんでこんなものがはやるのだろう。

flashで作られたページの99.9999%がそうなのだが、勝手に動画やら「作品」とやらを見させられて、なかなかこちらが見たいと思うページにたどり着かない。 あれここじゃなかったと後戻りするとまた同じ動画を見させられる。 しかも動画をスキップできない。 こちらが見たいものはなかなか置いてなくて、見たくもないものばかり見させられる。 結局googleか何かで調べた方がてっとり速く目的のページまでたどりつけるわけだ。 これはつまり地上波放送、あるいは新聞などと同じコンテンツの作り方で、作り手が勝手に見せたいものを見せて、広告やらプロパガンダなどを無理矢理織り交ぜて、受け手に判断や選択の余地を与えないというものだ。 スポンサーにしてみればそのような媒体の方が金を払う価値があるかもしれんし、あるいは多くの愚民はそのような媒体の方が心地よいかもしれん。 私はごめんだが。 そういうコンテンツ制作に関わり合うのも拒否したい。 webは最初そういう地上波的broadcast的メディアと全く無縁なところから始まった。 だから私はwebが好きだった。 tv を見てた連中が大勢 web にやってきたおかげで変質してきた。 それはそうと tv がまったくダメというのではない。 ケーブルテレビは非常にすばらしいメディアだと思う。 見たいものを見たいだけ見る。 見たくないものは見ない。 そのために必要十分な対価を支払う。 実に健全だ。 民放も、ケーブルテレビではなかなかすばらしいドキュメンタリーを作り、優良な番組を海外から買ってきて流したりする。 やればできるじゃねーかと。 悪いのはテレビ局というよりメディアの形態なのだろう。 だからこの際地上波は廃止。 帯域はアメリカみたいに競売にかけりゃいい。 その上でテレビ局を存続させて地上波放送したけりゃ買えばいい。 技術が未発達な頃はともかく。民営化でもなんでもすりゃあいい。

だいたい地上波見てる連中はタレントかタレント化した学者になんか言わせないと、理解も判断もできない。 ドキュメンタリーでもなんでもバラエティかクイズ番組に仕立てないと脳に入っていかない。 この際地上波は滅んだ方が良い。

そして救急車もそろそろ有料化すべきだ。

ディズニーチャンネルを見てると海外でもしょぼいリミテッドアニメーションが大量に作られていることがわかる。 しかし日本のリミテッドアニメーションがフルアニメーションのふりをして、実は口パクしか動かさず、リップシンクすらまともにやっていない手抜きなのに対して、海外のリミテッドアニメーションは徹頭徹尾リミテッドにできている。 キャラも背景も動きも平板な子供向け画風。 決して三次元のフルアニメーションのふりはしないという意味で潔い。

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宇宙に満ちた気

01.02.2006 · Posted in 学問

脳科学を検索してみると出てくるのは心理学か哲学ばかり。 ゲーム脳がどうしたこうしたとか、クオリアがどうのこうのとか、なんか怪しげな世界だ。 あまりお近づきにならない方がよいのか。

脳科学といっても結局PETとかMRIで領野のどこが活動してるか調べてるだけだ。 そこからゲーム脳などという安直な珍説が生まれてくる。 マスコミは自然科学からこういう道徳的で啓蒙的なデータが出てくるとすぐ飛びついて祭り上げる。 日本人の科学的な訓練(科学リテラシーというかのか)はまだ脆弱だから、あっという間に明治以前の道徳と学問が不可分に結びついた暗黒時代まで退行してしまうのだ。 きわめて危険だ。 今でも大学教授というものはネクタイ締めて偉そうなことを言ってるとか、白衣を着て実験してるというようなステレオタイプでみられているが学問とか科学とはそんなこととは何の関係もない。

ゲームをやってる最中に脳のどの部位が使われているかとか脳波がどのように変化するかだけで、ゲームが有害かどうかを決めつけられるはずがない。

ともかく今は脳のどこそこが梗塞したらどの機能が損なわれるとか、これこれという行動をとれば脳のどこそこが活動するかとか、その程度のことを「非侵襲的解剖」などと言ってありがたがってるのだから困ったものだ。

アトムの前身であるメトロポリスなど読むと手塚治虫がもともとは東洋思想の強い影響下にあったことがわかる。 生命とは「宇宙に満ちた気」であって太陽の異常黒点活動によって人工生命が生まれたり滅んだりする。 朱子学の陰陽説そのものだ。 ところがそれから手塚治虫は多少科学を勉強したらしく、アトムには機械論は出てくるが陰陽説っぽさはまったく出ない。 50年前の日本人は東洋思想にとらわれていたが現代人でも似たようなもんだ。 マトリックスとか攻殻機動隊なども「脳」とか「意識」というものがまるでわかってないから、あのような壮大な妄想が出てくるわけで、わかってしまえば「脳」とか「意識」というものは多少複雑ではあるかもしれんが、もっと当たり前な自明のものに違いない。

だいたい世相がだんだん悪くなるとかいやな時代になりましたねえなどというが、20世紀ほどひどい時代はなかったんで、あのころは犯罪も不正も非常に多く治安も悪かったが、たいていはローカルな社会に閉じてたからよその地域のことなど知りもしないし知る方法もなかった。 サザエさんなんか読んでると昔は戸締まりというもんがなかったから、刑務所帰りの押し売りが平気で縁側まで押しかけて婆さんにゴムひもかなんか売りつけてる。 今じゃありえない話だ。 今じゃ日本のどこかでおかしな事件が起きるとマスコミがよってたかって大騒ぎするが、そんなの昔は日常茶飯事だったに違いない。 じゃあ19世紀やその昔はまだましかというとおそらくは20世紀よりずっと悪かったに違いなく、時代をさかのぼるほど世の中は粗雑で悲惨で無知でいい加減だったのはほぼ間違いあるまい。

動物園の猿を観察するというので結局6000円の安物の双眼鏡を買った。 オリンパスの軽いやつ10倍。 8倍でも良かったのかもしれん。 重くてでかい防水なやつはかっこいいが腕が疲れそうだ。 双眼鏡で見るともちろん立体視できるのだが、遠くの物体が皆平面に見えておもしろい。 双眼鏡ごしでは数メートル数十メートルの視差は認知できるが、数センチの視差はわからんのだな。 片目で見た方が逆に奥行き感がある。 おもしろいねぇ。 両眼視差を完全にキャンセルする双眼鏡があるとおもしろいかもね。 ていうかそれ左右同じ映像にすれば済む問題なのか。 いや、そうではあるまい。 視差のあるところと無いところがあるから視差を感じ、奥行きを感じるのだろう。 視差がまったく無いと片目で見たときのように脳が奥行きを知識ベースで勝手に補完するのでないか。 みんな平面に見えるような仕掛けって作れるのかなぁ。

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Inner vision

01.01.2006 · Posted in 学問

S. Zeki の本 Inner vision は確かに衝撃的だが、煎じ詰めれば、視覚領野を統合するような視覚領野は存在しないと言ってるだけ。 各種画像処理に特化した視覚領野は全部横並びであり非同期であって、低レベルの視覚特徴から高レベルの統合特徴を作ったりはしないということ。 少なくともリアルタイムでそういう作業はしてない。 つまり我々が普段見ている光景というのはほとんどすべてが無意識のうちに見ていると言ってるにすぎない。 コップの水を飲むのにこれはコップ、黄色い冷たい陶器のコップ、透明の水、などといちいち意識しないようなもので、それは当たり前のことだ。 自動車を運転するときもそうだろう。 いちいち意識していたら運転できない。 歩くこともできまい。 意識しすぎれば身動きとれない。 自意識過剰という状態だ。

ブルース・リーが言う Don’t thik, Feel. というのが無意識。 高次な統合意識にとらわれず、低次の非同期で素早い反射行動を鍛えろいうことだ。

しかし人間に意識とか認識がないわけではない。それとこれは別だ。

無意識というのはつまり複数の低レベルの処理が非同期無連絡に行われている状態と考えればよいだろう。 意識というのは何か統合とか同期とかが必要な処理で、フレームレートでいうとせいぜい 1fps とか 0.5fpsとかそんな非常に遅い処理。 しかも同時並列にはできない特権プロセスのようなもんで非常に重い処理なのだろう。

ただそれだけのことだ。当たり前と言えば当たり前のことだな。

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