やくざ映画

他人よりも不満が多い性格な気がする。
組織の構造やバスの路線、その他もろもろに、ああすれば良いのにといつもぶつぶつ言ってる気がする。
不利益を蒙ることに敏感なことと不利益をよけいに蒙ることとは違うのだが、多少の不利益を蒙っても気づかずにいる方が幸せになれるような気もする。

かつて情報の流通ということが不便だった頃は、どこか不慣れなところに旅行したときは現地のしきたり通り、唯々諾々とされるがままに接待されれば良く、またそれよりも効率よい接待というものはなかっただろう。
しかし東京のような都会ではたとえ都会暮らしといえど個人が知り得る情報は限られていて、相対的に歓楽の物量は大きい。
となるとホスト側があれこれお膳立てするよりはゲスト側が自分でこうしたいと申し出て、ホストはその手助けをする程度にとどめた方がずっとゲスト側の満足度は高いだろう。
このように都会と田舎では主客の役割分担というものが根本的に異なっている。
まして田舎といえど自分が生まれ育った土地であれば、自分で好き勝手動き回った方がおもしろおかしいに決まっているのだが、田舎者はどうもよけいなことを押しつけようとする。
その理由がまた「ゲストの満足度を最大化する」ためではなく、「ゲストを迎えるホストが地域社会からどれだけ立派に接待したか評価される」ためにあるのだからあきれかえる。
このようにプロトコルが確立して本質を忘れてしまい、さらにそのプロトコルを実情に合わせて修正していくのが不可能なのが地方社会の特徴と言えるかもしれん。

それはそうと国内線の液晶プロジェクターが貧相なのにはあきれる。
こういう「飛行機一式」みたいな買い方をするから、その一部の性能がどんどん進んでもプロジェクターだけが暗くぼやけてずれていたりする。
ていうかプラズマディスプレイくらい買えよと。
ていうか機材変更した場合の電気系統の安全性のテストなどに膨大な費用と時間がかかるのかもしれん(笑)。
ナショジオとか見てると娯楽機器を追加したせいで電線発火して墜落したこともあるようだしな。
立派な会議室を作っておいて暗幕も無ければプロジェクターも古いまま。
ハタから見ていていらいらする。
とかよけいなことばかり腹を立てていては長生きできないかもしれんな。

こういうのが小回りが利く予算で管理されていればさっさと取り替えるのだがのー。
毎年数千万円くらい。
数千万円といっても構成員が十人として頭割りすりゃ数百万円だしな。
なんとかコントロール可能な金額だよ。
きっと何億とか何十億という予算規模では簡単に身動きとれんのだろうな。

田舎に帰っていつも思うことだが、田舎には非常に豊富な映像資産があるのに土産物屋で売られているのはまんじゅうばかりで、 DVDなどの映像媒体がまるでない。
田舎の風物をDVDにまとめて2000円くらいの値で置いておけば飛ぶように売れると思うのだが。
思うに、情報産業とか映像産業というのは都会に集中しているから、目の前にいくら良い素材があってもそれを収録し編集し流通にのせるということができないのだな。
地方テレビ局もそのくらいの才覚があってもよさそうだが。
プロデューサーとかディレクターとか若い野心あるものは皆東京に出てしまい、現地はせいぜい出張所の事務処理程度なのかも。
コンテンツ制作ってやっぱ人材に依存する労働集約産業なのだよね。
しかし誰かが売り出して儲かり始めると、どこも真似し始めて利益はでないのかもしれんがなー。

人間の脳の活動というのはフローなわけで、
毎日大量に処理すると言ってもいちいち覚えておれない。
それをストックするのが日記なので、
自分で書いた昔の日記を読んでびっくりすることが多いのだが、
後で読んでびっくりするために日記を書いているようなもんで、
それがなければ日記の楽しみはあまりない気がするな。
頭の中からあふれ出すもんをもったいないと思って保存する本能のようなもんかもしれんな。
てか、何のため誰のため日記書いているかわからん人多い。
あなたそれ読み返しておもしろいのかと問いたい気もするが人それぞれなのでどうでもいいか。

実家に帰っていろいろ調べたら爺さんが大量の書き物を残していて(もちろん手書き)、
その他家の権利関係の書類など全部調べ上げ整理し電子化するのに一ヶ月はかかろうということがわかった。
爺さんもモノを書くのが好きだったわけだが、
たいていはたわいないものだが、教員だったのと居合いや剣道をやってたので、
それが昭和一ケタくらいからずっとあるので多少おもしろい。
人に読まれたくて書き残したのだろうから遠慮無く読ませてもらうことにする。

昔のやくざ映画でDVD版で出たものを見ようと思っているのだが、
それで「股旅」「昭和残侠伝」「仁義なき戦い」など見た。

一口にちゃんばらと言ってもいろいろあるので、
普段よく見かけるのは地上波民放の毎週放映されるような、
つまり暴れん坊将軍とか水戸黄門的な、リアリティをわざと欠落させて、
ほんとは人殺しの場面なんだができるだけ人畜無害にし、派手で見栄え良くしたもの(単なる手抜き?)。
ゲームで言えばDQやFFの戦闘描写に近いだろう。
ほんとは殺し合いの場面なのだからもっと細かな描写が可能であり、
服だけ切れたり、皮まで切れたり、筋肉まで切れたり、
骨まで届いたり、骨も切ったり折ったり砕いたりとか、
腹を刺したり太股を裂いたりとか、
いきなり胸を突いて致命傷だとか。
傷の具合や部位によって血の流れ方とか飛び散り方とか量とか違ってくるわけですし。
「昭和残侠伝」でなるほどと思ったのは、
一人に致命傷を負わせるため深く刺したり、
あるいは組み合いでもがいていると動きが止まってしまい、
敵がわらわらとたかってきて結局はやられてしまうとか、
ふすまの裏に隠れていて斬り合っているところを後ろから刺すとか。
あるいは屋外で槍持って待ち伏せして障子越しに中を刺すとか。
やくざの喧嘩にしろ侍の討ち入りにしろこういうフォーメーションというのは、
刀が主な武器だったころは当然常識としてあったことに違いない。
ここまでくるとゲームで言えば counter-strike とかそのへんのレベルだと思う。
そういう殺陣のリアリティをおもしろがって見る人というのは、
もしかするといまどきあまり居ないのか。
「昭和残侠伝」のストーリーはきわめてシンプルで、
あーこういう刹那的で狂犬みたいな人間いるよなーというのみ。
もしかするとシナリオがよくできているとあっさりと感じるものかもしれんし。
シナリオがへたくそだと逆にあれこれ盛りだくさんに思えるがよく考えると無理があったり破綻していたりする。

「股旅」だとさらにやくざ映画の様式美というものを否定し、
できるだけ事実に近い、
ある意味ドキュメンタリーのようなものを残そうとしたのかもしれん。
こんだけ文明のにおいのしないロケ地を日本で探すのはもう無理なのかもしれん。

こういう人の生き死にというか殺し合いのディテイルを追求するのは、
世間ではあまり容認されてない。
CGもいろんなことが発達してきたが、
死に方や傷つき方はわざとリアリティを落としているところがある
(その正反対だと思っている人の方が多いようだが。
残酷だと感じることとリアルかということは違う)。
未だに日本刀で生身の人間を切ったときどのように切れるかとか、
弾が当たったときどのように血が流れ肉が裂けるかという描写は未熟なままで、
それはやはり商業映像の世界でそのような需要がないからかもしれない
(日本ならマグロの、トルコなら羊の解体ショーがみれるかもしれんが、
屠殺映像というのはなにしろ牛だろうが鯨だろうが出回らない)。
なにしろあの Postal2 でさえ(というか Postal2 だからというべきか)、
現実感がわざと希薄なように表現されている。
ただ今時CGの分野では珍しいほど手つかずのまま残されているので、
まー10年くらいのうちにはきっと誰かがやってしまうのだろうが、
それで世の中から倫理的にまずいとか攻撃されたり、
マッドサイエンティスト扱いされては割に合わないかもな。

芸術学部だとわざとアングラな映像を講義で学生に見せたりして、
あるいはわざと延々とノイズを聞かせたりあるいはノイズ的映像を見せたりして、
そういうのが一種の通過儀礼として確立しているように思われる。
思うにかつてレオナルドダビンチは、
彼は画家だったわけだが、
必要に迫られて解剖もやったのだが、
つか当時の画家というかテクニカルイラストレータにとって解剖は必要な素養であり、
レオナルドはそれを他人よりよけいに推し進めたのだが、
これは現代のCG制作事情でもまったく同じなんで、
CGを志す者もある程度までは、
刀で体を突いたり切ったりするとどのように血が流れるかということを知っておく必要があろう。

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