足利氏

メモ。

治承五年二月一日『吾妻鏡』

> 足利の三郎義兼北條殿の息女を嫁す

足利義兼と北条政子の妹・時子が結婚した、ということを指すらしい。

ウィキペディアには、政子と時子は同母姉妹である、と書かれているのだが、
『日本外史』源氏後記北条氏によれば、
時政には女子が11名もいて、そのうち政子は長女、
次女は後妻の牧氏(牧の方)と書かれている。
だから異母姉妹なのではなかろうかと思うが、
『日本外史』が何に基づいて書いているか不明。

政子は美人で次女は不美人、などと書かれているがこの次女というのが時子なのだろうか。
時政の妻には他に伊東、足立が知られる。
北条と伊東はともに伊豆における平氏の家臣であったから婚姻してもおかしくない。
政子は伊東の血を引くということか。

義兼は義純、義助、義氏を産むが、時子の子は義氏のみ。
義純と義助はたぶん時子と義兼が結婚する前に生まれたのであろう。
時子が正室で義氏が嫡男、ということになっている。
義純は畠山氏となり義助は桃井氏となる。
義氏の妻は北条泰時の娘。
畠山義純の継室は時政の娘というから、政子や時子の姉妹なのだろう。
桃井義助には子がいたから妻がいるはずだが、誰かよくわからん。やはり北条氏か。

でまあ、足利氏が大きくなったのは承久の乱のときで、かつ北条氏の娘を娶ったからであろう。
本来北関東出の足利氏が三河に住むようになったのは、
承久の乱のあと義氏が三河国守護(地頭?)となったからで、
義氏は泰時の娘が産んだ泰氏を嫡子としたが、庶出の長氏を三河に住ませて、
ここから吉良氏や今川氏が分かれた。

北条氏は足利氏以上の大族であったはずだが、足利氏と入れ替わりに、北条氏も名越氏もほとんど絶えてしまったのだろうか。
不思議だ。

坊門

坊門信清は後鳥羽院の外祖父。
息子忠信は後鳥羽院の寵臣。
実朝の妻は坊門信子、忠信の妹。
つまり、実朝は信清の婿、忠信の義理の弟。
後鳥羽天皇の女房・坊門局は後鳥羽院の女房。ともに隠岐に渡り、院の死後、京都に戻る。
坊門局は道助入道親王、頼仁親王、嘉陽門院礼子内親王を産む。
道助入道親王は後鳥羽院と礼子内親王の戒師。
礼子内親王は歴代最後の賀茂斎院。式子内親王の四代後。

実朝と後鳥羽院、つまり、実朝と朝廷の間にいたのが坊門ということだわな。
ふーむ。

親王宣下と元服

後醍醐天皇の諡号は生前に本人がつけたというが、
村上天皇は醍醐天皇の皇子なので、
後醍醐天皇の次は後村上天皇になったのだろうか。
朱雀天皇も醍醐天皇の皇子だが、後朱雀天皇は平安時代にすでにいたわけだ。

建武の新政というが、初代神武天皇まで戻ろうというよりは、
醍醐・村上帝の時代の延喜・天暦の治を目指したのかもしれん。

後村上天皇の経歴が実はよくわかってなかった。
1328年9月生まれらしい。年は間違いなさそうだが、月日が曖昧。
1333年建武の新政。
1334年5月、奥州多賀城において親王宣下、
1336年3月、比叡山において元服、三品陸奥太守に叙任、とあるのだが、
調べてみると親王宣下とは幼名を捨てて「憲良」という諱を付けることで、
元服は大人になったという儀式で、大人の髪型、服装に改め、幼名を捨てて大人の名前にする儀式。
だが、おそらく天皇家では、幼い時、元服前に皇太子になったり親王になったり天皇になったりしなきゃならないこともあるから、
元服と親王宣下が分かれたのだろうか。
異様にややこしい。

わざわざ奥州まで下向して親王宣下されておきながら、実際に三品という官位、陸奥太守という官職をもらったのは元服の時、というのもよくわかんない。
そういうもんですか、としか言いようがない。
ともかく、親王宣下というのは、大人になることでもなく官位官職をもらうことでもない、
幼い頃に、親王として生きるか、単なる皇子として生きていくのか、決めること、
つまり、天皇家の家庭の事情で決まることなのだろう。

そんな細かいことまでこだわるべきだろうか。

北畠顕家は1333年に従三位陸奥守になっているので、
憲良親王が陸奥太守になる3年も前だ。
まあそんだけ憲良親王が幼かった、そのためのタイムラグが生じただけで、
建武の新政当初から、憲良親王を陸奥太守、顕家が陸奥守とする予定だった、ということだ。

そこまでこだわるか。
大筋のストーリーにはあまり影響はないけどな。

憲良親王には同母兄の成良親王と恒良親王がある。
母はいずれも阿野廉子。阿野氏は頼朝の父源義朝の血筋に当たる。

成良親王は1326年生まれで1333年親王宣下。
1334年、関東に下向して四品上野太守。
憲良親王とほぼ同じ時期とみてよい。

1335年7月、中先代の乱。
成良親王は足利直義とともに鎌倉を逃れて上洛。
8月、征夷大将軍となるが、
翌1336年2月解任。
11月、北朝第2代光明天皇の皇太子となるが12月に廃される。
北朝第3代崇光天皇が立太子されるのが1348年。同年光明天皇から譲位される。
実質的には光厳院が院政を行ったらしい。
1336年から1348年まで、北朝には皇太子がいなかったということでよろしいか。

成良親王は南朝なのにずっと足利氏に捕らえられていた、ということらしいんだが、詳しいことがまるでわからん。

恒良親王は1324年生まれ。
1334年立太子。
いつ親王宣下されたかわからん。立太子と同時か。
1336年越前金ヶ崎の戦いに敗れ、京都に送られて 1338年に死去したことになっているが不明。

1339年に憲良親王が立太子してその直後に後醍醐天皇崩御。後村上天皇即位。
どうもこのあたり、あとからつじつま合わせをしたような感じがする。

世界史

なぜエウメネスだけ(少ないが)売れるのか。
パブーでも(少しながら)売れたのはセルジューク戦記くらいだしな。
世界史を書けばいいわけ、私は。
ていうかそれ以外無料にして、
「エウメネス」とか「セルジューク戦記」とかで売って、
そっちの方の新作をどんどん書けばいいのかしら。

キャラのせいかな。
他の小説が、あまりにもキャラがマイナーだからかな。
そうかもしれんな。

キャラクターグッズ

KDPで『超ヒモ理論』ってやつだけレビューが終わらない。
後から追加したやつの方が先に出版されている。
たぶん、深い理由はなくて、
ちょうどKDPの調子が悪かったときに登録したせいだと思う。

その他可能性としては、superstring theory ってキーワードで物理関係のレビューに回されて差し戻しとかくらってるとか。
別にどんなタイトルでもいいよね?

『墨西綺譚』。
初めて書いた現代小説。
練習作品のつもりだったが今読むとディテイルの部分で割と笑える。
自分の作品を忘れたころに読み返すのが面白いと感じる性格なのだと思う、自分。
少しめりはりつけて再出版。
これを書いたころは永井荷風なんてまったく読んでなかった。
成島柳北も為永春水も。
このタイトルの小説書いた後で勉強し始めた。

『将軍放浪記』。
これは事実上、一番最初に書いた小説。
やはりかなり加筆修正削除して再出版。

それはそうと某玩具売り場にいったら、
おもちゃというよりはほとんど全てがキャラクターグッズでワロタ。
なんなのそれ。
おもちゃかそれ。
プラモのガンプラばっかだし。

たとえばジャイロとか地球ゴマとかもそのまんまじゃ売ってない。
アニメのキャラクターと抱き合わせで売られている。
まあ、キャラ使えば企画も通りやすい or 資金回収しやすいんだろうな。
ロボットアニメにしろ戦隊アニメにしろキャラで制作費回収してるんだろな。

マーケティングって恐ろしいよな。
そのマーケティングに乗っかって、不本意ながらロボットアニメ作って、ガンダムみたいに後世に残るコンテンツが出る。

キャラクターグッズ売れんとコンテンツ制作は採算とれんということかな。
病んでるなと思うが、しかし人間の脳がそれだけキャラというものが好きなのだろう。
だからゆるキャラとかわらわら出てくる。
キャラ様々。
一発当てるとでかいもんな、くまモンとか。

主体性がないとかいうが、もしすべての人に主体性があったりしたら、社会は一つの方向にまとまって動いていかない。
一つの方向に暴走することはよろしくないとしても、
まるで方向性がないのもよろしくない。
そういうわけで社会にはある一定の割合で主体性のない人が含まれる。
その割合というのはかなり高い。
そういう人たちが多数派を占めていないと社会は成り立たないし、新規事業も立ち上がらないし、従って社会の進化もない気がする。
ある特定の主体性のあるひとが社会を変えていく、というよりは、
社会はある一定の割合で規格外の人間を生み出して、社会に変化を与えようとするのだろう。

日本の電子書籍

[マンガ抜きに、電子書籍は制覇できない](http://toyokeizai.net/articles/-/11724?page=5)

> おそらく、ベゾス氏が期待しているのは、出版社提供の電子書籍の売り上げからマージンを得るビジネスではない。本命は、アメリカで成功した「キンドル・ダイレクト・パブリッシング」だろう。すでに、アメリカではここからミリオンセラーを出す作家が誕生している。

今、kindleがどうしたこうしたと言っている人のほとんどは、ずっと昔から出版業界にいる人だと思うのだが、
既存業界が、アマゾンにマージンを取られつつ、収益を上げられるとはとても思えない。
既存の紙媒体のコンテンツを電子化する手間。
けっこうやばいと思う。

たとえば私はできるだけ本は買いたくないから図書館で借りてくる。
しかし中には、電子書籍として新たに金を払っても買いたいものもある。
たとえば岩波文庫『日本外史』とか。
丸谷才一『後鳥羽院』とか。

『後鳥羽院』文庫化されたよね。
丸谷才一が死んだからかな。
でも kindle 版が出ない。
kindle 版で丸谷才一検索してもほとんどみつからない。

既存の出版社がまるごと kindleに本を出せば多少賑わうだろうね。
それは kindleにとっては良いことだ。
でもそういうことは今後もないんじゃないか。
kindle だけだと誰も幸せになれない。
kdp で個人が直接出版する時代が来ないと。
長い年月と、ノウハウの蓄積が必要だ。

出版業界以外の人で kindle が、といっているのは一部のプロの作家と一部の同人作家。
私はそのどちらでもない、たぶん。
非常な孤独を感じる。

最初から電子書籍にできる形で入稿すればよい。
最初から電子書籍でも出力できるワープロにすればよい。
しかし未だにたいしたワープロはない。一太郎ですら。
シェアという意味では microsoft word が正式対応してくれないとどもこもならんと思う。

アマゾンは正しいし、アメリカの先行事例のようであるべきだ。
英語だと読者が数十億いるからミリオンセラーが出てきてもおかしくない。
kdp やるならほんとは英語で書くべきなんだろうね。
日本語では読者は一億人くらいしかいない。
どうするよ。
死ぬ気で英語の小説読んで、自分でも英語で一から小説書いてみるか?
ていうか日本史にしろ世界史にしろ英語で書いた方が絶対売れるのは、言うまでもなくわかっている。
さらにいえば、別に日本人だけに読んでもらいたいとも思ってないし、日本人向けに書いた内容でもない。
いやしかしね、自分の書く英語が世界に通用するようなもんじゃないことは、自分で知ってる。

> 日本の電子書籍市場は、昨年時点で629億円。そのうちの約8割がエロ系漫画を中心とした漫画コンテンツだ。この市場は日本独特のガラケーによってできあがったものだが、キンドルは漫画を読む端末としては優れていない。

確かにガラケーはエロ漫画端末としては優れてただろうね。
そういう需要もあるだろうが、
活字を読みたい人ってそんなに少ないのかね。
みんなが漫画、それもエロ漫画を読みたいかね。

kdp というメディアには kdp に適したコンテンツを作ればいいだけじゃね。
既存のメディアや業界のことをあれこれ言っても仕方ないと思うんだけど。

[電子書店はみな赤字?](http://mayer.jp.net/?p=1678)

で、日本の弱小電子書籍が軒並み撤退する。
全部 DRM で保護されているから、読めなくなる。
なんなんだよそれは。
また、PC-98 や MZ の歴史を繰り返すのかね、日本は。
あほか。
ていうかソニーはどういうつもりで電子書籍始めたのだろうね。
とりあえずかね。

紙の本と KDP と同人誌

[KDPと、本屋と同人誌即売会の境目が無くなった空間](http://colorfullife.hatenablog.com/entry/2013/03/24/091039)

> 「同人誌即売会で”個人が作った本”を買って読む」という同人誌特有の楽しみ方(読書体験)が、KDP本にあるかないか。

ええっと。
いやそれはないです。
少なくとも私にはない。
同人誌買いに行かないし、自分。

あなたがいて私がいて、私の本があります、とかそんな売り方したいんじゃないし。
他の人はどうか知らんが。

本屋は本屋です。

同人誌は KDP と似てる。
同人作家の中には KDP 的なものを志向するする人、つまり、ごく即物的に、ネットで勝手に自分が書いたものを通販出来ればそれで良い、
と思う人もいるかもしれん。
同人誌とかうざいが KDP なら対面販売する必要もないし、とか思う。それが私。

即売会で偶然面白い本に出会う、ということを私はしない。
その場にいかなければ買えないとか出会えないというようなことを求めてない。
少なくとも今までの人生でそんなことしたいとまだ思ったことがない。
MMORPG とかもやらん。
やるとしたらもっぱらシングルプレイヤーのゲーム。
アマチュア無線も免許は取らされたが好きになれんかった。
関係あるかどうかしれんが。

ネットは24時間365日いつでもどこでも買える。アマゾンがキンドルやめない限り、絶版もない。
電子書籍は何十年も何百年も残る。
私が死んだあとも私の著書は残る。
もしかしたら私が死んだあとに人気出るかもしれん。
だから KDP やっとる。

損益分岐点(取らぬ狸のなんとやら)

またどうでも良いことをうだうだ書くわけだが、
ぼちぼち売れてたりするといろいろ考える。
KDPで1000部くらい売れれば、趣味というか同人活動としては上出来だと思うが、一冊250円印税70%で売ったとして、
17万5千円。
小遣いにはなるが出版だけで飯を食っていくことはできないわけです。

1万部売れれば175万円。
まあ、田舎の親の実家に一人暮らしならなんとかなるレベルか。
でも毎年コンスタントに1万部売れればの話だがね。
副業には十分になる罠。
1日に3冊売らなきゃ。けっこうきびしいなあ(笑)

5万部売れれば、875万円。
これなら食える。
家族もなんとか養えるかも。
でも毎年5万部ずつ、自分が死ぬまで、子供が成人するまで売るってことは相当な売れっ子だよね?

とか計算してみると印税だけで食えるというのはよっぽどの売れっ子なわけだ。
たとえ印税70%だとしてもだ。
印税10%だと KDP の7倍売らにゃならんよ。
つまり、毎年毎年 35万部も売らにゃならん。
けっこう厳しい。それは難しいと思う。
余生40年あるとして、トータルで1400万部も売らにゃならん。
普通にあり得ん。
なんかねもう。

要するに内容が面白いかどうかはさておいて、
10万部とか100万部とか売らなきゃ儲けは出ない。
出版社で編集とかマーケティングとか取り次ぎとかやってれば。
損益分岐点を超えさえすれば飯が食える。
超えなきゃ食えない。
世の中つまるところただそれだけ。

営業さんとか編集さんとか美術さんとか装丁さんとか取り次ぎ小売り、倉庫、印刷所。
税理士や弁護士さんや行政書士。
マネージャーやアシスタント。
作家と役割分担した方が良いに決まってる。
投資した分返ってくりゃ、実はなんでもいい。
でもな、作家デビューできなきゃそもそも意味ないわけで。
で、たぶん私がつっこみたいところは絶対売れ筋ではない。
いろんな人を巻き込めば損益分岐点超えられない。
しょうがないから一人でやるしかない。
DTPだってそうでしょう。
もともとそうだったでしょう。
で、一応できちゃう人はいるわけで、世界中にはそれこそ出版業界にかかわってない人の方がかかわっている人よりずっとおおいわけで、
そのうちのほんの一握りでも業界抜きで成功しちゃったら世の中変わらざるを得ない。
自分が成功しなくてもきっと誰かが成功する。

少量生産で採算がとれる。
無料キャンペーンとか誰でも利用できる広報手段でそれなりに読んでもらえる。
で、それで目立った人はそれなりに評価されて、
作家活動とは微妙に次元の違う仕事を切り分けられて、
編集さんがついたり美術さんがついたり、営業さんがついて、
そうしてほんとうのメジャーになれる。
そうこなくちゃ、わざわざ KDP やる意味ない。
インディーズだってそうじゃん。

今 KDP やって目立ってる人、そこそこ売れている人はもとは紙の本の世界にいた人で、電子もやっている。
それじゃあ世の中変わったとは言えない。
書く人も読む人もみんな最初から電子な時代が来てやっと変わったといえる。
そんな時代は、いつになるかしらんが、必ず来る。

KDPでなんとか食えるということになれば見えてくる世界がまるで違ってくる。
食えないとなれば今までと世界は何も違わない。

あー、つまり、商業作品作りたくないわけではない。
売ることを前提に作りたくない、というわけでもない。
今の流通にのらない、なじまないなら自分でやりましょというだけ。
現在の出版システムに適応できる人はそうすりゃいいだけ。
社会に適応せず媚びも売らずに自分の本を売りたいだけ(笑)

『将軍家の仲人』無料キャンペーン

KDP で定期メンテナンスというのをやったせいだと思うのだが、
この作業自体はアメリカ太平洋標準時で夜中の10:00から11:00という短いものらしいのだが、
その前後に処理が溜まるらしくて、KDP 激重。
予期せぬエラーがでまくる。
フラストレーション溜まる。

それで今度は『将軍家の仲人』無料キャンペーン中。
90日に5日、無料キャンペーンできるから、18作品そろえてりゃ、いつもどれかをキャンペーンできることになる。

『超ヒモ理論』と『スース』を合冊したのを出す。
もともと山崎菜摘名義でパブーに無料公開していたもの。
もう準備はできている。
初の短編集ってことで、話ごとにセクションとか入れたかったのだが、
うまくいったりいかなかったり。よくわかんねー。
一太郎がもっと epub との親和性を高めてくれたらいいのに。
つかね、一太郎のユーザインターフェイスってさ、
GUI以前からのものが割と混ざってるよね。
マウスで選択して右クリックメニューでとかそういう操作があんまりないんだ。
開始位置をクリックとかそんなのが多い。
なんじゃそりゃって。
DRMは短編なので外す予定。

知り合いにマックユーザーが居て、美術関係のミステリー小説を書こうとしているらしい。
アートミステリー?
だけどマック版一太郎がないから epub 出力どうしようとか言ってる。
マックユーザーで一太郎使いそうな人って、いそうにないよな。
そもそも一太郎ユーザーって何、みたいな。
黒田清輝が面白いらしいですよ?
薩摩藩士で貴族院議員。洋画家で東京美術学校教授って辺りが。
うむ。たしかになんか面白そうだな。
ネタ的には十分面白そうなんで後は文章力構成力だわな。
コンセプトだけで読みたい気がしてきた。

つかね、epub 専用エディタがあればいいだけなのよね。
ちょっとしたマークアップがあればいいだけなんだがね。
ルビとセクション。
それで縦書きできればいいのよ。
あと、改ページ、字下げ、上寄せ下寄せ、傍線、箇条書きはいるかな。
とにかくめっちゃシンプルなテキストエディター欲しいわな。
も少し epub が普及すれば誰かががフリーソフトで出すと思う。
そんな難しいものであるはずがない。
プレインテキストエディタで html でタグうちして出力でもいいんだがね。
epub コンバータがお利口さんならね。
いや、それでもね、一太郎って和文打つにはそれなりに使いやすいんでね。
一太郎がやってくれるんならそれでもいいんだが。

『アルプスの少女デーテ』と『セルジューク戦記』はパブーに残そうと思ってる。
kindleでも同時に出すかもしれんが。
その場合、『セルジューク戦記』は、パブーでは100円、kindle では99円にすると思う。
つまりパブーの印税は70%。kindle は印税35%。
『デーテ』はもうこのまんま無料にしとくつもり。
そうすると、アマゾンがちゃんと見付けてくれれば、kindleでも『デーテ』は無料になるはず。

『将軍家の仲人』は実はけっこう書き足してあるのよね。
宮将軍辺りのところが。
堀田正俊は綱吉と幸仁親王のどちらが次期将軍となるか、
というところで重要な役割を演じ、結局綱吉をサポートした功績で大老にしてもらったのだが、
宮将軍を望んだのは実は家綱。
幸仁親王は後西院の皇子なので、実は天皇に即位することもあり得た。
幸仁親王が家康の血を引いているかどうかはグレー。
まあ、小説だからどっちでもありっちゃありだが、赤の他人の宮様に将軍になってもらう、
という話が、いきなり持ち上がるのには何か裏話があってもおかしくないわな。

幸仁親王の祖父にあたる後水尾院は、根っからの武家嫌いなんで、幸仁親王が天皇に即位するのも将軍になるのも嫌がった。
そこで後水尾院は堀田正俊を通じて綱吉を将軍にし、
後西院を弟の霊元天皇に譲位させることによって、家康の子孫を天皇にするのも回避した。
このことによって正俊は綱吉と後水尾院の二人に恩を売るが、
後西院、幸仁親王、そして家綱恩顧の家臣に恨まれることになり、
稲葉正休の私怨という形で殿中で暗殺される。
稲葉も口封じに消される。
いずれにせよ、綱吉と正俊は当時あまりに近すぎて、他の老中には邪魔な存在だっただろうから、
正俊の暗殺は稲葉一人の仕業ではない、黒幕は老中たち、綱吉もあらかじめ知ってたと考えるのが自然だろ。

こういう陰謀事件は町人が浄瑠璃や歌舞伎なんかにしちゃうと絶対弾圧されちゃう。
うやむやにされちゃって歴史的にもなんか知名度低い。
一方赤穂浪士事件なんかは裏がない、すかっとした、突発的事故だったから、町人がおもしろおかしく話題にしても、
幕府は放置していた、それであんなに大流行した、
実際にはそんな大した話じゃない、と言えるのではなかろうか。

そもそも、後西院の兄の後光明天皇の急な崩御もあやしい。
後水尾天皇もなんかめっちゃあやしい人だし。
幕府と朝廷の間に当時いろんな陰謀があったのではなかろうか。
とまあ、めちゃめちゃおどろおどろしい話になってしまった。
もともとそんなふうにしたてるつもりはなかったのだが、
思いついたらつい書きたくなるもんです。

平仄

漢詩を作ったり、漢詩作成支援ソフトなど作ったりしているので、
気になるのだが、
通常「平仄」という言葉は、
「平仄が合わない」とか「平仄を合わせる」という言い方をすると思う。

で会議に出ていて気になったのだが、
規約の言葉遣いを整合させることを「平仄合わせで」とか「平仄が合う」とか「平仄を直す」とか「平仄を正す」などというのが、
気になった。
また、Aである、ただしBの場合Cである、とかいうような複雑な規約を矛盾無く作ろうとすることも
「平仄を合わせる」とかいうようである。

いきおい、規則の条文を整えること全般を「平仄を合わせる」などと言っていて、
会議の途中「平仄」という言葉を聞くたびにびくりとする。

で、自分がどういう使い方をしているか気になって調べてみたら、
「平仄や押韻は適当なようだ」
「平仄はちょっとおかしいが、韻は一応踏んでるようだ」
「意味によって平仄が変わる漢字をなんとかしたい」
「平仄がいまいち」
「平仄はいい加減」
「押韻も平仄も割とちゃんとしている」
「平仄はやや乱調かと思うが、ちゃんと押韻している」
「平仄は完全とは言えない」
「平仄はやかましく言わない」
「押韻も平仄もきちんとしている」
「押韻も対句も平仄もほぼ完璧」
「平仄がなんだか変だ」
「平仄も押韻もめちゃくちゃ」
「平仄を守っている」
「平仄はでたらめ」
「押韻や平仄などが厳密に守られた詩」
などという言い方をしている。

「平仄があってない」
「平仄と押韻のあうように考えればよろしい」
「平仄を合わせる」
などと言っていることもある。

毛沢東の詩で
「竜虎盤踞」を「虎踞龍盤」としたり、
「天地翻覆」を「天翻地覆」としたりしているのは、
二六対、二四不同などのルールを守るため、字を入れ替えているのであって、
私はこういうのは好きじゃないのであまりやらないが
(「砂石」を「石砂」にしたり、「片雲」を「雲片」にしたりとか、あまり露骨にならない程度にはやることがある)、
「平仄を合わせる」
の原義は「文字の配列を入れ替えて音韻規則に合うようにする」
ということだろうと思う。

でまあ、
私の中では、
「平仄が合わない」というのは「つじつまが合わない」、
「平仄を合わせる」というのは「つまらぬ小手先のルールにこだわる、体裁にこだわる」という、いずれにせよネガティブな意味があって、
「校正する」とか「推敲する」のようなポジティブな意味に使われると違和感があるのだろう。
推敲、も作詩に由来する言葉だが。
あるいは漢詩を作ったこともない人が、安易に「AをBとすれば平仄が合う」などと言っているのがいやなのだろう。

どうも、法律関連のジャーゴンで「平仄」と言うことがあるのかなと思い、
検索してみると、はたして

> 規定と平仄をとった文言修正

> 規則第4条の改正に平仄を合わせ

> 財務諸表等規則に平仄を合わせるべき

などとあるから、たぶん法人本部とか法務部ではよく使われている言葉なのだろうな。
うー。
「整合をとる」という意味で「平仄をとる」とは言ってほしくないかもなあ。
「Aに整合させる」という意味で「Aに平仄を合わせる」という言い方もなんか間違ってる気がする。

追記:
ネットからも少し例文を拾ってきた。

> 規制行政庁と全体的に取り入れ方針については平仄をとりながら対応していくということになるのではないかと思っております。

> 若干報告書案内での平仄合わせで記入しましたところが、

> この中で「安全性の妥当性」という表現を使っておりますので、これと平仄を合わせて「安全性の妥当性について判断する」という形で記載の平仄を合わさせていただいております。

> 法務省の規則案にも登載しておる文書でございますので、平仄合わせで登載をしております。

つまりAという基準となる条文がすでにあって、あたらにBという報告書等を作るときなどに、
Aとの平仄合わせでBにこれこれという記載をする、などというらしい。