東撰和歌六帖

六帖は単に六分冊となっているという以上の意味はないらしい。

藤原基政の私撰集となっているが、
宗尊親王が鎌倉将軍だった頃に編ませたという性格のものであろう。
割と面白い。
特に北条泰時の歌がたくさん収録されているのがうれしいのだが、
完本は伝わってない。
ということは泰時はもっとたくさん歌を詠んでいたはずなのだ。
北条氏では他には北条重時の歌が多いように思う。

歌の出来は、ごく普通という印象。

> ちはやぶる神代の月のさえぬれば御手洗川も濁らざりけり

> 世の中に麻はあとなくなりにけり心のままの蓬のみして

> 山のはに隠れし人は見えもせで入りにし月は巡り来にけり

これらは定家が編んだ新勅撰集に採られた泰時の歌。
さすがに定家が撰んだだけあって悪くはない。
泰時が定家の弟子になり和歌を詠み始めたのは承久の乱の後、
六波羅で御成敗式目を作っていた頃か。
残された歌の数から言って、武士にしては割とまじめにやっている。
御成敗式目作っちゃう秀才だから歌も詠めたのだろう。
武人としての能力はどうだっただろうか。
棟梁だから自ら腕力が強い必要はないのだが。

宗尊親王の影響下、鎌倉武士らがかなり本気で和歌を学んだことがわかる。

蓬生法師という人が東撰和歌六帖にも新勅撰集にも出てきて、
泰時と同時代人だったと思われる。
熊谷直実は蓮生と呼ばれる。
蓬生も蓮生も法然の弟子になったと書かれていて非常に紛らわしい。
でもまあ全くの別人だと思う。
熊谷直実にしては歌がうますぎる。

このへんのよく知られてない歌集のことは調べようとしてもよくわからん。
少なくともネットをぐぐっただけではわからん。
こういう和歌の分野では大学紀要というのは馬鹿にならんのだが、
ネットで調べられるようにならんものだろうか。
調べてみたい気はあるのだが、
調べるのに要する気力に見合うかどうか。

新類題和歌集2

角川の新編国歌大観の[新類題和歌集](/?p=4842)をだらだらと読んでいたのだが、
後水尾院、仙洞(霊元院)、後西院、幸仁(宮将軍に擁立されようとした有栖川宮幸仁親王。後西院の皇子)、東山天皇、中御門天皇、基熙(近衛基熙。将軍家宣の正室熙子の父)
などの歌が収録されており、新井白石を調べて書いた私には非常に興味深かった。

霊元院が編纂させたこの新類題和歌集というものは、
通り一遍には当時流行していた類題集のたぐいであって、
勅撰集には当たらないとされているのだが、
私が読む限りではこれは紛れもない霊元院によって編まれた勅撰集である。
21代集と同じくらいに注目されて良いはずだ。

歌の出来は、ぱっと見そんなすごくない。
後水尾院の歌は確かに良い。

> 梓弓やまとの国はおしなべてをさまる道に春や立つらむ

> たが里ももれぬめぐみの光よりおのがさまざま春を迎へて

いつもの名調子である。
しかしその他の歌は、うーん、どうなのかこれはというのが多い。
皇族とその近臣らの歌だけが目立つ。
武家の歌はなさそうだが、しかし一度ちゃんと読む必要はある。

編まれたのは中御門天皇の代らしいのだが、
幸仁親王がただ幸仁、
太政大臣の近衛基熙が単に基熙と記されているのが驚きである。
普通勅撰集には官職名を添えるものだ。
藤原俊成が皇太后宮大夫俊成と呼ばれ、
藤原定家が権中納言定家となるようなもので、
中には官職しか書かれない場合もある。
実朝を鎌倉右大臣と言うようなものだ。
親王、法親王、内親王などの称号は必ず添えられる。
霊元院の意向らしいが非常に奇妙だ。
そして自らのことは仙洞と言っているわけだが、なぜなのだろう。
和歌とはあまり関係ないところがいろいろ不思議だ。

新類題集に関する論文は大学紀要などにあるらしいのだが、
どうやって見ればいいのかわからん。国会図書館に行けばいいのだろうか。

それはそうと新編国歌大観のCD-ROMで検索しようと思ったのだが、
近所の図書館で見ようとしたらCD-ROMが読めなくなったという。
windows xp とともに逝ってしまわれたらしい。
なんとかしてもらわないと困るのだが。

発泡酒

思うに昔は澱ができようができまいが、
発泡しようがしまいが、
瓶詰めして出荷していたのだと思う。
瓶詰めして二次発酵が進むとアルコール濃度が高くなるのと糖分が減ることによって酵母は自然に死に、
発酵はとまる。
そしておそらく澱ごと飲んでいたか、
飲むときにデカンタージュして澱がある程度沈んでから、上澄みだけ飲んだ。

日本酒でも火入れしないで発酵させたままのやつは発泡している。
マッコリも、たぶん大半はわざと炭酸ガスを入れているんだと思うが、
どぶろくの一種であって発泡している。

ビールがなんで発泡しているかなんて誰も気にもしないが、おそらく密閉した容器の中で発酵させているからだろう。
ランブルスコが作られるイタリア式のスパークリングワインの作り方に近いと思う。

瓶の中に澱はできるだけ残したくない、しかし発泡したままにしたい、
という要望からシャンパンはできた。
シャンパンが一般化することによってスパークリングワインとそれ以外のワインがわかれたのではなかったか、
ということだ。
ビールだって、イギリスのエールだって、二次発酵用の密閉容器が発明されなければ発泡するわけはないのだ。
それらはかなり近代になってからの話だろう。
近代以前はどんなお酒も作り方は似たりよったりで、おそらくはどれも微発泡で、
醸造してから一年、長くて三年くらいで飲んだはずだ。
蒸留酒はまた別として。

何が言いたいかといえば、
近代以前の素朴なワインが飲んでみたい、
そんなものは無いというなら、そういう古態をとどめたワインが飲みたい、ということなのだ。

清酒の製法は江戸時代からさほど変化してないと思う。
度数はだいぶ高くなっていると思うが。

ワインの謎。特にフランスワイン。

フランスのワインってやっぱなんか変だと思うんだよね。
長期間熟成させたワインを好むじゃん、フランスって。
古けりゃ古いほどありがたがって値段も高くなる傾向があるじゃん。
そうすると長期熟成した方がうまい葡萄の品種ばかりがもてはやされると。
もはや骨董品扱いなんだよね。
何年ものはよくて何年ものはできが悪いとか。

しかし、私にしてみるとそういう熟成させた、濃くてくどいワインは嫌いなんだよね。
かといって甘いジュースみたいなワインも嫌い。
両極端にふれきっていてその中間が希薄。

たぶんその中間くらいのワインが私は好きで、
たまたまランブルスコは葡萄の品種的にも醸造方法的にも私に向いていたのだと思う。

みんながみんなフランス風のワインを飲む必要はない。
イタリア人もそう考えてるだろう。
イタリアにはイタリアのワインの歴史があって、自分がそれに合ってると思えばそういう飲み方をすればいい。
軽くて飲みやすいワインが良い。

長期熟成をありがたがるのはもともとはウィスキーなんかの蒸留酒だったと思うんだよね。
ところがフランスではそれを醸造酒のワインでやった。

日本にも梅酒や古酒をありがたがる文化がないわけではない。
しかし梅酒はリキュールだし、古酒はそれほどまで好まれない。
もし古酒の方が良いという話になり、五年物、十年物、五十年物などがありがたがられるようになったら、
日本の清酒というものは全然違った酒になっていただろう。
それはたぶん紹興酒みたいなものになってしまったはずだ。

フランス料理もやたらと時間をかけて秘伝のソースみたいなの作ってステーキにかけたりする。
フォアグラなんかもかなり異常な食材。
とにかく脂と肉。
イタリア料理ではそんなことしない。
素材の新鮮さを活かした素朴な料理を作る。
せいぜい保存食としてハム作るくらいだろう。

北王子魯山人も言ってたことだが、フランス料理というのは、過大に評価されている。
魯山人がイタリア料理を知っていたらきっと意気投合したのに違いない。

イタリアはフランスよりも長い歴史と古い文化を持ってるから、
フランス料理やフランスワインが異常な進化を遂げてもまったく気にしなかった。
たぶんフランスをここまで持ち上げたのはアメリカだ。
イギリスには大した食文化がなくドイツやイタリアは敵国だから、フランスに憧れるしかなかった。
フランス人だって毎日あんなくどい料理を食べくどいワインを飲むはずもない。
アメリカ人がわけもわからず変に持ち上げたせいじゃないのか。
オーストラリアもアメリカと同じ。
オーストラリアワインのサイトを調べて気づいたことだが、
このワインにはこんな香りと味わいがあってこういう料理に合う、などという解説がくどいほど書いてある。
しかしイタリアワインのサイトにはそんなくどい説明はない。
そんなことにこだわるのはフランスと、フランスに影響を受けたアメリカと、
アメリカ商業主義に毒された多くの国々なのだ。

オーストラリアワインはフランス原産の葡萄の品種を節操なく栽培し、時にブレンドしている。
ようは、フランス風のワインを作ろうとしているのだ。
従ってフランスの基準と価値観でワインを評価する。

イタリアはそんなことにはたぶん無関心だ。
イタリアがなければ私はワインを飲みたいとは思わなかったはずだ。

この
[Wolf Blass](http://www.wolfblasswines.com/en.aspx)、
[Cavicchioli](http://www.cavicchioli.it/ing/lambrusco.php)、
[Medici Ermete](http://www.medici.it/eng/)
などのサイトを見比べただけでわかるはずだ。

アジアとエジプト

ブログのリンクをツイッターにはろうかどうか悩んでいる。宣伝にはなると思うが、このブログはおもいついたことをそのまま書きためておくところで、永遠に未完成の書きかけなのだ。後から書き直すかもしれない。

そんなことを言えばKDPで出版したものも後でわりと書き直すほうなのだが、どうもブログを宣伝するのは気が引ける。

アドンとエデンなどというものを昔書いていてすっかり忘れていた。なぜ今更思い出したかといえば、JetPackというwordpressの統計プラグインのおかげである。

アラビア語ではエデンをアドンという。ヘブライ語で主をアドナイという。アドナイはアドンの複数形。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はアメンホテプ四世による、エジプトのアトン信仰にさかのぼることができる。フェニキア人の神にアドニスがいる。これらはみな同じであると仮定するとどういうことになるか。

エジプトにとって東とはほぼ間違いなくアジア(狭義にはメソポタミア)のことである。
つまり、エジプトにおける一神教とはメソポタミアから輸入された舶来の宗教であったといえる。

思うにエジプト新王国はアジアの征服王朝ヒクソスから独立して生まれたものだ。エジプト古来の文化や宗教が復活し、アジアとエジプトという対立概念が生まれた。外圧によってエジプトがエジプトを自覚したと言ってもよいかもしれぬ。アトン信仰はヒクソスの時代にすでにエジプトにもたらされていたかもしれぬ。いきなりエジプトに来たのではないかもしれぬ。

つまり、エデンとかアトンというのは、もともとは、エジプトの神に対する、メソポタミアの神、のことを言っていたのではなかろうか。エデンというのは、メソポタミアでは単に平原を表す普通名詞である。エジプト人はメソポタミアのことをエデンと呼んでいたかもしれない。エデンの神のことを、だんだん略して単にエデンとかアドンと呼んだかもしれない。

エジプト新王国はしだいにアジアのミタンニ王国と同盟するようになった。さかんに王族どうしで婚姻するようになった。これが王家と神官たちの宗教的対立を産んだだろう。エジプト国粋主義の神官たちと、アジア由来の神を信仰する王族。

ミタンニ王国は実はヒクソスの末裔であるかもしれない。エジプトはいったんヒクソスの支配を脱したのではなくて、ヒクソスによる支配はある程度残存していたのではないか。
第15王朝から第18王朝まで、王朝の交代という不連続な変化が起きたのではなく、エジプト固有勢力とアジア勢力の連続的な均衡が続いていたのではなかろうか。少なくとも当時、よりエジプト的な部族や人民、よりアジア的な部族や人民が、エジプトに混じり合って住んでいた。アジア的な部族とはつまり「エジプトへ下ったイスラエルの子ら」である。

イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない。

エジプト新王国はまさにそのような状況だっただろう。

アジアとエジプトの対立が極端な、最終的な形で現れたのがアメンホテプ四世による宗教改革であった。エジプト古来の神と、アジア由来の神の対立によって先鋭化したものが一神教であったはずだ。この時期、きわめてリアルな彫像が作られたのも、アジアの影響だったはずだ。いきなりエジプト人の中からああいうものが出てきたと考えるほうが不自然で、どこかから輸入されたアートだと考えるべき。リアルと言えばギリシャ彫刻だが、その由来も案外同じかもしれぬ。このエジプト第18王朝はエジプト保守勢力によって途絶えた。そのとき王族がエジプトを脱出したのが出エジプト記の記述に相当する。おそらく、旧約聖書に記されている多くの古代の事績はまずアジアからエジプトにもたらされ、エジプトから迫害されて、ユダヤの地に残存したのだろう。

フロイトも指摘しているように、割礼はアフリカで広く見られる風習であって、アジア的なものではない。アトン信仰がエジプトの宗教となった結果、土着の割礼という風習を何かのきっかけで採り入れたと考えるべきだろう。