頓阿と後村上天皇

草庵集玉箒を読んでて思ったのだが、

一木まづ 咲きそめしより なべて世の 人の心ぞ 花になりゆく

この頓阿の歌

一木まづ 霧の絶え間に 見えそめて 風に数そふ 浦の松原

この後村上天皇の歌によく似ていないだろうか。さらに

夏草の 茂みが下の 埋もれ水 ありと知らせて 行く蛍かな

この後村上天皇の歌は

草深み 見えぬ沢辺の 埋もれ水 ありとやここに 飛ぶ蛍かな

この頓阿の歌とあまりにも似すぎてはいないだろうか。

頓阿は北朝の征夷大将軍足利尊氏の近習であり、しばしば尊氏邸の歌会に参加している。また従一位摂政関白太政大臣二条良基にも歌の師と仰がれていた。ところがどうやら頓阿は南朝の後村上天皇とも近しかった可能性が極めて高い。

後村上天皇が僧侶のなりをして頓阿という名で北朝に出入りしていた、としたらちょっと面白い話になるかもしれないが、二人の歌風はまったく異なるので、同一人物ということはあり得ないと思う。

頓阿は後深草二条、つまり『とはずがたり』の作者ともつながりがあったと私は見ているのだが、そのことについてはまた改めて書きたいと思う(最近頓阿についてだいぶ調べた。頓阿の本を一冊書けと言われればたぶん書けるだろう)。

私は「埋もれ水」とは頓阿のこと、「蛍」は後村上天皇のことを暗喩しているのではないかと思っている。つまり頓阿は南北朝間を行き来する密使だったのだ。

今ははや心にかかる雲もなし

花山信勝『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』を読んだ。私がわざわざこの本を図書館から借りてきて読んだのは、東条英機の辞世の歌

今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ

を調べるためであった。この歌は実はすでに『虚構の歌人 藤原定家』にも載せていたのだが、その頃から、この歌が和歌についてそれなりにある程度学んだ人でなくては詠めない歌であることに気づいていた。戦時中、日本人はみんな和歌を詠んでいた。本土決戦が迫ってきて、敗戦の恐怖におびえ、人々は日本古来の和歌を心のよりどころとするようになって、私の祖父でさえも和歌を一日一首詠んだ日記を書いていたのである。

この東条英機の歌は、『虚構の歌人』を書いていた時には気づいていなかったのだが、実は足利尊氏が詠んだ

今ははや 心にかかる 雲もなし 月を都の 空と思へば

の本歌取り、というよりも露骨な焼き直しなのであった。しかしそのことについて私は東条英機を咎めるつもりは毛頭無い。なにより歌をまったく詠めない現代人よりはずっと優れている。東条英機は素人歌人に毛の生えた程度の人だっただろう。同じ時に詠んだ辞世「さらばなり 有為の奥山 今日越えて 弥陀のみもとに 行くぞうれしき」「明日よりは 誰にはばかる こともなく 弥陀のみもとで のびのびと寝む」など見ると、大田南畝の狂歌に近い歌を詠む人だったことがわかる。ならばパロディに近い本歌取りも芸のうちだったわけである。

尊氏の本歌は中先代の乱の最中に関東で詠んだものと思われる。決して戦の歌には見えない。武士の歌にも見えない。しかしながらこれほどよく出来た武士の歌がまたとあろうかと思えるほどよくできた歌である。これほど武士らしい歌はない、とも思えてくる。

もののふの 矢並つくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

なるほどこの歌は実によく出来ている(正岡子規『歌詠みに与ふる書』「もののふの矢なみつくろふ」の歌のごとき鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強きことは並ぶものなくこの歌を誦すれば霰の音を聞くがごとき心地致候、等々)。この源実朝の歌(おそらくは贋作)は武士の歌の絶唱とされている。しかしいかにもわざとらしくしつらえてある。実朝がこんな歌を詠むはずがない、と私には思える。それにくらべて尊氏の歌はどれも素晴らしい。なぜみんな実朝の歌を褒めて、尊氏の歌の素晴らしさに気づかないのだろう。ほんとに不思議だ。

夜空には一点の雲もなく月が明るく輝いている。都で眺める月も、今こうして戦場で眺めている月も同じ月であるから、どこにいようと同じである。尊氏はそれほど京都に執着も愛着もなかっただろう。足利氏の頭領であるからにはどちらかと言えば北関東の足利よりも京都に住むことが多かったのだろうけれども。

アメリカでは従軍聖職者のことをチャプレンという。死刑執行に立ち会う聖職者もチャプレンと言う。死刑囚がキリスト教徒の場合は神父か牧師、ユダヤ教徒の場合はラビ、イスラム教徒の場合にはイマーム、仏教徒の場合には僧侶、などと宗教や宗派によって変わるというのが、宗教国家アメリカの古くからの習わしなのだという。いわゆる教誨師というのもまたチャプレンだが、東京裁判における死刑囚の場合には僧侶が呼ばれた。それが著者の花山信勝であった。彼は死刑囚がみな死ぬ前に仏教に帰依したと書いているのだが、それはある程度割り引いて考える必要があると思う。

死とは単に生の終わりに過ぎない。死後の救いとか魂の不滅など虚構だ。なるほど宗教には美しい側面もあると思うが、死んだ後にも天国があるだの地獄があるだの生まれ変わるだの奇跡があるだの、根も葉もない作り話をでっち上げて、人の精神的な弱さにつけこんでたぶらかすのもいい加減にしろと言いたい。

私ならば死ぬ間際に宗教に頼りたいとは思わない。できれば無神論者として死にたいと思う。死の恐怖を宗教なぞで紛らわしたくない。死ぬと決まってから悔い改めたくはない。教誨師に懺悔して死ぬなんてまっぴらごめんだが、それはまあおいといて、東条英機もまた仏教くさい辞世をいくつか詠んでいる。この「西へぞ急ぐ」も明らかに死後浄土で救われることを願ったものだ。

「これ(「今ははや」の歌)はこの前のものです」と東条英機は言っている。「この前」がいつかはわからないが、死刑判決の言い渡しは昭和23年11月12日には済んでいるのだが、12月6日にアメリカ大審院が訴願を受理しており、死刑執行は自動的に停止された。ところが20日になって訴願を却下し、これによって最終的に死刑執行が行われることになり、23日に執行された。

いずれにせよ、東条英機は12月22日16:00より前に「今ははや」を詠んでおり、他の(思いつきで詠んだ)辞世の歌よりも前に詠んでいたにもかかわらず一番最後にこの歌を取り上げたということは、この歌が自分の辞世の歌であるということを意識して、じっくり考えて用意したものだと思われるのである。いや、この歌がそんな簡単に、即興で詠めるはずがないのである。

戦前教育では南朝が正統で北朝の尊氏は逆賊とされていた。わざわざその尊氏の歌を引いて自分の辞世の歌としたことにはそれなりに深い意図があったのだろう。尊氏の立場と、謀反人、逆賊、戦犯として死んでいく自分の立場に通じるものがある。死を宣告され、歴史の皮肉、真相というもの気付いていたに違いない。

ともかくも、尊氏の本歌は仏教臭さなどない、きりっとした、武士らしい良い歌なのだが、東条英機の歌はそれを仏教くさい、抹香臭い歌に作り替えてしまった。そのことに私は不満なのであるが、しかしそれでも、これはよく出来た歌だと私は思う。和歌としてはともかく狂歌としてみれば相当優れた歌だ。これほどの歌を詠める人はそうたやすくは見いだせまい。

平淡==仏教的価値観

和歌を評するのに「平淡」「枯淡」「妖艶」などという形容詞を使うのが最近いちいち気になっている。『新古今』は妖艶だったが、年を取った定家が独撰した『新勅撰』から「平淡」になって、それを為家が『続後撰』で引き継いで、それが二条派の元になったのだ、という筋書きにしたいらしいのだけれども、そんなことをいえば俊成が年を取ってから独りで選んだ『千載集』だって枯淡だったはずだ。

定家が選んだ私撰集八代抄新勅撰をみれば定家がどのような歌を良い歌だと思っていたかということは如実にわかるのであって、選定基準が錯綜している『新古今』に比べれば定家撰の歌はどれも、定家という人を知っていれば安心して見ていられるものばかりなのである。あれっ。なんでこの歌選んだのかなという歌はほぼ無いと言って良い。『虚構の歌人 藤原定家』を書いたときも、まず私は定家がどのような歌を好むかその趣向から調べていき、定家という人の実像を把握しようと思ったのだ。そして世間一般がいわゆる定家的と思っていることがかなり偏った、かなり間違った定説によっていびつにゆがめられていると思うようになった。

思うに、室町後期になって、猿楽をむりやり高尚な古典芸能に祭り上げようとした人たちがいたのだと思う。或いは茶の湯というものをむりやり高尚な禅問答のようなものにしようとした。つまり、もともとは踊ったり歌ったり飯を食ったり茶を飲んだりするだけの民間の風俗であったものを、和歌と同じ程度に宮中で通用するありがたみのあるものにしようとする人たちがいた。俗人が藤原氏とか源氏などの姓を賜って殿上人になるようなものだ。

まあよい。和歌とても同じような過程を経て宮中儀礼になっていったのだから。本来卑俗なものを高貴なものに改変していこうというときに、おそらく主に仏教徒などが、わびさびとか、平淡とか、枯淡とか、そうした仏教由来の価値観を混入させていったのだろう。茶道に関していえば特に臨済宗が関与していた。

なんのことはない、平淡とかわびさびなんてものは、仏教思想、仏教観、特に禅宗の価値観を非宗教的な言葉に言い換えただけのものではないか。まあそうだということにしよう。そうすると定家や為家はそんなに仏教思想が強かったかといえばそんなことはあり得ない。もちろん彼らは仏教を愛好してはいたが同時に和泉式部など、仏教的とはとても言えない歌人を愛していたし、西行にしても彼は僧侶の身ではあるが仏教的価値観とは一線を画していた。禅と遠いものを妖艶などと言っているだけではないか。

室町末期、和歌を平べったく衰退させてしまった一因が禅宗の価値観であったことは否めまい。同じことは能楽にも言えると思う。能楽はもともともっと面白くエンターテインメントなものだったに違いない。ところが禅的価値観にがんじがらめにされてしまってあんな無味乾燥なものになってしまったのではないのか。

別に禅がダメだとは言わない。禅は禅だ。好きにすれば良い。そして和歌と根本的に相容れない部分があるのは事実だと思う。

岩波文庫版『新勅撰集』解題にも

新勅撰集には、しみじみと優しい述懐歌、格調の整った典雅な晴れの歌、新古今的な幻想的な歌、万葉集や実朝の作にみられるたけ高い歌と、さまざまな傾向の歌が混じており、決して単一な色調ではない

と言っていて、そんなことはそもそも、定家の趣味から言えば当たり前のことであって、この解題を書いた人もちゃんと一通り調べてみてわかっているはずであるのに、なぜかしら、全体的な論調は、新勅撰は定家が年取ってから選んだ平淡な歌集、という方向へ、むりやり引っ張られていて、この解題を読んだ人は、はあつまり、新勅撰は新古今よりはつまらないんだね、という感想しか持たないと思うのだ。

こういう現代歌学における定説、刷り込みというものを一つ一つ正していかなくてはなるまい。

私は、和歌が平淡で無味乾燥になっていったのは日本人の精神が仏教に蝕まれ、中世以降厭世的悲観的価値観が蔓延したからだと思う。定家や為家が平淡美を理想としその理念を説いたというのは濡れ衣だ。むろん俊成は自らその責めを負わなくてはならないが。

平淡美

藤原為家は「平淡美」を理想としたとか「平淡美」を主張したとか、「平淡美」の理念を説き、などといろんなところに書いてあって、その根拠となるのが彼が書いた歌論書『詠歌一体(八雲口伝)』であるというのだが、この『八雲口伝』を読んでもどこにも「平淡」が良いなどとは書いてないように思える。たとえば『日本歌学大系 第三卷』の解題、これはおそらく編者の佐佐木信綱が書いたのだと思うが、

平淡美を理想とした彼の態度もよくあらはれて

とあるのだが、これは佐佐木信綱がそう思ったというだけではなかろうか。そして佐佐木信綱がそう書いたことを孫引きしてみんなが為家は平淡美なんだと思い込んでしまったのではなかろうか。

『八雲口伝』だが、まず「題をよくよく心得解くべきこと」とあり、題詠するときには与えられた題をおろそかにしてはならんというようなことが書いてある。次に「歌も折りによりて詠むべきさまあるべきこと」として、百首の歌を詠むときには中には地歌(平凡な歌)が混じっても良いが、二十首、三十首を詠むときには(ちゃんと精選して)良い歌だけを詠むべきだ、歌合では晴れの歌だけを詠め、などと書いてある。

三つ目は「歌の姿の事」。「詞なだらかに言ひくだし、きよげなるは姿の良きなり。」同じ風情でも悪く続けては台無しになる。同じ詞でも「聞き良く言ひ続けなす」のが上手、聞きにくい詞は三十一文字をけがす。

春立つと 言ふばかりにや みよしのの 山もかすみて 今朝は見ゆらむ

ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 船をしぞ思ふ

すべて優れたる歌は面白き所無き由(と『九品十体』で)申すめり。

『九品十体』は何のことかよくわからないが、藤原清輔あたりだろうか。ここで優れた歌と言っているのは上品な歌、下品ではない歌という意味だ。「春立つと」は壬生忠岑の歌。「ほのぼのと」は『古今』詠み人知らずの歌。為家は下品な歌の例として

世の中の 憂きたびごとに 身を投げば 深き谷こそ あさくなりなめ

を挙げている。この例の対比から彼が何を上品、何を下品と言っているかはわかるだろう。下品とは要するに狂歌のような歌、俳諧歌、戯れ歌という意味だ。面白くても戯れ歌ではダメだよと言っているだけのことだ。ちなみに中品の歌として

春来ぬと 人は言へども うぐひすの 鳴かぬかぎりは あらじとぞ思ふ

を挙げている。為家が上品として挙げた例は確かに平淡な歌と言って良いのだけれど、思うに佐佐木信綱は為家を平淡で単調でつまらない歌を新古今以降に流行らせた張本人だと決めつけているだけのように見えるのだ。まして私には彼が平淡を理想としていた、とはとても思えない。それは彼が詠んだ歌を見ればわかることだ。そして、佐佐木信綱だけでなくありとあらゆる人が「平淡美」「平淡美」と口をそろえて為家を評するのは滑稽というしかない。為家の歌論に「平淡」を言及した箇所が無いとはいわないが、彼は必ずしもそこばかりを強調したわけではない。もっといろんなことを言っている。

(み)(しほ)(なが)(ひ)(ま)も なかりけり (うら)(みなと)五月雨(さみだれ)(ころ)

早苗(さなへ)(と)(しづ)小山田 (をやまだ)(ふもと)まで (くも)(お)(た)五月雨(さみだれ)(ころ)

為家は非常に用心深く技巧を凝らした跡を残さぬようにしている。それゆえ一見平淡にも見える。しかしそこにあるのは絵画のような美麗な世界であり、動きがあって、匂いや温度や風の流れさえも感じられて、自然描写ですら、宮殿に飾られた風景画のようにゴージャスで、絢爛で、妖艶と言っても良いくらいだ。定家が選んだ『新勅撰集』が平淡だったからそれにならって為家も平淡なのだという主張もまったく見当違いだと思う。

平淡美とはあまり為家には当てはまっていないと思う。

定家の『新勅撰集』や為家以降の二条派など、特に三条西実隆あたりにはふさわしい形容かもしれないが、為家は違うだろう。もっとほかに適切な評価のされ方があると思う。後世の二条派の悪いところを全部為家のせいにしている、為家は濡れ衣を着せられている、そんなふうにも思える。

家康の和歌

井上宗雄『中世歌壇史の研究 室町後期』、明治書院改訂新版とあるがところどころに誤字など残る。あるいは改訂後の加筆か。近衛信尹の「姉前子」とあるが、これは妹でなくてはならない。前子は信尹より10才年下のはずだ。

「近衛殿、様狂気に御成候、竜山様、御子様の事也」「宮中、異形にて御注進也」「以外之儀間、九州薩摩へ御下被成」

などと書かれていて笑う。

「近衛殿は海上にて生害了と」「実否は知らず」

とはつまり海上で自殺したと言われているが真否はわからんなどとも書かれている。

信尹の側近が作ったという『犬枕』という仮名草子があるそうだ。『犬之草紙』というものもあるらしい。

p.657 天正16年8月15日「衆妙集によると家康のは幽斎の代作であった。」p.673「その晴れの歌の一首が幽斎の代作であることは分かっている」

などと書いているのだが、根拠はあるのだろうか。『衆妙集』は細川幽斎の歌集だが、いったいどこにそんな話が載っているのだろう。たしかに『衆妙集』には「人々にかはりて」詠んだ歌というものがいくつも載っているが、家康の歌と同じものはないように思う。

源頼光

武士はいつから和歌を詠んだかといえば、武士が現れたときからすでに詠んでいたし、以後もずっと詠んでいたとしか言いようがない。武士は歌を詠まぬというのは執拗な藤原氏による印象操作か。あるいは、はなはだしい文芸音痴だった徳川家康と、朱子学を偏重した武士階級自体が生み出した偏見と誤解であろう。さらに勘ぐって言えば、徳川時代260年間、公家社会の支配と権威付けを目論んだ摂家が、和歌にまったく無理解な家康を利用して幕府に禁中並公家諸法度を書かせて、和歌は堂上家が権威を独占しているのだと徹底的に宣伝・洗脳したせいだと思う。

ちょっと調べればすぐわかることなのになぜ現代人もころりとだまされているのだろうか。

清和天皇の皇子、貞純親王の子が源氏を賜り源経基となる。彼が清和源氏の祖。この源経基の歌が『拾遺集』に二つ残っている。

あはれとし 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに

雲井なる 人を遥かに 思ふには 我が心さへ 空にこそなれ

源経基の子が満仲。やはり『拾遺集』に歌が残っている。

清原元輔
いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き別れを

返し 源満仲
君はよし 行末遠し とまる身の 待つほどいかが あらむとすらむ

満仲の子の、源頼光。『拾遺集』

女のもとにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ

『玄々集』、または『金葉集』三奏本にも出る。

かたらひける人のつれなくはべりければ、さすがにいひもはなたざりけるにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋に かけたるやなぞ

いろいろと話しかけてもつれない女がいて、心にかかったまま、うちあけることができなかったので、歌を詠んで送った。なかなか告白できずにあなたに心をかけているのはなぜでしょう。「信濃なる 木曽路の橋に」は「かける」に懸かる序詞で特に意味は無い。「橋に架けたる」はおかしいだろう。「橋の架けたる」ならまだわかる。

『後拾遺集』

をんなをかたらはむとしてめのとのもとにつかはしける
源頼光朝臣
かくなむと 海人のいさり火 ほのめかせ 磯べの波の をりもよからば
かへし 源頼家朝臣母
おきつなみ うちいでむことぞ つつましき 思ひよるべき みぎはならねば

頼家というのは頼朝の長男ではなくて、ここでは頼光の次男(実に紛らわしい!)。であるから、頼家母というのは頼光の妻(の一人)のはずである。その女性は平惟仲の娘であるという。頼家母の乳母に歌を送ったら頼家母本人が返事をした、ということか?それとも頼家母が乳母をしている別の女性がいたのか?(いやその可能性は低いだろういくらなんでも)「をんな」というからにはすでに子を持つ女性、その子を育てている乳母、ということだろう。よくわからん。

「かくなむ」が口語っぽい。「もうそろそろ良いんじゃないか。私の本心はこうですよとそれとなく打ち明けてくれ。」

『金葉集』二度本

源頼光が但馬守にてありける時、たちのまへにけたがはといふかはのある、かみよりふねのくだりけるをしとみあくるさぶらひしてとはせければ、たでと申す物をかりてまかるなりといふをききて、くちずさみにいひける
源頼光朝臣
たでかるふねの すぐるなりけり
これを連歌にききなして 相模母
あさまだき からろのおとの きこゆるは

相模は頼光の養女であった。つまり相模母は頼光の愛人であったと思われる。この相模母というのは能登守慶滋保章の娘だそうだから、頼家母とは別人ということになる。まあ、シングルマザーの愛人がいたりその連れ子がいたり、愛人に自分の子を産ませたり。いろいろあったわけだな。源義朝なんかもそんな感じだし。

相模の歌がうまいのも頼光の影響かもしれん。但馬国府にいたときの歌とすれば「けたがは」とは今の円山川のことか。

頼光の子、頼国の歌は残ってないようだが、頼国の子、源頼綱は明らかに歌人である。頼綱の子、源仲政もまた歌人である。仲政の子、頼政は言わずとしれた源三位頼政、有名な歌人である。清和源氏は、疑いようもなく、最初からずっと歌人であった。いきなり頼朝や実朝、頼政が歌を読み始めたわけではないのである。

清和源氏の子孫を称する徳川家康は、まったく和歌を詠まなかった。家康が詠んだとされる歌はあるものの、それらが本人が詠んだものであるという証拠は何もない。

桓武平氏だと平忠盛が最初か?

うけらが花

加藤千蔭「うけらが花」

貞直卿より季鷹県主へ消息におのれがよみ歌のうち二首殊にめでたまへるよしにてみづから書きてまゐらせよとありければ書きてまゐらすとて
武蔵野や 花かずならぬ うけらさへ 摘まるる世にも 逢ひにけるかな

* 富小路貞直。千蔭の弟子。千蔭は江戸の人のはずだが。
* 加茂季鷹。京都の国学者、上賀茂神社の神官。

これが歌集の名の由来だと思われるが、 自分を「うけら」にたとえて謙遜しているのはわかるのだが、
なぜ「うけら」? さまざまな野の花の一つということか。虫のオケラにかけているのかな?

本歌取りで、万葉集

恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ

あるいは

我が背子を あどかも言はむ 武蔵野の うけらが花の 時なきものを

または

安齊可潟 潮干のゆたに 思へらば うけらが花の 色に出めやも

「うけら」。キク科の多年草「おけら」のこと。

村岡典嗣『本居宣長』

村岡典嗣『本居宣長』

自分の門弟たちには、どうも歌文の道を好む人が多く、自分の学問の本旨である、古学をする人のないのは、嘆かはしいことである。それゆえに御身も、先にも言つた様に、神代の道を明らめることを専らとして、歌文といふごとき末のことに心をとめるな

門弟の服部中庸という者に、宣長が死の直前に戒めたことばだというが、とても信じられない。宣長が「歌文といふごとき末のこと」などという認識を持っていたはずがない。これはおそらく服部中庸が平田篤胤とともに謀ったことか、或いは篤胤が服部中庸から聞いたということにして勝手に広めた説ではなかろうか。

とくに平田篤胤は信用できない。

『うひ山ぶみ』を見るだけで明らかなように、宣長は「歌文」について、特に「歌学」についてそうとう細かなことを記している。歌学について書いた分量と他の記述の量を比べてみよ。

いずれにしても、こういう他人の逸話というのは信じるに値しない。宣長は、自分の考えはすべて著書にして遺した人で、門人に何か秘伝のようなことを遺す人ではない。また、宣長の書いたものと、門人が伝えることに齟齬があるとすれば、それは門人が間違っているか、嘘をついているのだ。宣長はそうやっていろんな人に勝手に解釈され利用される人だった。

雲居に紛ふ沖つ白波

藤原忠通

わたの原 漕ぎ出てみれば 久方の 雲居に紛ふ 沖つ白波

「くもゐにまがふ」だが、これ自体は珍しいのだが、検索してみると「かすみにまがふ」という用例がある。「花のためしにまがふ白雪」などというものもある。「しらがにまがふ梅の花」というのもある。

「かすみにまがふ」とは「霞と見間違う」という意味ではなく、「かすみに紛れてよく見えない」という意味だ。

かざしては 白髪にまがふ 梅の花 今はいづれを 抜かむとすらむ

こちらは白髪と梅の花が紛らわしいという意味だ。

いずれにせよ「雲居に紛ふ沖つ白波」とは雲か波か見分けがつかない沖の白波という意味だろう。

詞花集には関白前太政大臣という名で二首続けて載る。

左京大夫顕輔あふみのかみに侍りける時、とほきこほり(遠き郡)にまかれりけるにたよりにつけていひつかはしける

おもひかね そなたのそらを ながむれば ただやまのはに かかるしら雲

藤原顕輔は詞花集の選者。

新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給けるに

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ

新院とは詞花集の勅撰を命じた崇徳院のことで、位におはしましし時だから、在位中の 1123年から 1142年の間に詠まれたことになる。この時期まだ一院である鳥羽院が存命で、新院である崇徳院は完全に鳥羽院の院政の下にあったわけだ。ところで「雲居に紛ふ沖つ白波」とは、保元の乱(1156)で敵味方に分かれて戦った弟の藤原頼長のことだという説があるようだ。帝位を伺う佞臣に気をつけてくださいと、忠通が崇徳院に注進したというのだが、まあ時期的にあり得んだろそれは。崇徳天皇在位中、頼長は3歳から22歳の間。頼長が周囲と対立して悪左府と呼ばれるようになるのは、1151年以後。左府(左大臣)となったのでさえ 1149年。藤長者になったのは1150年。

忠通はこのときすでに摂政も関白も太政大臣も歴任済み。順調に出世していて特に政敵がいるようにも見えない。

百人一首をおかしなふうに解釈してるやつは一つ一つつぶしていかにゃならん。そうやって、なんら根拠のないこじつけをありがたがる風潮がある。室町時代の古今伝授と何も違わない。現代人は室町時代・江戸時代の無知蒙昧を笑えない。

「沖つ白波」の沖は隠岐であり、後鳥羽院を鎮魂しているという説。まあ、無視してよかろう。

百人一首の並びで、前と後が、忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)であるという説。これもどうでも良い話。ていうか基俊はただの歌人だと思うのだが。なんなんだろうか。忠通とはむしろ近かったはずだ。