カニバリズム

神経痛はだいぶ治ってきたがまだ痛む。年齢と同じくらいの日数かかるというから、順調に治ってきているのだとは思うが、ずいぶんとしつこい病気ではある。

「キリスト教とカニバリズム」というそのものずばりのタイトルを付けた本もあるようだが、実際にイエスが食われたかはともかく、初期のキリスト教が、なんらかの形でカニバリズムと関係していた可能性は高い。

後世、予言と見えるようなことはたいていは後付けの解釈である。日本書紀の地名説話にしても、大化の改新にしても、寺や温泉の由来にしても、韓国起源説にしても、後世になってわからなくなったことを後から適当に理由付けしたものである。福音書にしてもイエスの死後五十年以上して成立したもので、それは平家物語の成立とも似ているが、一時資料としての歴史的な信用性はない。

人を殺して神に捧げ、時にはその肉を食い、血を飲むというような宗教儀式は、古代には広くみられたはずだ。犠牲は人から牛や羊などとなり、後に血は酒で代用されるようになる。人よりは家畜、家畜よりは酒のほうがコストがかからないからだ。つまり食人の習慣が廃れた主たる理由は、人を使うのが「もったいない」からだ。中国では犠牲の血で青銅器を血塗り、その血を飲んで盟約を結んだ。今日ではマオタイ酒がその代わりをする。キリスト教でも、本来は血を飲んだかもしれないがそれがワインに変わったのかもしれない。ユダヤ教では血は飲まないので、明らかにユダヤ教以外の異種の宗教が混入したのである。おそらくはヒンドゥー教のカーリー信仰のようなものだった。アーリア人の宗教はインドからペルシャまで広く分布していて、当然ユダヤにも影響を与えた。というよりか、ユダヤ人はペルシャ人によって捕囚されたのだから、ペルシャ人の宗教の影響を受けないはずがない。

イエスの処刑というものは、ほとんどめだたない出来事だったはずだ。しかしイエスにごく近い異端の宗教指導者が、イエスを教祖に祭り上げる。初期は家畜の肉や血が聖餐に使われていたかもしれない。それは今のヒンドゥー教の儀式のようなものだったかもしれない。明らかにユダヤ教の正統の儀式ではない。

やがて肉と血はパンとワインで代用されるようになった。パンはキリストの肉、ワインはキリストの血であるとはわかりにくい比喩である。そこをうまく説明づけるために、最初期の福音書は書かれたのではなかろうか。ただそれだけのことではないのか。

「アンデスの聖餐」などと呼ばれる事件があったが、要するに、他に生き残る手段がないときに、死者の肉を食べるのは、聖餐と同じであって許される、という解釈だ。

中国に食人の習慣があったのは有名だが、
小室直樹の『資本主義中国の挑戦』に詳しく書かれている。

日本には食人の習慣はあまりみられなかったようだが、殉死や人柱などの人身御供はかなり一般的だったのではないか。
ヨナ記にも海の神を鎮めるためにヨナが海に投げ込まれるなどいう話がある。
兵馬俑や日本の埴輪は生きた馬や人の代用だともいう。

神経痛2

なかなか治らない。

たぶん、神経が壊れることによって、触ったとか冷たいという感覚がすべて、痛みとして知覚されるのだと思う。すべての皮膚感覚が暖かさとか冷たさとか触覚に間違われるよりは安全というか、フェールセイフにできているのだろうが、ただものに触れただけで痛いのは困る。治るのに年齢と同じくらいの日数がかかるとか書かれていたりするのだが、
一か月半近くも治らないのだろうか。まだ十日くらいしか経ってない。別に普段の生活に困るわけではないが、不快だ。

健康第一。年寄り臭い。

神経痛

急にやることがなくなった。じたばたしてもしかたない。

ウィルスはすでに免疫系によって退治されたようだが、破壊された神経がひりひり痛む。何もしないとどうということはないが、皮膚をさすると痛い。体の芯のほうでは腰痛のような痛みになる。これが神経痛というものなのだな。で、神経が回復するまで三週間くらいかかると。慢性化して残ることもあるらしい。こわいこわい。

もう年寄り臭い病気ばかりで困る。実際年よりなんだが。

こういう神経痛とかリューマチとかヘルペスとか皮膚病とか痛風とかにかかった老人が、米持ち込みで自分で炊いて何日も逗留するような湯治場を利用するんだなあと思うと、なんかしみじみとしてくるわな。そんなじじばばの中に混ざって、自分もじじいなわけだが、米をといで塩昆布かなんかで食べてるところを想像したりする。確実にあと20年で、はやければ5年か10年でそうなる。

ひりひり

気力が続かないのでこのへんにして脱稿すると思う。体の表面の腫れは収まってきたが、皮膚がひりひりするとこがあちこち飛び回ってなかなか収まらない。ウィルスは撤収を始めたが免疫系との最後の戦いを繰り広げているのだろうか。

はよう酒が飲みたい。

連休がつぶれたともいえるし、連休だから助かったともいえる。

帯状疱疹

変な赤いぶつぶつが出来たので皮膚科に行ったら、帯状疱疹という病気だと診断された。子供の頃に罹った水疱瘡のウィルスが体の中に潜伏していて、加齢によって体が弱ってくると活性化するらしい。50才以上の人に多いという。6、7人に1人くらい発症するという。

不思議なことに体の片側にしかできものができない。ウィルスが神経の奥の方をおかすからだという。神経は脊髄を中心に体の外側に向かって伸びている。その途中がウィルスにやられるとその下流が皮膚まで達してできものになるらしい。食あたりでリンパがやられたのかと思ったが全然違った。寝違えみたいな腰痛が伴う。風邪引いたときのふしぶしの痛みとも似ている。

ちゃんと治療しないと神経痛が残るそうである。なるほど神経が痛むというのはこういうものなのだ。痛みが体のあちこちに移る感じだ。肌をなでるとひりひりする。必ずしも強い痛みではないが、不快だ。

酒も飲んではいけないらしい。年を取るというのはほんとに面倒だ。

百人一首というのは要するに歌を学ぶのには適してない

自分でも定家までの歌人を100人選ぼうとしているのだが、私の好みのせいもあるかもしれないが、平安時代だけだと50人も選べない。奈良時代を入れても全然足りない。素戔嗚尊からずーっと入れて70人くらいにしかならない。江戸時代まで入れれば簡単に100人になるがそれでは百人一首をまねたことにはならない気がする。

藤原公任とか源俊頼なんかはあんまり興味ないんだよね。わざわざ取り上げる必要があるのかという。当時の一流歌人だったのは間違いないんだけど。

百人選んでそれぞれ一首ずつというのは、まあ、歴史の勉強にはなるかもしれない。和歌の歴史を学ぶという意味会いはあるかもしれない。だが歌を学ぶのには不毛な作業だ。

読み人知らずの歌を採れないのもかなり痛い。

和歌を学びたければ、たとえば西行が好きなら西行の歌ばかり学べばよい。西行に飽きたら俊成とか。西行と俊成の比較とか。人に好き嫌いがあるのは自然だ。それをせずに、ただ百人並べてみるというのはおそらくはもともと歌のわからん人のやること。歌を楽しんでいるというよりは、それこそカルタのように歌人を並べて遊んでいるだけなのだ。要するに百人一首はただのカルタだというごく当たり前の結論に達する。まったく面白くもなんともない結論だ。ブロマイド集めたり、ポケモンとか妖怪ウォッチとか、そういう趣味と何の違いもない。

源頼朝と源頼政、花山院は入れたいよなあ。頼朝は完全な趣味として、花山院や頼政はなぜ百人一首から漏れねばならぬのかがわからん。どちらも藤原氏によほど恨まれてたとかではないか。

指月殿

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以前に修善寺温泉というのですでに書いたのだが、京都旅行をして気になったので少し加筆する。

伊豆修善寺に政子が頼家のために建ててやったという指月殿というのがあるんだが、もし当時創建のままだとすると鎌倉初期。当然国宝になってなくてはならない。それ以前に拝観料払わないと見れないだろう。

壁は古色蒼然としているがやたらとお札が貼られている。屋根が綺麗すぎるから葺き替えだろうし、ガラス戸は当然最近付けられたものだ。もとは経堂だったというが、そのお経はみんな焼けてしまったというし、お経が焼けるくらいだから経堂も一緒に焼けたのに違いない。

伊豆最古の木造建築、というのは、もしかすると当たってるかもしれない。ちなみに今の修善寺本堂は明治時代の再建。それよか韮山反射炉のほうが古いわな。

※追記。これ、実はかなり新しいものではないか。ガラス戸が最初からついていたとすれば古くて大正、明治末期くらいだろう。伊豆最古の木造建築というのを信じるとすれば江戸末期くらいのものか。

京都

京都には十ヶ月ほど住んだことがあるのでだいたい土地勘はあるのだが、普段あまり近寄らない清水寺に出かけてみて最悪だと思った。五条から歩いて登ろうとすると歩道は狭いし車は多いし、途中で引き返した。本堂は国宝らしいが、家光の時代の再建だ。せいぜい重要文化財止まりではないのか。京都は古そうに見えて徳川の世になってから再建されたものが多い。仁和寺なんかは日露戦争より後に修復された。そういうものをいちいち国宝にしててはきりがない。清水寺が国宝なら根津神社だって国宝ではないか。

京都で平安時代から残っているものは案外少ない。法住寺の三十三間堂は古い。あれは清盛が後白河のために建ててやったものだから、正真正銘平安時代だ(※追記。火災で焼失し鎌倉時代1266年に再建されたもの)。他になんか残っているかというと思いつかない。

銀閣寺は義政の頃から残っているから、古い。確かに国宝だ。他にも竜安寺石庭など室町時代のものはいくつかあるようだ。

それはそうと、伊豆修善寺に政子が頼家のために建ててやったという指月殿というのがあるんだが、もし当時のままだとすると鎌倉初期。当然国宝になってなくてはならないのだが、あまり有名でもない。壁は古色蒼然としているが、屋根が綺麗すぎるから葺き替えかもしれん。国宝になってないということはだいぶ改築されたのではなかろうか(※追記。多分ごく最近建てられたものだろう)。

京都の話に戻ると、修学旅行生は、嵐山、映画村、龍安寺、金閣寺、大徳寺、北野天満宮、二条城、三十三間堂、銀閣寺、哲学の道、清水寺、などを回るようだ。まあそのことにいちいち文句を言う気はないのだが、京都が文化遺産になった根拠の一つとして、平安遷都以前からの由緒がある上賀茂神社をなぜ見ないのかと思う。いや、上賀茂神社に中学生や高校生がわらわら来られても困るわけだが、修学旅行生はほんとの京都を見ていないことになると思うなあ。

皇統の正統性

状況証拠的に見ると大化の改新というものはなかった、と言って良いだろう。中大兄皇子と中臣鎌足が謀り、皇位簒奪をもくろんだ蘇我氏を滅ぼしたことになっている。

皇族と蘇我氏の間で紛争があって、蘇我氏が排除され、孝徳天皇が即位した、という以上の意味はないと思う。

大化の改新は、天武天皇のもとで最初の太政官となった藤原不比等の創作であろう。私が思いついたというより、wikipediaに挙げられている説の中で、私が一番もっともらしいと思うものである。

なんと言えばよかろうか。皇族というか、天皇家というか、王家といおうか。おそらく、天武天皇までは、日本の王というのは、抜き身の武力に基づく勝者以外の何物でもなかっただろう。強い者が王となる。強い一族が王家となる。日本で一番金をもって土地をもったものが王となる。それがなんとなく天照大神の時代までさかのぼることができるが、連綿と続いてきたものなのか、いろんな断続があったものなのか、確かな記録がなくてよくわからない。ただまあ継体天皇以後はだいたい続いているらしい、ということがわかるだけだ。

藤原不比等は、皇統というものをコントロールして、自らを天皇の第一の臣下と位置づけることによって、大陸から輸入した舶来文明を模倣することによって、自分の一族を安定にすることを発明した最初の人だったはずだ。藤原氏が天皇家に対して行ってきたことは結局はそれだ。つまり、万世一系とか皇統というものは、藤原氏によって初めて創作されたのである。天皇が自らそう主張したというよりも、藤原氏が天皇家と外戚関係を結んで自分の地位を確立するために皇統というものを必要としたのである。

力が強いものが天皇になれば良いのならば外戚なんて無意味だ。皇統と外戚は同時にできた。外戚を藤原氏が独占したから他の氏族は枯死してしまった。というより、藤原氏が一族を挙げて守った皇子が皇統ということになってしまう。それ以外の皇子やそれ以外の氏族は死んでしまう。それだけ藤原氏の一族の結束は強かった。当時、政治的に結束できる一族は藤原氏以外いなかった。天皇家にも藤原氏以外の氏族にも、そんな強固な団結なんてものはまるで見られなかった。藤原氏以外の王家や氏族はみな砂のようにばらばらだった。藤原氏に匹敵する結束というものは、のちに在郷武士の間から芽生えてくる。

王家だけを他の氏族より突出させるというマジックを演出したのは藤原氏であった。天皇家はこの時代そんな器用なことはできない。とにかくやたらとたくさん妃を持ってたくさん皇子や皇女を生ませた。皇子は父親に似てみな遊び人でやはりたくさん妃をもってたくさん皇子や皇女を生ませた。まさにカオス。源氏物語の光源氏をみよ。嵯峨天皇や文徳天皇や清和天皇や陽成天皇らの皇子たちを見よ。天皇家が子孫を自分でコントロールできるようになったのは白河天皇になってから。白河天皇は皇太子以外の皇子をみんな出家させてしまう。法親王というやつ。法親王は一生独身。彼一人多少贅沢したところでたかが知れている。皇室財産は自然と本家に集約し、分家は消滅する。皇太子が誰を妃とするかもコントロールできる。つまり外戚をコントロールできる。白河院は天皇家の長老として完全に一家をコントロールする。気づいてみれば当たり前のことだ。なんだ自分でやればできるんじゃないの、ってことは白河天皇になってからで、それ以前はそんな当たり前なことすらやってなかった。

ともかく、奈良平安時代に、外戚と皇統をリンクさせて臣下として権力を握るってことを明確に意識していたのは藤原氏だけだった。天皇家すらそんなことは考えすらしなかった。だから、皇子たちは一致団結することなく、藤原氏によって各個撃破されてしまった。

天武天皇は戦争ばかりやっている人だった。嵯峨天皇はやたらと皇族を増やして分家を作った。清和天皇もかなりむちゃくちゃだ。陽成天皇までの天皇というのは、ただ日本の王様というだけであり、何か具体的に世の中を治めたり、王位継承や皇統というものをコントロールしたという形跡がない。王位継承に介入し、王位というものに権威付けをしたのはもっぱら藤原氏である。

天皇家の皇統に着目して藤原氏がその外戚となって権力をふるったのではない。藤原氏が皇統を発明したのである。その戦略は嵯峨天皇の皇統に介入した藤原冬嗣、その子の良房、その養子の基経らによって確立された。つまり摂関政治というやつだ。藤原氏は天皇家を搾取しつつ、天皇家にとって変わることはしなかった。そのかわり一族を挙げて自分らと血縁関係のある皇子を守り、それ以外の皇子を排除した。そうして実利を得た。この構図はおおよそ道長の時代まで続いた。

白河院はおそらく藤原氏を観察した結果、皇統というものを天皇家が自分で管理すれば藤原氏要らなくね?ということに皇族で初めて気がついた人だっただろう。このとき初めて自分の一家は自分で制御しなくちゃならないという意識が天皇家に生まれたのだ。つまり天皇家は皇統とはどうあるべきかということを外戚の藤原氏から学んだということになる。

それ以前の宇多上皇は白河院ほどではなかったにしろある程度その必要性には気づいていたと思う。宇多上皇は自分の皇子の醍醐天皇に確実に皇位を伝えるために生前に譲位した。平城天皇や嵯峨天皇も上皇になったのだが、そのことをわかってやったのかどうかよくわからない(皇統は決して安定せずコントロールもできてなかったから)。後三条天皇や二条天皇も、取り巻きの下級公卿と組んで藤原氏を排除し、中央集権を目指した形跡がある。この二人は名君であった可能性もあるがその治世はあまりに短すぎた。

藤原氏の次に皇統を管理しようとした臣下は北条氏だった。北条氏は三種の神器に皇位の正統性があると主張した最初である。そんなことは藤原氏は発明してない。藤原氏にとって自分たちの権力の正統性とは、先祖の中臣鎌足と天智天皇が起こした大化の改新というもの、藤原が天皇家の外戚であること、皇統は大事ですよということ、ただそれだけだ。そして藤原氏は自分たちが拠って立つところの大化の改新なるものが、まったくの虚構であることも十分承知していたはずである。

北条氏はこんどは三種の神器という虚構を創作して、仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てた。今度もまた、皇統というものをコントロールし、皇統のルール付けをしたのは臣下の北条氏であった。天皇もしくは上皇による宣旨以外に、神器の正統性というものが北条氏によって追加されたのである。当時の天皇や上皇が神器は大事だよ、なんて言うはずがない。後白河法皇は神器など無視して後鳥羽天皇を立てたではないか。だが、北条氏にしてやられた天皇は、今度は神器を逆手にとって北条氏に楯突いた。俺は神器を持ってるし譲位もしないよと言ったのは後醍醐天皇である。いや、おそらくはそのブレインであった北畠親房である。神器に権威が生まれたのは北条氏と北畠親房のせいだ。そして神皇正統記は親房のプロパガンダだ。北条氏は自分が作った虚構に縛られて滅亡した。

次に皇統のルールを書き換えようとしたのは足利尊氏である。尊氏は後醍醐天皇から没収した三種の神器の権威によって北朝第一代光厳天皇を立てる。ここまでは北条氏と同じである。北畠親房も困った。権威の源泉と自ら認めた神器をとられちゃったんだから。神皇正統記にもそのへんのことはしどろもどろ。「神器?神器にも権威はあるよ、もちろん」みたいな書き方をしている。

その後、神器は南朝に奪われ、上皇も天皇もみな南朝に連れ去られた。尊氏は、北朝第四代後光厳天皇を、神器もなく、天皇もしくは上皇による宣旨もなしに即位させたのである。廷臣に擁立されて即位した継体天皇の先例に倣う、という理屈しか付けられなかった。説得力ゼロ。いくらなんでも、継体天皇の前例持ち出されても誰も納得しない。このことが北朝にとっては致命的な痛手となる。

北朝第六代後小松天皇は南朝の後亀山天皇から神器と皇位を譲られる。これによって南北朝の合一はなったのであるが、北朝第四代後光厳天皇と第五代後円融天皇には皇統の正統性がない。このことは明治になって蒸し返されて、北朝ではなく南朝が正統であるとされた。北朝すべてに正統性がなかったというよりも、後光厳と後円融に正統性がなかったというべきだ。

ここで勘違いして欲しくないのは、国権というものをマネージメントしていくために皇統というものが必要とされたのであり、万世一系の皇統から国権が派生したのではないということである。国権とは日本の政治的権限の中心をどこにどういう形で定めるかということであり、そのために皇統というものが長い年月をかけてじっくりと形成されてきたのである。イングランド王の王位継承ルールが異様に複雑なのは、イングランド王国の国権がどのように継承されていくかを明確に定める必要があったからである。ルールが不確かだとすぐに国王が複数立って継承戦争がおきてしまう。血統が大切なのではない。継承戦争が起きないようにするために血統がその根拠とされたのである。欧州の継承戦争を良く学ぶと良い。南北朝の騒乱を良く学ぶと良い。そうすれば血統がなぜ重要かわかる。他にとって代わる土地相続の方法論が、当時はなかったのだ。欧州ではキリスト教というファンタジーが血縁をオーバーライドしてくれたがその実効性にも限度があった。ヨーロッパ人もそこまで信心深くもなかった。他にはもう切り札はない。

藤原氏によって王家から大臣や官僚というものが分離され、北条氏によって皇統というものが「血の通わぬ」神器というアイコンに移された。要は、天皇の歴史とは、武家の歴史とは、皇位継承というものが王族の恣意によるものから、政治権力に関わるもの全体のパワーバランスと、合議と、客観的な手続きに移行していくという、至極当然な過程なのだ。

国権に皇統なんて必要ないと言ったとたんに日本の歴史は天智天皇や天武天皇より前にさかのぼってしまう。奈良平安時代に営々と築き上げた王朝の伝統はすべてご破算になる。
強いやつが自分の都合で天皇になればいいといったとたんに継体天皇の時代まで戻ってしまう。さもなくば中国の易姓革命の思想を輸入する必要があっただろう。日本人はそのどれも採用しなかった。自らの国に続く皇統というシステムを現実に即するよう作り替え整えていくことにしたのである。

こうしてみていくと、皇統の正統性は、いつの場合も、天皇や上皇が自ら主張しているというよりは、皇室を擁立する公家や武家がルール作りをし、コントロールしようとしていることがわかるのである。藤原氏は天智天皇までさかのぼった。北条氏は天智天皇より昔の皇室伝来の神器に正統性を求めた。足利氏は仕方なくそれよりもまえの継体天皇までさかのぼって正統性を求めたが結局うまくいかなった。後からルールを追加する者ほど古い神話時代の権威を掘り起こしてこなくてはならなかった。本居宣長の国学はある意味で神話時代を掘り返した北条氏や足利氏などの武家の理論武装に利用されたのである。藤原氏にとって神話時代のことなどどうでもよかったと思う。藤原氏には天智天皇という自分たちだけの偶像がいればそれで十分だったのだ。それ以外の権威を持ち出されても藤原氏には不利なだけだ。

明治維新はさらに神武天皇や天照大神まで皇室の権威をさかのぼろうとする。別に近代人のほうがそれ以前の封建時代の人より信心深いというわけではない。新しい時代ほど、まだ手垢のついていない古い権威を必要としただけのことである。また古い権威を創作するための学問や想像力も、それ以前の時代より発達していた。

藤原氏や北条氏、足利氏、徳川氏などは、神武天皇や天照大神がどうこうなどということは考えてもみなかっただろう。どんなものか想像すらできなかったし想像してみる必要性も感じなかった。空想力がそこまでいたらなかったはずだ。家康は自らを東照神君と呼んだ。明らかに天照大神とタメをはろうとしている。家康はまた天台宗にも凝った。かなりやばい人だが要するに宗教も神話もよくわかってはいなかったのだろうと思う。周りの人もやはりわからなかった。誰もわからないからダメだししなかっただけだと思う。

国粋主義によって国家が生まれるのではない。産業革命によって近代国家がうまれ、近代国家というのは王室を持つにせよ共和国であるにせよ、国民万能主義であるから、国民の要請によって国粋主義が生まれるのである。国粋主義は往々にして太古の昔の神話を必要とする。近代考古学によって箔付けされた神話を。ヒトラーが「アーリア人がー」と言ったのにも似ている。イタリアルネサンスもキリスト教以前の多神教を必要とした。トルコからギリシャが独立するのにもヘレニズムやそれ以前のギリシャ神話を必要とした。国粋主義者は国粋主義がどのようにして生まれてきたかをしらない。国粋主義者は国粋主義に「酔う」が故に国粋主義の本質が見えぬ。国粋主義とは何かということは覚めた目で見なくてはわからぬ。本居宣長の理論も、日本に産業革命がおき、近代国家が成立したから必要とされたのである。国学という国粋主義が発展して国民国家ができたのではない。国民国家ができたから国粋主義が必要になったのである。たぶん日本の国をありがたがっている人たちはなぜ日本という国がありがたいのかよくわかってない。天皇をありがたがってる人たちも、ほぼ誰も天皇を知らない。天皇を知るには藤原氏や北条氏や足利氏を知る必要がある。南北朝の歴史を知る必要がある。しかし日本人のほとんどは南北朝音痴なのだ。歴史はつねに緩慢に連続的に進化していく。あるとき急に完成した形で生まれるのではない。急に過渡的に突然変異したように見えても、そう見えるのにはしばしば何か見落としがあるのだ。ちゃんと調べれば連続性はあるものだ。些細で不確かなものが、次第に明確でしっかりしたものに成長していくのだ。日本はその歴史を一応独力で今日まで、地道に地道に、積み重ねてきた。しかしその長い長い過程をきちんと連続して観察し理解するのは一般人には無理だ。だから学者が要領よく整理して見せてやらねばならぬ。しかし現代の学者は通史というものが苦手であり、日本史なら日本史、世界史なら世界史。その中の特定の時代しかやらない。完全にたこつぼにはまってる。司馬遼太郎の如きは幕末維新と戦国時代しかやらない。歴史のつまみ食い。これでは歴史はわからない。

明治天皇や昭和天皇も、また敗戦当時の右翼(山本七平の言説を見よ)らもみな、いわゆる「天皇制」というものが一種のファンタジー(虚構)であることは十分承知していた。従って、人間宣言というものがあのような形で出た。その内容は極めて妥当なものだった。昭和天皇は「天皇制」にまとわる虚飾を捨て去りたかった。

朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス
(We stand by the people and We wish always to share with them in their moments of joys and sorrows)。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ (The ties between Us and Our people have always stood upon mutual trust and affection. They do not depend upon mere legends and myths)。

朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ
(We expect Our people to join Us in all exertions looking to accomplishment of this great undertaking with an indomitable spirit)。

これが天皇と日本国民の間で新たに結ばれた契約であって、またしても敗戦とGHQという外圧によるものであったのは皮肉であるが、皇統のルールが更改(再認識)されて、明文化されたのだ。しかるに右翼はこの人間宣言を認めず過去のファンタジーに固執し、左翼は鬼の首を取ったように勝ち誇って「天皇制」という右翼を攻撃するための偶像を捏造しようとし、今日に至っているのである。

京町屋

豪雨の関東を脱出してなぜか京都にいた。雨も降ったが割と晴れていた。普通のホテルではなくて町屋一棟借りて住んでみたのだが、町屋というのはいわゆる一軒家ではない。棟割り長屋、つまりテラスハウスであって、長屋でないとしても、隣の建物と完全に密着して建てられているから防音というものがない。実際隣のうちの声など聞こえてくる。上下左右が他人のうちである賃貸マンションよりは少しましかもしれないが、やはり全然落ち着かない。そのうえ下水臭かったり、蚊が入ってきたりしてかなりやばい。まだ六月の初めだからよかったが夏に借りたらどうなっていたのだろう。よく見ると京都にはまだまだ町屋建築がたくさん残っているようだが、空襲がなかったおかげだろうが、いまさら私はこんなところには住みたくないなと思った。

日本建築はすばらしいとは思う。銀閣寺東求堂なんかには実際住んでみたいと思う。それは庭付き戸建てだからである。町屋は所詮賃貸長屋である。あれをわざわざ良いというのはどうかと思う。東求堂にしてもエアコンは効かないし虫は入るだろう。私の子供の頃ならともかく今は逃げ出すかもしれん。特に夏や冬。

六人、いや、下手すりゃ十人くらいはなんとか泊まれるからそういう大人数で行くのには良いかもしれん。例えば女が二階に、男が一階に、シェアハウスみたいにして泊まれば案外割安ではなかろうか。

だがまあこれからは自分は四条とか七条あたりの普通のビジネスホテルに泊まると思うわ。