小林秀雄の本居宣長の27回。ここにはほとんど宣長のことは出てこない。
業平と紀貫之のことばかり書いてある。
たぶん小林秀雄は宣長の「あしわけをぶね」を読んでいて、古今集について語りたくなったのだろう。
古今集真名序に出てくる「続万葉集」を貫之が編纂したかどうかはかなりあやしい。
古今集の前の段階、宇多天皇の時代(醍醐天皇が即位するまえ)に編纂されたと思われるからだ。
「新選万葉集」「続万葉集」などは、はっきりとは書かれてないが、
宇多天皇、もしかすると光孝天皇が企画したものだったかもしれない。
小林秀雄は貫之が古今集仮名序を、土佐日記を書く30年ほど前に書いた、と言っているのだが、
私が「古今和歌集の真相」に主張したこととは全然違う。
それは(延喜五年に最初から今のような貫之による仮名序が古今集についていたとする)定説だが、しかし、古今集研究はまずその定説を疑うところから始めなくてはならない。
小林秀雄はそこに踏み込んでない。
「古今集の歌風を代表するのは、六歌仙と言われているひとたちの歌」だと言っているのも、
私の主張とはかなり違う。
六歌仙はどちらかと言えば貫之らよりも数世代前の伝説の人たちであり、
業平は確かに最も重要な古今歌人だが、彼は別格であって古今集の歌風を代表するとは言いがたい。
当代の歌人としては、貫之はともかくとして、紀友則とか源融、伊勢などに焦点を当てるべきである。
そこが少し物足りない。はがゆい気持ちがする。書くなら書くでもう少しつっこんでほしい気がする。
そしてさらに、なぜか歌がまったくでてこない宇多上皇の存在に気づくべきなのだ。
思うに、この小林秀雄の本では、当たり前のことだが、
宣長については非常に詳しく緻密に、網羅的に調べて独自の意見を書いている。
しかし、それ以外に脱線した話題に関しては、随想のように、
割と一般に知られている意見をそのまま紹介している箇所があるようにも見える。
彼に特有のむらっけのようなものを感じる。
小林秀雄という人が、主菜を前にして、それ以外のいろんなサイドメニューをつまみ食いしている感じが見える。
もともとこの本が長期連載の随筆をまとめたものであったから、どうしてもそのような体裁になってしまうのだろう。