西太后の辞世の言葉,「以後,再び女性に国政を担当させてはならない.それは本朝の家法に背くことで,厳に慎むべきである.」げしょっ.
西太后死後しばらくの間の,つまり同時代の中国人の彼女に対する評価は,現在の毛沢東に対する評価に良く似ている.現在の中国人は西太后を非常に憎んでいるように思う.が,毛沢東は必ずしも憎んでいるわけではない.西太后が頤和園で放蕩せずその金を北洋艦隊の強化に使っていれば,中国は日本に負けたりしなかったのだが,という話を以前私は北京郊外の頤和園で聞いた.
西太后の辞世の言葉,「以後,再び女性に国政を担当させてはならない.それは本朝の家法に背くことで,厳に慎むべきである.」げしょっ.
西太后死後しばらくの間の,つまり同時代の中国人の彼女に対する評価は,現在の毛沢東に対する評価に良く似ている.現在の中国人は西太后を非常に憎んでいるように思う.が,毛沢東は必ずしも憎んでいるわけではない.西太后が頤和園で放蕩せずその金を北洋艦隊の強化に使っていれば,中国は日本に負けたりしなかったのだが,という話を以前私は北京郊外の頤和園で聞いた.
ふと思った.漫画家というのは必ずしも絵がうまくなくてもよいわけで,個性的な絵が描ければよろしい.さらに言えば,原作は他に居てもよいわけで,ストーリーを考える能力はなくてもよろしい.
シナリオもネタ集めも,絵のアシスタントも,良い漫画がかければなんでも使えるものは使えばよいわけである.
それはまあよいとして,では一番絵のうまい漫画家というのは誰かというと,それは池上遼一か安彦良和だろうと思う.いや,もしかしたら黒鉄ひろしとかもうまいのかもしれない.そういうこと言い出すとバカボンドとか北斗の拳の作者もうまいうちに入るかもしれない.まああまり追求するのはやめておこう.
で私がなにを言いたいかと言えば,それは安彦良和の「王道の狗」 (ミスターマガジン) である.これはすごい.作・画ともに安彦良和.安彦良和といえば「ガンダム」のキャラクターデザインである.ここまでは誰でも知っている.そして「アリオン」.これもわりと有名.「クルドの星」.うーむ,これも私は読んだけど,あまり有名じゃないかな.「アリオン」を描いた理由はなんとなくわかるような気がする.ギリシャ神話ってなんとなく描いてみたいよね.「アリオン」と「クルドの星」はわりと連続性があると言える.ギリシャとトルコはエーゲ海を挟む隣国だから.取材か何かでギリシャに行けばトルコにも足を延ばすでしょう.ちなみに「クルドの星」というのは,トルコとイラクの国境辺りに居るクルド人のゲリラの話である.で,そこから「王道の狗」に来るのはちょっと飛躍があるようにも思えるが,しかし,トルコから日本の明治維新へ来るというのは,なんとなくわかるような気がするのである.
今度の「王道の狗」はすごい.そしてほとんど誰も注目してるふうがないところがまたよい.売れる漫画ではなく,描きたい漫画を描いているのだろう.読者にこびるようなところがまったくないのがよい.最初はすげー地味で難解な展開だったが,これから派手になるので,どんどん注目されるようになるのではないか.
風俗・時代考証がものすごく正確 (だと少なくとも私の目には思える).陸奥宗光がでてる,それだけでもすごいが,李鴻章やら孫文やら大院君やら袁世凱やら閔妃やら勝海舟やらどんどんでてくる.ものすごくすごい.陸奥宗光の描写がすごくよい.その他の公人,民間人,武道家などの日本人の描写がうっとりするくらい良い.清や朝鮮の宮廷や市街の描写がまたよい.弁髪の支那人と総髪の朝鮮人がみごとに描き分けられている.今回,金玉均が漢江河畔に晒された.この描写がまた凄絶だ.また,上海のジャンクを蹴散らして進む清の砲艦.このガンボートの描写がまたすごい.
砲艦!!
李! きさまっ (手書き)
そこまでやるか!! (手書き大)
安彦良和の手書き文字はとても色気があるっ.
安彦良和はたぶん北海道の出身だったが,主人公が政治犯でアイヌの格好で身を隠す.その習俗の描写がまたすごい.なにからなにまですごい.そのうち日清戦争だとか安重根の伊藤博文暗殺だとか日露戦争だとか日韓併合だとか辛亥革命とかもやるのだろうか.すごいなあ.
柳沢教授を読んでいて思ったのだが, Have you been living here? の独訳は Wohnst du hier? なのか ?
なぜドイツ語では現在形で,英語ではわざわざ現在完了進行形なのか ?
英語はむしろ Do you live here? の方がましではないか.
いやこれは些細なことにすぎない.
ドイツ語の口語は現在形を多用するのかもしれん.
しかし,いくら子供とはいえ,また,柳沢教授の性格から言って,
見ず知らずの外国人に Wohnst du hier? というのはなれなれしすぎではないか.
Wohnen Sie hier? というべきではないか.
柳沢教授はフランス語でも尋ねたのだが,私はフランス語は知らないので,フランス語については省略する.
もちろんもっとおかしいところはある.
モンゴルのウランバートルの浮浪児にいきなり英語,ドイツ語,フランス語で質問するのは大学教授だからっていくらなんでもバカすぎないか.
まずモンゴル語,つぎに漢語,さらにロシア語か英語の順で質問するのが筋というものだろう.
パンダ密猟は死刑。アブラハムはイサクを殺した。バイトをオクテットと言うとかっこいい(笑)。
相原コージが「例に出して悪いけど、…「パパはニューギニア」の連載と共に「ギャグマンガは死んだ」のだ」などとほざいている。そんなことより、最近の吉田戦車がつまらないことの方が重大問題だ。「いじめて君」のころは面白かったのに。
割合ひまだったので中島敦をまとまった分量読むことができた。
彼は南洋庁パラオ支庁に居た。第一次大戦でドイツから取った領土だ。そこへ行ったのは、喘息の療養を兼ねてのことだったようだ。小説の評判が良いので帰国したら、横浜で早速風邪をこじらせた。スティブンソンはロンドンで死にかけて、南洋に引き返して命をながらえたが、中島敦はそのまま日本で死んでしまった。日本に帰らなくとも、すぐに戦争が始まって大変な思いをしたことだろう。ただ中島は、
> いや、そうではない。お前が南方に期待していたものは、こんな無為と倦怠ではなかったはずだ。それは、新しい未知の環境の中に己を投げ出して、己の中にあってまだ己の知らないでいる力を存分に試みることだったのではないか。さらにまた、近く来るべき戦争に当然戦場として選ばれるだろうことを予想しての冒険だったのではないか。
という恐るべき覚悟を記している。
山月記、名人伝などはもちろん高校生の頃読んでいたのだが、その異常な世界は、中島敦が熱烈な西遊記ファンであるところからきているようだ。彼が生きていた時代が精神主義全盛期だったことも関係あるかもしれんが。文字禍、悟浄出世、悟浄歎異、など、寓意の体裁であるがあからさまに彼自身が投影されていて、私小説よりもむしろ直接的だと思えた。
こないだ青ばた豆腐というものを食べた。非常においしかった。福島県と新潟県の境の福島県側で作るのだという。あまりにもおいしいので、これは大豆ではなく、枝豆で作ったのではないかと思った。しかし、枝豆だと豆が十分乾燥していないので、ひいてもうまく粉にならず、従って豆乳ができないのかもしれない。あるいは、枝豆をすりつぶしたものを、豆乳代わりに使うこともできるかもしれない。また、山形の方には、乾燥させても青みを失わない大豆と言うものがあるそうだ。そのような豆を、一晩ダシ汁と酢を混ぜたものに浸しておくと、「ひたし豆」と言うものができるのだが、これが非常にうまい。もしかすると、そのひたし豆に使う大豆を使って豆腐を作ると、うまいのかもしれない。ひたし豆に対して「だだちゃ豆」というのは、さやを付けたまま枝豆をダシ汁で煮たものではなかろうか。
麦茶というのは,ほとんど水のようなものなのだろうが,どんな成分が人はうまいと思うのだろうか.味なのか香りなのか.鼻が効かないとうまくないのか.最近は米や小麦などを一緒に煎ったものもあるようだ.よけい香ばしくなるのだろうが,じゃ米でも麦茶のようなものは作れるのか.最近はずぼらになっていつもペットボトルだ.あれも買って帰るのがかさばって重くてよくないのだが.
お茶漬けなんてものは,冷やご飯と水,あと漬け物だけでも案外うまく食えるものかもしれないが.
今昔物語の「芋粥に飽きるということ」を読んでみたが,芥川龍之介の芋粥とほとんど同じ内容だった.芥川のいじけた脚色がないぶん面白かった.蛇を魚と偽って売る話も,原作にはそれなりの面白みがある.鼻に関しては,さすがに芥川の方が込み入ってて面白いかと思うのだが,原作もそれなりにシンプルでよい.
司馬遼太郎の小説は,「項羽と劉邦」の他は今度読んだ「だったん疾風録」くらいしか読んだことがない.普通は,坂本龍馬とかを読むものなのかもしれんが.
> 我恋は千尋の海の捨小舟寄る辺なしとて波のまにまに
志賀直哉「真鶴」
> あらたのし思ひははるる身はすつるうきよの月にかかる雲なし
> さすが涙のばらばら袖に こぼれて袖に 露のよすがのうきつとめ
芥川龍之介「或日の大石内蔵之助」
夜の夜中に延々とアニメをやっている.
子供が夜更かしするのでなければ,大の大人が見ているのだろう.
なんかよくわからん.アニメといっても,セル画の中のほとんどは動かない.
できるだけ手間のかからないように作られているなあ.
なんてことは,子供のころは考えもしなかったなあ.
司馬遼太郎の「だったん疾風録」というのを読んだが、これはとても面白い。
iMac の中古を友達から 20 万円でおしつけられたやつがいた。貧乏人の癖に御人好しなやつだ。 iMac 定価で 128,000 円で、メモリ増設してたからといって、せいぜい 10 万円くらいなもんじゃないかな。
清水義範の「まちまちの街々」という本。
その中に、「どっちにつこう物語」というのがでてくる。
徳川家康に、茨城から秋田に領地替えされた、佐竹という殿様がいる。
佐竹家は、源氏と平家のどちらに付くか、源氏と奥州藤原氏のどちらに付くか、足利と朝廷のどちらに付くか、徳川家康と石田三成のどちらに付くか、江戸幕府と官軍のどちらに付くか、という歴史の選択に、何度も迫られる。
そのたびに、繁栄したり、滅亡しかけたりしてきているのだ。
その結論が、「武家の頭領とは、いかにして勝つ側に付くか、ということだ」となる。
別の言い方をすれば、「いくさとはバランス感覚である」ということになる。
清水義範と言う人は、実に恐ろしい人だ。
湾岸戦争の軍事費拠出やガイドライン法などというのは、要するに、「非武装中立なんてくそくらえ」ということであり、「滅びたくなければ強い側に付け」ということである。
アメリカの同盟国になり、アメリカの覇権に協力しろ、ということである。
歴史に学べば、源氏と平家のどちらにも付かないとか、鎌倉と平泉のどちらにも付かないとか、足利と朝廷のどちらにも付かないとか、東軍と西軍のどちらにも付かないとか、幕府と官軍のどちらにも付かないとか、そういう選択はありえない。
強い方に付かないということは、戦わずして敗けるということであり、強い方に付くということは、戦わずして利益を得るということだ。
つまり、そういうことを言ってるのではないか。
そのほか、芥川龍之介や、志賀直哉などを読む。
この二人はすごい。
太宰治とか、中島敦などは、とてもおよばない。
芥川龍之介の芋粥、志賀直哉の小僧の神様には、題材の共通点があって面白い。
どちらも、お金持ちが貧乏人に、食べたいものを好きなだけ食わせるというものである。
芋粥が大正 5 年、小僧の神様が大正 9 年で、ほとんど同時期だが、芋粥の方が早い。
ただし、生まれは志賀直哉の方が少し早い。
志賀直哉は、まあほぼ確実に、芋粥の影響を受けて小僧の神様を書いただろう。
それでも、どうしても、志賀直哉は小僧の神様を書かずにはおれなかった。
そうして、小説の神様と呼ばれるようになった。
芋粥では、食べさせられる側が主体なのだが、小僧の神様では、食べさせる方の心理描写が中心なのである。
「芋粥」、「小僧の神様」は、どちらも、だれが読んでも文句なしに面白いと思うが、それはやはり食いものが素材だからだろう。
小僧の神様は、もう何度読んだかしれないが、この話は、落語にしても面白いのではないかと思った。
で、自分なりに落語に仕立て直してみようとしたが、なかなか難しい。
うまい人がうまく演出して、うまく演じればきっとおもしろいに違いない。
極めてきわどい省略をして、しかも不自然さを感じさせないのは、志賀直哉のてにをはの使い方がうまいせいである。
例えば、「城の崎にて」の中で、「読み書きに疲れるとよく縁の椅子に出た」と言うセンテンスがあるが、これは普通「縁に出て椅子に座った」と書いてしまうところだ。
私はずっと、こういう省略は古典の素養から来たものだと思っていたが、もしかしたら、欧文調なのかもしれないと思った (もしかしたら当時の口語なのかもしれんが)。
昔,斉の国に恒公という王が居て(笑),
管仲が宰相になったのだが,
恒公は管仲の諫めを聞かず,
何度も軍備を増強し,宋や魯などの隣国と戦争をして負け続けた.
ついに魯の宰相の曹沫に,会盟の場で懐に忍ばせた剣を突きつけられ,
領土を割譲する約束をさせられた.
たぶんこれで恒公も懲りたのか,
それからは管仲の言う通りに政治を行なうようになり,
ついには春秋の覇者の一人となった.
で,管仲が宰相となってから,恒公が覇者となるまで,
なんとも長い期間,紆余曲折と試行錯誤を経ている.
上司を説得するというのはこうまでたいへんなことなのだろうか.