源頼光

武士はいつから和歌を詠んだかといえば、武士が現れたときからすでに詠んでいたし、以後もずっと詠んでいたとしか言いようがない。武士は歌を詠まぬというのは執拗な藤原氏による印象操作か。あるいは、はなはだしい文芸音痴だった徳川家康と、朱子学を偏重した武士階級自体が生み出した偏見と誤解であろう。さらに勘ぐって言えば、徳川時代260年間、公家社会の支配と権威付けを目論んだ摂家が、和歌にまったく無理解な家康を利用して幕府に禁中並公家諸法度を書かせて、和歌は堂上家が権威を独占しているのだと徹底的に宣伝・洗脳したせいだと思う。

ちょっと調べればすぐわかることなのになぜ現代人もころりとだまされているのだろうか。

清和天皇の皇子、貞純親王の子が源氏を賜り源経基となる。彼が清和源氏の祖。この源経基の歌が『拾遺集』に二つ残っている。

あはれとし 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに

雲井なる 人を遥かに 思ふには 我が心さへ 空にこそなれ

源経基の子が満仲。やはり『拾遺集』に歌が残っている。

清原元輔
いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き別れを

返し 源満仲
君はよし 行末遠し とまる身の 待つほどいかが あらむとすらむ

満仲の子の、源頼光。『拾遺集』

女のもとにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ

『玄々集』、または『金葉集』三奏本にも出る。

かたらひける人のつれなくはべりければ、さすがにいひもはなたざりけるにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋に かけたるやなぞ

いろいろと話しかけてもつれない女がいて、心にかかったまま、うちあけることができなかったので、歌を詠んで送った。なかなか告白できずにあなたに心をかけているのはなぜでしょう。「信濃なる 木曽路の橋に」は「かける」に懸かる序詞で特に意味は無い。「橋に架けたる」はおかしいだろう。「橋の架けたる」ならまだわかる。

『後拾遺集』

をんなをかたらはむとしてめのとのもとにつかはしける
源頼光朝臣
かくなむと 海人のいさり火 ほのめかせ 磯べの波の をりもよからば
かへし 源頼家朝臣母
おきつなみ うちいでむことぞ つつましき 思ひよるべき みぎはならねば

頼家というのは頼朝の長男ではなくて、ここでは頼光の次男(実に紛らわしい!)。であるから、頼家母というのは頼光の妻(の一人)のはずである。その女性は平惟仲の娘であるという。頼家母の乳母に歌を送ったら頼家母本人が返事をした、ということか?それとも頼家母が乳母をしている別の女性がいたのか?(いやその可能性は低いだろういくらなんでも)「をんな」というからにはすでに子を持つ女性、その子を育てている乳母、ということだろう。よくわからん。

「かくなむ」が口語っぽい。「もうそろそろ良いんじゃないか。私の本心はこうですよとそれとなく打ち明けてくれ。」

『金葉集』二度本

源頼光が但馬守にてありける時、たちのまへにけたがはといふかはのある、かみよりふねのくだりけるをしとみあくるさぶらひしてとはせければ、たでと申す物をかりてまかるなりといふをききて、くちずさみにいひける
源頼光朝臣
たでかるふねの すぐるなりけり
これを連歌にききなして 相模母
あさまだき からろのおとの きこゆるは

相模は頼光の養女であった。つまり相模母は頼光の愛人であったと思われる。この相模母というのは能登守慶滋保章の娘だそうだから、頼家母とは別人ということになる。まあ、シングルマザーの愛人がいたりその連れ子がいたり、愛人に自分の子を産ませたり。いろいろあったわけだな。源義朝なんかもそんな感じだし。

相模の歌がうまいのも頼光の影響かもしれん。但馬国府にいたときの歌とすれば「けたがは」とは今の円山川のことか。

頼光の子、頼国の歌は残ってないようだが、頼国の子、源頼綱は明らかに歌人である。頼綱の子、源仲政もまた歌人である。仲政の子、頼政は言わずとしれた源三位頼政、有名な歌人である。清和源氏は、疑いようもなく、最初からずっと歌人であった。いきなり頼朝や実朝、頼政が歌を読み始めたわけではないのである。

清和源氏の子孫を称する徳川家康は、まったく和歌を詠まなかった。家康が詠んだとされる歌はあるものの、それらが本人が詠んだものであるという証拠は何もない。

桓武平氏だと平忠盛が最初か?

うけらが花

加藤千蔭「うけらが花」

貞直卿より季鷹県主へ消息におのれがよみ歌のうち二首殊にめでたまへるよしにてみづから書きてまゐらせよとありければ書きてまゐらすとて
武蔵野や 花かずならぬ うけらさへ 摘まるる世にも 逢ひにけるかな

* 富小路貞直。千蔭の弟子。千蔭は江戸の人のはずだが。
* 加茂季鷹。京都の国学者、上賀茂神社の神官。

これが歌集の名の由来だと思われるが、 自分を「うけら」にたとえて謙遜しているのはわかるのだが、
なぜ「うけら」? さまざまな野の花の一つということか。虫のオケラにかけているのかな?

本歌取りで、万葉集

恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ

あるいは

我が背子を あどかも言はむ 武蔵野の うけらが花の 時なきものを

または

安齊可潟 潮干のゆたに 思へらば うけらが花の 色に出めやも

「うけら」。キク科の多年草「おけら」のこと。

村岡典嗣『本居宣長』

村岡典嗣『本居宣長』

自分の門弟たちには、どうも歌文の道を好む人が多く、自分の学問の本旨である、古学をする人のないのは、嘆かはしいことである。それゆえに御身も、先にも言つた様に、神代の道を明らめることを専らとして、歌文といふごとき末のことに心をとめるな

門弟の服部中庸という者に、宣長が死の直前に戒めたことばだというが、とても信じられない。宣長が「歌文といふごとき末のこと」などという認識を持っていたはずがない。これはおそらく服部中庸が平田篤胤とともに謀ったことか、或いは篤胤が服部中庸から聞いたということにして勝手に広めた説ではなかろうか。

とくに平田篤胤は信用できない。

『うひ山ぶみ』を見るだけで明らかなように、宣長は「歌文」について、特に「歌学」についてそうとう細かなことを記している。歌学について書いた分量と他の記述の量を比べてみよ。

いずれにしても、こういう他人の逸話というのは信じるに値しない。宣長は、自分の考えはすべて著書にして遺した人で、門人に何か秘伝のようなことを遺す人ではない。また、宣長の書いたものと、門人が伝えることに齟齬があるとすれば、それは門人が間違っているか、嘘をついているのだ。宣長はそうやっていろんな人に勝手に解釈され利用される人だった。

雲居に紛ふ沖つ白波

藤原忠通

わたの原 漕ぎ出てみれば 久方の 雲居に紛ふ 沖つ白波

「くもゐにまがふ」だが、これ自体は珍しいのだが、検索してみると「かすみにまがふ」という用例がある。「花のためしにまがふ白雪」などというものもある。「しらがにまがふ梅の花」というのもある。

「かすみにまがふ」とは「霞と見間違う」という意味ではなく、「かすみに紛れてよく見えない」という意味だ。

かざしては 白髪にまがふ 梅の花 今はいづれを 抜かむとすらむ

こちらは白髪と梅の花が紛らわしいという意味だ。

いずれにせよ「雲居に紛ふ沖つ白波」とは雲か波か見分けがつかない沖の白波という意味だろう。

詞花集には関白前太政大臣という名で二首続けて載る。

左京大夫顕輔あふみのかみに侍りける時、とほきこほり(遠き郡)にまかれりけるにたよりにつけていひつかはしける

おもひかね そなたのそらを ながむれば ただやまのはに かかるしら雲

藤原顕輔は詞花集の選者。

新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給けるに

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ

新院とは詞花集の勅撰を命じた崇徳院のことで、位におはしましし時だから、在位中の 1123年から 1142年の間に詠まれたことになる。この時期まだ一院である鳥羽院が存命で、新院である崇徳院は完全に鳥羽院の院政の下にあったわけだ。ところで「雲居に紛ふ沖つ白波」とは、保元の乱(1156)で敵味方に分かれて戦った弟の藤原頼長のことだという説があるようだ。帝位を伺う佞臣に気をつけてくださいと、忠通が崇徳院に注進したというのだが、まあ時期的にあり得んだろそれは。崇徳天皇在位中、頼長は3歳から22歳の間。頼長が周囲と対立して悪左府と呼ばれるようになるのは、1151年以後。左府(左大臣)となったのでさえ 1149年。藤長者になったのは1150年。

忠通はこのときすでに摂政も関白も太政大臣も歴任済み。順調に出世していて特に政敵がいるようにも見えない。

百人一首をおかしなふうに解釈してるやつは一つ一つつぶしていかにゃならん。そうやって、なんら根拠のないこじつけをありがたがる風潮がある。室町時代の古今伝授と何も違わない。現代人は室町時代・江戸時代の無知蒙昧を笑えない。

「沖つ白波」の沖は隠岐であり、後鳥羽院を鎮魂しているという説。まあ、無視してよかろう。

百人一首の並びで、前と後が、忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)であるという説。これもどうでも良い話。ていうか基俊はただの歌人だと思うのだが。なんなんだろうか。忠通とはむしろ近かったはずだ。

酔ひてかも寝む

実はこないだ久しぶりに中編くらいの小説を書いて新人賞に応募したのだが、これは落ちてもKDPで出す予定がない。新人賞が取れれば多少恥をかいてもよいが、そうでないのなら人目にさらしたくはない、そういうものだからだ。

私の場合あまりネタを使い回すことはなく、一つのネタを使うとネタが貯まるまで時間がかかる。通常複数のネタを組み合わせて一つの話を作る。まあ、二年くらいあければなんらかのネタはたまってくるから、今後も完全オリジナルな小説は書けなくもなさそうな気がする。しかし余り年を食うともう頭がぼけてくるから書かないほうが良いと思う。耄碌した老人を、たくさん見てきた。彼らも60歳くらいまでならまあ普通だが、それからだんだんあやしげになる。たぶん自分もそうなるだろうと思うから、早めに書いておかなきゃならんなと思う。

私の場合、積極的にネタを拾いに行くことはできるかもしれん。そう、根は非常に臆病者なので、天涯孤独ならできるかもしれんが、いろんなしがらみで動けない。あと病気持ちなんで怖い。旅行いくのも最近はおっくうになってしまった。もっと若いうちにいろいろ旅行しておけばよかった。熟年とか定年後によくみんな旅行にいこうと思うなって思う。

小説以外にもいろいろ書きたいものはあり、書き始めて、同時並行で下調べをしていて、
ものすごく大変だってことがわかって書けなくなる。いろんなものが途中で放ってある。
これがまあ、必ず売れるとわかっていればやるんだろうが、これまで売れたためしがない。

ツイッターは便利だが、危険でもある。ブログのほうが安全だなと思う。

なぞかかる 愚かなる世に生まれ来て 今日また酒に 酔ひてかも寝む

酔ってこういう感じの歌を詠んでそのまんまツイッターに書いて、翌朝忘れた頃にまた見て、びっくりするということがあった。そういう危険な歌の詠み方をしてはいかんなと思う。いったん紙とペンでメモるべきだ。

私はもともと理系だから理系の空気というものを身にまとっている。文系の人は文系の空気を、芸術系の人は芸術系の空気をまとっている。同族であるかどうかはその空気でわかる。理系の人間が文芸出版の世界へ入っていくのはその空気を身にまとっていないのでかなり難しいと思う。その、私から見ればなれ合いというか既得権益のようにしか思えないその空気をかき乱してやりたい気になる。そしてますます入り込めずにいる。だがまあ、文系の人間が文系の文芸を書くのは当たり前のことであり、そこで世界が閉じていて面白いわけがない。その世界の高度な専門性をもっていて敬服する人もいるのだが、単に閉じこもっているだけとしか思えない人もいる。

或老人之歎歌一首並反歌四首

我が書きし ふみのかずかず 我が詠みし 歌のかずかず うつせみの うつし人にて あらむ間に 残しおかむとたくめども ときのまにまに いそとせは むなしくすぎて 身とともに 心も老いて あたらしき 思ひも出で来ず めづらしき ものも見出でず 名をのこす 人はさはにあれ かなしくも 我はさにあらで なにはえの うもれぎとなり 後の世の 人にわすられ いまさらに 何をか残さむ ことさらに 何をかうたはむ このうつし世に

反歌

うつし世に 見るべきものは すべて見つ 詠むべき歌も 詠みや果てつる

うつし世の 人はたのまじ ただ神と のちの人にぞ 歌は詠むべき

あきらけく をさまりし世の おほ君に 学びしならひ 忘るべしやは

しぬまでの よはひにかへて のこさまし わがかきしふみ わがよみしうた

近藤勇の漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき / 悠悠として官路の浮沈に仕ふ / 此の身に更に苦有りて辛在らんと / 飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し / 自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり / なほ一般の優劣の処あり / 鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。
「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。
「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士 / 一志を手に伝へ洛陽に入る / 昼夜の兵談何事かなさん / 攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと / 今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと / 回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん / 来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。かるがるしく和親を結ぶな。「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり / 之を取りて失無ければ果して英雄 / 英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも / 赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。すべての行いは、孝と忠に依る。これらを守って過失がない者が英雄である。たとえ私は英雄ではないとしても、真心をもって外敵を払いたい。「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん / 喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん / 果して英雄の心上の事を識らば / 英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる / 顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る / 一片の丹衷よく節に殉ず / 雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。雎陽は文天祥の「正気歌」による。安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん / 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 / 快く受けん電光三尺の剣 / 只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、頼山陽が見たらきっと感心しただろう。幕末明治の詩人の中でも一流。昭和の中島敦などは遠く及ばず、永井荷風もかなわないのではないか。

詠歌一体2

詠歌一体の前半部分は単に題詠の作法のようなことをうだうだ述べているだけである。藤原清輔が「和歌一字抄」という、一字題の詠み方について書いているのに対して、「池水半氷」のような長い具体的な題をどう詠むか。題のすべてを詠み込むのでなく全部あるいは一部を連想させるようにするとか。初句や上三句にすべての題を詠み込むのは良くないとか。そんな技巧上の話をしていて、為家の趣味や嗜好とは直接関係ないように思えるが、

からにしき 秋のかたみを たちかへて 春はかすみの ころもでのもり

これは「すべて歌がらもこひねがはず、衣手の森をしいださんと作りたる歌なり」と手厳しい。誰の歌かと調べてみると、明日香井雅経。父定家の親友である(雅経は一時鎌倉に住んだので、源頼家、実朝とも親しい。実朝と定家に交流があるのも雅経のおかげである)。定家と雅経は歌風も近い。どちらかと言えばなんかもやっとした、作った歌を詠む人である。これはやはり遠回しに定家を批判していると言えないだろうか。これに対して次の二首

春がすみ かすみていにし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に

これは古今集に出る詠み人知らず。

ほととぎす 鳴く五月雨に 植ゑし田を 雁がね寒み 秋ぞ暮れぬる

こちらは新古今に載る善滋為政の歌。これら二つは雅経の歌と同様に春と秋を一つの歌に詠み込んでいるが、雅経の歌ほどはわざとらしくないから良い、などと言っている。まあそう言われればそうかもしれない。

善滋為政はよくわからん人だが、幸田露伴連環記によれば、善滋は「かも」と訓み、文章博士・陰陽師の賀茂氏で、父賀茂忠行はおよそ醍醐・村上天皇の頃の人、兄慶滋保胤はこれも名字は「かも」と訓むらしく、道長の頃の人。為政の歌は拾遺集に初出だから、やはり道長よりかすこし前の人ではなかろうか。このあたりの時代背景を調べ出すと切りがないな。

中宮の内におはしましける時、月のあかき夜うたよみ侍りける 善滋為政

九重の 内だにあかき 月影に あれたるやどを 思ひこそやれ

宮中ですらこんなに月が明るい夜は、粗末な我が家などはさらに明かりが漏って明るいですよ、というかなりふざけた歌。

「泉」という題で「木の下水」、鹿を「すがる」、草を「さいたつま」、萩を「鹿鳴草」、蛍を「夏虫」などとわざと変名で詠むのは良くないと。なるほどまったくそのとおり。

名所の地名を詠み込むときには必ず有名な地名にしなさい、ただし、旅で実景を詠む場合にはそれほどこだわる必要は無い。これも素直に同意できる。

百首など定数の歌合で最初のとっかかりとなる歌を「地歌」というらしい。歌合の歌はその場の即興で詠むべきものであり、たとえ秀歌であってもあらかじめ用意しておいてはいけない(どうしても場の雰囲気とは違う内容になってしまうからだろう)が、地歌だけはその性格上、先に詠んでおかなくてはならない。後拾遺の能因の歌

ほととぎす 来鳴かぬよひの しるからば 寝る夜も一夜 あらましものを

このようなものが地歌だという。確かに歌合の即興というよりは巧んだ歌な感じだ。

やはり為家はわざとらしく作った歌が嫌いである。雅経や定家の歌風を嫌っていたはずである。そして小倉百人一首は定家の原型を為家が完成させたというのもなんか違う気がしてきた。小倉百人一首はあきらかに為家の趣味ではない(かといって定家の趣味でもない)。

為家が選んだ「続後撰和歌集」「続古今和歌集」の傾向を見ればもっとはっきりしてくるはずだ。それでなんとなくだが、小倉百人一首は定家・為家の二代で完成したのではなく、もう少し後の世に、つまり為氏・為世の時代に、なんとなくもやっと成立したのではないかと言う気がする。

中世歌論集

最近、岩波文庫「中世歌論集」というのが復刻されたので、新宿アルコットのジュンク堂が閉店するとき買ったのだが、最初に出てくる俊成の古来風体抄、長くて何言ってるのかわかんない。定家の毎月抄、これは短いのだが、やはり何言ってるのかよくわかんない。頭にすっと入っていかない。後鳥羽院御口伝、すげえわかりやすい。なんでみんな後鳥羽院みたいに言いたいことをすかっと言わないのかな。

為兼和歌抄。期待に胸ときめかせて読んでみたが、うーん、さっぱりわかんない。やまと歌も漢詩も同じだとか、理屈は仏法と共通だとか、なんか観念的なことばかり書いてあって、で結局何が言いたいのかよくわからんのだ。天照大神、八幡、賀茂、本地垂迹、仏、菩薩、権現、仁徳、聖武、聖徳太子、みなよろしなどと書いてある。で、最初に挙げられている例がよりによって釈教歌。もちろん、釈教歌がすばらしいと言ってるのではない。和歌も漢詩も仏教もその本質はみな同じだと言いたいのだ。治世にも道徳にも幸福にも役立つなどという。要するに万病に効く御利益のある薬か、八百万の神々みなよろしという論法。なんという大風呂敷。なんといういんちき(笑)。同じことは俊成も言っているから、こういう論法が当時の流行だったのだろう。

で、同語反復、或いは「先達のよまぬ詞」を詠む例として俊成、定家、西行、慈鎮などをあげ、俊成の

見てもまた思へば夢ぞあはれなる憂き世ばかりの迷ひと思へば

今日くれぬ夏の暦を巻き返しなほ春ぞとも思ひなさばや

を挙げている。一つ目の例は「思へば」を二度使っていて、二つ目は「暦」が先達よまぬ詞なのだろう。それはそうと正しくは「今日暮れぬる」ではなかろうか。終止形で一旦切れてるともよめるが。
ああそうか、暮れたのは春なんだ。だから終止形で切れてて良いわけだが。

家隆

あふとみてことぞともなくあけぬなりはかなの夢のわすれがたみや

これも「なし」が同語反復となっているが新古今に採られた、と言っている。他にもいろいろ書いているのだが、よくわからん。最後に

浅香山かげさへみゆる山の井のあさくは人をおもふものかは(あさき心をわれ思はなくに)

の「さへ」が余計だという人がいるが、いややはり必要だ、などと書いているのだが、やはり理屈がよくわからない。作者とされる采女は人妻だから人前に出るのがはばかれてうんぬん。なんじゃそりゃ。

それはそうとこの歌、浅香山の姿さえ映るほど浅い井戸と解釈する人もいるんだな。それから、姿が映ってみえるくらいにきれいな山の井と解釈する人もいる。

思うに明治神宮に清正井というのがあるが、あれは井戸というよりはわき水だ。わき水だから水面はごく浅い。浅くて水があとからあとから湧き出している。だから水は清い。「ゐ」というのは、もともと水くみ場という程度の意味であり、泉にも掘った井戸にも使われていたようだ。いずれにせよ、浅い井戸だから水鏡としても使われているのであろうし、そんな浅い井戸のような浅い心で思っているのではない、浅香山は単なる「アサ」のリフレインと山の井の山のイメージ、と解釈すれば良いだけだと思うのだが、どうも歌論というのは、そういう「ひさかたの」とか「あしびきの」とか「かげさへみゆる」だとか、そういうどうでも良い語句の解釈にああだこうだとこだわるところがある。

岩波古語辞典によれば「あしひきの」とは「足がひきつる」とか「足がなえる」というような意味ではないかという。もしかすると「びっこ」も同語源かもしれんな。「びっこをひく」とも言うし。山を上り下りすると足が疲れるからね。