宅配業者

最近は宅配業者がいろいろ気になる。

かつては郵便局か黒猫か佐川くらいだったが、今は得たいの知れないやつが運んでくる。特にアマゾンから来る荷物が得たいがしれない。

こないだなどは某超優良宅配業者を名乗る謎の男がアマゾンの荷物を運んできた。出てみるとその会社の制服を着てないし、車もただの白いバンだ。レシートもアマゾンのものしかない。ますますあやしい。

某業者が、人手が足りなくて個人に外注したということだろうか?

それとも謎の個人業者が、某業者の名を出せばあやしまれないとでも思ったのか。

なんだか嫌な時代になったものだ。

郵便局だからといって不正をやらないわけではないことはいろんな不祥事でわかるんだが、しかし、目に見える組織がちゃんと責任を負っている。

わけのわからん個人に委託してほしくない。

鬼平犯科帳

別に『鬼平犯科帳』の悪口を言いたいわけではないが、あれは結局、江戸時代を舞台に今の刑事ドラマを作り替えただけのものであり、だから一般受けするのだ。

元は同じで、そのアレンジ次第で時代劇にもなり、『相棒』にもなる。ただそれだけのことだ。結局人はいろんなものを見ているようでごく狭い限られたものを見ているに過ぎない。

別の言い方をすれば刑事ドラマにしても、今の現実の刑事やら警察官をきちんと取材すれば、全然違う作り方をすることができるはずで、全然違う『亀有交番前』ができるはずだ。だがそのためには一からネタを仕込み、まったく新しいプロットを考えねばならない。そんな売れるかどうか当たるかどうかもわからぬことに労力を費やす人などいないのだ。

eumenes english edition

人に言われてその気になって、『エウメネス1』を英訳してみたものの、ほとんど誰にも読まれないってことがわかっただけだった。英文ならどんどん読者を獲得できるのではないかと期待したが、そんなことはなかった。

和文と英文を分離して、和文は縦書きに戻すことにした。やはり縦書きのほうが全然読みやすい。

今回書き足してしまってずいぶん長くなった。短ければあっさりしすぎていると思われ、長いと飽きられる。簡潔で読みやすく、気がつけば次々に読んでしまって、長さを感じさせないというか、長さが気にならないようなのが良い文章なのだろう。誰も別に長編を読みたいわけではないのだ。面白い作品なら、長ければ長いほどうれしいだけなのだ。

英文もせっかく書いたからどこかにタダで公開しようと思うのだが、英文の小説投稿サイトはもちろんたくさんあってそっちに投稿すりゃ良いのかもしれんが、そこにもまた有象無象の小説があって、結局は埋没してしまうのに違いなかった。

日本語の投稿サイトもいろいろ検討してみたものの、どこも英語の匂いがしない。小説サイトなのに学問の匂いがしない、というのは変な言い方かもしれんが、ああいう文芸サイトというものには、結局、私は受け入れられない気がする。

まだハテナブログのほうが、英文に関心を持つ読者いるのではなかろうかと思われたので、とりあえずこちらに公開することにした。

一度に公開しないのはもったいぶっているせいではなく、マジで最近時間が無いからだ。私の場合、趣味と本業が分離してしまって久しい。もう10年以上そうだ。しかし、少しばかり、本業にも身をいれようと思うようになった。

本業と趣味を分離してしまうと趣味ばかり本気になってしまい、それはそれで疲れる。

やはり学閥というものはあるのだと思う。大学の同期や先輩後輩、師匠はやはり頼りがいがあるものだ。自分の実力だと思っていても、実は学閥というマーケティングないしは広報が効いているからこそ、社会に露出し、世間に認めてもらえるのだ。

つまり学者になりたければアカデミアのコミュニティに属しなくてはならず、小説家になりたければジャーナリズムのコミュニティに属さねばならぬ。そのためには大学に入るのが一番良い方法だ。だからあんな一見何の役にも立たない大学というものが存在しているのだ。

自分が属する世界に飽きてしまってその外の世界で活路を見いだそうとしても、うまくはいかない。逆に自分の学閥の中でぬくぬくと活動していて、良い気になっていても、それはほんとうの実力ではない。ホンモノでなければいずれ遠からず忘れ去られるだけだ。

二足のわらじというが、単に本業と副業があるというだけではないのだ。複数のコミュニティに属するにはどうすれば良いか。一つの大学を出て、年を取って他の大学も出ればよいのか?なるほど、それもありかもしれない。しかし今更他人の弟子になって頭を下げる気など起きない。そこまでして他人に搾取されたくない。

世の中は実に馬鹿げている。身内で盛り上がっているだけではないか。そんなものは死んでしまえば何も残らない。学者ならば常日頃学者を観察しているはずだ。そこから導かれる結論は学者は馬鹿だという以外無いはずだ。それなのに、学者のくせに学者を擁護する。そういう学者ばかりだ。

海苔弁

こないだ海苔弁の危機というものを書いたが、あれは間違いだった。

海苔弁にはやはり需要がある。

昼時、一番最初に売れてしまうのだ。だからちょうど、朝11時くらいにいかないと手に入らない。

海苔弁に人気がある理由は要するに安いからだ。鮭弁とか幕の内よりも、100円くらい安い設定にしなくては売れない。単価が安いからほんとは売りたくない。しかしよく売れるからその価格設定は崩せない。だから、めちゃくちゃ流行りはしないがしぶとく生き残る。

スーパーやほか弁屋ではそうだが、コンビニはまた違う。コンビニもまた、品揃えは豊富にしたいのだが、余力が無いところは、安くてボリュームがある鶏の唐揚げがメインになってしまうのだろう。

ほか弁屋は待たされるから嫌だ。待たされるくらいなら遠くのスーパーに歩いて行ったほうがましだ。あちこちスーパーを巡って海苔弁研究でもしてみるか。

海苔弁の危機

コンビニ弁当の角はもう少し丸くしてもらえないものだろうか。 電子レンジの中で回りにくくて困る。

近頃はコンビニのせいで弁当屋が減ってきていると思う。 セブンイレブンもwebサイトを見るといまだに海苔弁をメインにもってきてはいるが店頭ではあまり見かけない。 人気なので最初に売れてしまうのだろうか。 ほかの某系列だととにかくもうやたらと鶏の唐揚げばかり並んでいて、選択の余地がない。 セブンイレブンはまだ選択の余地があるぶん良いといえば良いが、カルビ丼とかそういう重いやつが目立つ。 スーパーの惣菜コーナーでも海苔弁はあまりみかけなくなりやはり鶏唐が優勢だ。

昔は弁当屋の弁当と言えば、高い方が幕の内で安いほうが海苔弁だった。まずこの二つは常にガチであったと思う。 鶏の唐揚げはおそらく原価がものすごく安いのだろう。 海苔弁はもとは安かったが最近は割高になりつつあるのではなかろうか。

このままでは海苔弁が絶滅危惧種に指定されるのではないかと心配だ。

小説の書き出し

> アマストリーにギリシャ語を教えるよう、王は私にお命じになった。

2013年3月17日にKDPで『エウメネス』を出したときの書き出しはこうなっていた。 ずっと最近までこの出だしのままだった。これを私は

> My Lord charged me to teach her the Hellenic language.

と訳してみた。「命じる」だが、command, order, charge, assign, appoint など、いろいろ候補がある。 ここでは王から私に一方的に仕事を課した、という意味合いで charge にしてみた。 discharge だと任務を解く、兵役を終わらせる、というような意味がある。

Greek という言葉は使いたくなかったので、Hellenic とした。 Hellenistic だとさらに意味が違ってくる。 Greek はラテン語由来であり、ローマから見たギリシャを意味する。 ギリシャ人自身は自分たちを Hellene と呼び、自分たちの国を Hellas と呼んでいた。 ローマが勃興する以前の話なのでラテン語由来の単語をできるだけ使いたくなかった。 日本語だとラテン語を使わず、たとえば漢語で代用するってことは割と容易だが、英語だとそうはいかない。 漢語はギリシャとローマの関係に中立だから良いが、ギリシャのことをローマの用語で書くとローマ史観や西洋史観がそこに混入してくるので嫌なのだ。ギリシャ史観が入ってくるのはある程度仕方ないとして、私としてはこれを西アジア史観で書きたいのである。

逆に日本語だと、「ギリシャ」を「ギリシャ」以外の単語で代用するのはほぼ不可能だ。この問題についてはもう少し時間をかけて検討したい。

「王」をどう訳すかも少し悩んだ。King にしようかと思ったが、あまりに唐突なのでここではやめておいた。あきらかに The King ではない。My King か Our King で良いかもしれないが、無難に My Lord にしておいた。以下作中では King と Lord どちらも使っている。

英訳だと Amastri という固有名詞すら出てこない。 で、この書き出しは、自分としては割と気に入ってるのだが、これだと、宮廷のどこかでお姫様が執事か何かに勉強を習う話のように思えるが、先まで読んでみたら違った、みたいなことを言われた。王様とお姫様が出てくると何かディズニーランドかトランプの絵札かチェスの駒のようなものを思い浮かべるのは日本人の悪い癖、西洋の悪い影響なので、わざとそのように勘違いさせておくのが良いと思い、そもそも私がこの書き出しにしたのは読者にそういう勘違いをさせのちに意外な方向へ話を展開させる、という意図もあったのだが、私としては少し思い改めて、出だしを次のように書き換えることにした。

> カイバル峠を過ぎ、ヒンドュークシュの山嶺から下界に降りると、ようやく春が我らを出迎えてくれた。雪が消え残る岩山は新緑に萌える草原に連なり、トネリコの枝にはそよ風が渡り、クロウタドリが口笛を吹いている。王は進軍を駐め、ここを今日の宿営地に選んだ。
> 兵士らが薪を集め火をおこし、幕舎を建てている合間に、私は木の間に天幕を張って日除けにし、テーブルと椅子を出して文房具を並べる。勉強を教えるにはあまり適していないところだ。さっきからずっと彼女は、岩場の隙間に咲いている黄色いスミレソウや、青い空を飛ぶ白い蝶に気をとられている。

> At last the spring welcomes us who now descend the Kaukasos mountains crossing the Khyber Pass. Snowy rugged scenery turns into green grass fields, warm wind blows and black birds are whistling in ash trees. Our Lord stops marching here to fix today’s camp.
> While soldiers are collecting woods, pitching tents and making fires, I spread a sheet between trees to avoid sun exposure, place a table and chairs under the shadow, prepare for writing. This is not a good place to study something, for the yellow primroses blooming in rocky meadows and white butterflies flying over the blue sky constantly attempt to attract her attention.

一箇所に定住していれば住民が春が来るのを迎えるのだが、逆にここでは、遠征軍が山から下りたので下界で春が出迎えてくれた、というわけで、そこは少しひねった。出だしをひねろというリクエストがあったので。 トネリコやクロウタドリや黄色いサクラソウや白い蝶というのは『フローニ』の使い回しだ。 英文中ではヒンドュークシュを Kaukasos と書いているのだが、これはアッリアノスなどがそう書いているからだ。当時この山がアヴェスター語もしくはサンスクリット語でなんと呼ばれていたのか、よくわからない。

カイバル峠やガンダーラを知ってる人にとってこの序章はある種の旅情を喚起させるのだろうが、知らない人にとってはいきなり未知の地名がわらわら出てきて読む気が失せるのだろう。私がトールキンのファンタジーを読むときのように。これはもうしょうがない、想定する読者ではなかったと諦めるしかないと思う。

OP35B == DNSブロッキング

なんだかよくわからないんでこのへんにごちゃごちゃっと書いておくんだが、 OP35B (Outbound Port 35 Blocking) ってのはつまり、35番ポートを塞いで、LANの中では、クライアント機は、指定された名前サーバーしか参照できないようにするってことだよね。 それで Free WiFi かなんかが OP35B してる場合には、今自分が参照している名前サーバーが本物かどうか確かめようがないから、 google のサイトにつないでいるようで実は google そっくりに作られたサイトかもしれないわけだ。 いや、そりゃ問題は問題だが、Free Wifi ってものはそんなもんなんだから、仕方ないよね。

OP35B == DNSブロッキングは漫画村を閲覧できないようにしようという動きででてきたもののようだが、もう1年以上前の話で、しかもNTTしか協力しなかったから、実質役にたたなかった。

日本のすべてのプロバイダが仮に協力したとしても、DNS over なんちゃら使って海外の DNS につなげば意味ないし。

も一つ、この手の話は VPN 会社かなんかを通すんだろうけど、どうもこの VPN やってる会社ってのがそもそもあまり信用できなさそうだ。

企画

世に「歴史エンタメ」と呼ばれている作品の多くは、「サラリーマン金太郎」や、「課長島耕作」と同じで、戦後サラリーマン小説の一種であり、 それを子供向けにすれば「ワンピース」になるのだ。 吉川英治が受けたのは、歴史上の人物や舞台を素材としつつ戦後のサラリーマン社会を描いたからであり、 「のぼうの城」もまた同工異曲といえる。

「のぼうの城」の場合、中小企業を継いだ二代目の世間知らずが大企業に刃向かって、前社長の部下たちが頑張って、そこそこ勝利したという話の焼き直しに過ぎないし、 上田合戦にしろ、あるいは真田丸にしろ、歴史好きだから面白いというよりは、 今の日本のサラリーマンが見て素直に共感できるから受けているだけだ。

NHKの大河ドラマも似たようなもので、日曜日夕方にテレビを見ているサラリーマン家庭むけに作られているわけだ。

世の中は、いくら歴史好きのために歴史小説を書いても売れはせず、 「日曜夕方にテレビを見ているサラリーマン家庭むけ」に作られた「えせ歴史もの」しか売れない仕組みになっている。

たとえば最近はやった「相棒」とか「倍返し」みたいなサラリーマンものを歴史エンタメに作り替えるのが、 売れる歴史小説、時代小説を書くコツだろうと思う。

村上春樹が売れている理由が私にはずっとわからなかったのだが、 村上春樹は英文学の翻訳などをやっていて、「マス」が読みたがっている小説とは何かということを把握し、 自分でも書いてみたのだろうと思う。 要するに村上春樹の小説というものは官能小説を純文学に仕立てたものだ。 多くの純文学がそういうしかけでできている。 ふわっとしてて、登場人物も少ないし、ストーリーがあるわけでもない。そのままでは「やおい」ものになってしまうのだが、 読者が読み続けるのは官能小説のエッセンスが仕込んであるからだ。 そういう小説は、小説を読むのが苦手な「マス」にも読まれるのだ。 カズオ・イシグロだとそこまで露骨ではなく、彼の場合やはり、日本からイギリスに帰化したという屈折が、 根っこになっている。

新人でいきなり売れっ子になる小説家もいるが、だいたいは文章力というよりは、企画で売れている。 ということは一人で思いついたというよりは誰かヒントをくれて売り出してくれた仕掛け人がいるに違いない。 かならずそういう人たちが生まれてくるコミュニティというものがある。

いろいろ売れている小説を調べていると、最初から企画どおりに書いた小説のほうが売れるに決まっていて、 書きたいものを書いてそれを企画会議に通すために書き直すのではそもそも企画会議に通るかどうかすらわからない。 で、企画会議を通るのは純文学かエンタメ小説を偽装した官能小説かサラリーマン小説しかあり得ない。 それ以外のものにも読んで面白いものはあるし、むしろ、そういう規格から外れた小説のほうが私にとっては面白いが、 しかしそういう規格外れの企画は企画会議を通らないから出版されることはめったになく、 出版されても売れることはないのだ。

蘐園談余 巻一の一

随筆第一巻 松乃落葉 契沖云、和歌は人ごとに胸中の俗塵を払ふ玉箒なり。

我が国の神道は即ち漢土(もろこし)の神道なり。 昔は天照大神の神霊、大殿にましまして、神宮・皇居、無差別と言へり。 祀の礼は補臣の掌る所にて、朝政はみな、神徳を以てぞ行はれし。 唐虞三代の礼は、尚書三礼に載りたり。 大政はみな宗廟にて行なはる。 宗廟の制作、大やう後の世の朝堂に等し。 祭祀の礼を治め、神霊の命を受けて行なはれければ、異国・本朝、神聖の道は同一揆なり。 後の世に官職分かれて、中臣・斎部の司るところは、即ち漢土の大宗伯の職にて、祭祀の礼を司れり。 朝政の中に一職にてあり。 大宗伯に準じて神祇伯とは名付けられぬ。 人事は皆、天のなす所なれば、天地神明の感応ならでは治まらず。 政事みな神明の命を受けて行ひたまへば、王道・神道、差別なく、治世安民の道にてぞあるべき。 『易』に「聖人設神道而治天下」と言へる、これなり。 上古は淳朴にて礼文いまだ備はらず。他(ひと)の国も我が国も、世の初めはみな神の代にてぞ有り。 人の代に移りてぞ、人の礼儀有りけり。 漢土は土地広大なればにや、風気早く開けて、我より先に礼文備はりけるこそ、唐虞・夏・商を歴(へ)て、 周の代に至りて、礼文成就完備して、人道の規矩定まりぬ。 我が国中古の世、古今の移り行く事を深く考え知りたまひて、はるかの海をしのぎて使者を参らせ、漢土の礼儀を移したまひてこそ、我が国の礼文、天地に交へて恥ぢざる事に成りてけり。 世々の律令・格式、今もあれば、漢土の礼文移されたる事は、紛ふべくもなし。 然るを、古への神道と言ふ事を知らで、我が国の神道は異国と異なり、その道はかうかうなれと言ふ、いかでかかる事あるべき。 神明は霊妙不測の威徳ましまして、天に等しく人智の及ばざる所にてこそあるべきに、身は社、心は神にあるものを、などと言ひて、神道の奥義なりと思へり。 即ち即身即仏の禅理なり。 神は我にありと言へば、神壇宗廟は廃すべきか。 鬼神なきに似たり。 勿体なき事ならずや。祭祀の礼を慎みて、神明の感応をなさしめ、国土の福を致すこそ、その職の道なるべけれ。