聖女懐妊

auブックパスで手塚治虫のマンガを手当たり次第に読んでいるのだが、
概しておもしろくない。
ファンタジーにしてもミステリーにしても設定に無理がある。
ミステリーは強引だし、ファンタジーは理由なく奇跡が起こる。

特に迷信深いのが困る。初期の『メトロポリス』から『火の鳥』、『ブッダ』までずっとそうだ。
輪廻とか聖人の奇跡というものを無批判に信じているように見える。

私は『海のトリトン』は好きだったが、これは今読んでも、ある意味例外的に、おもしろい。
地味な人情話とギリシャ神話とSFがうまく調和していて互いを引き立て殺していない。

『聖女懐妊』という短編がある。
土星の衛星タイタンに人間の男と女性アンドロイドが住んでいる。
アンドロイドは男の子供を産む、という話なんだが、
土星のタイタンという必然性もないし、なぜアンドロイドが子供を産んだのかという説明もない。
作品数が多いから中にはこんな駄作がまじっても仕方ないと思うが、夏目房之介などはこれが良いという。
わけがわからない。
鉄腕アトムや、メトロポリスに出てくるミッキーなんかもそうだが、
ロボットが生きているか死んでいるかというのは、
未来永劫輪廻する超生命体みたいなものの働きによって、決まってくるらしい。
だから簡単に人形が心や命を持ったりするのだ。

手塚治虫のマンガはどれも見た目よりもずっと古い。
たぶん『聖女懐妊』なども1960年代の作品で、
この頃はそもそもマンガ自体が珍しく、アンドロイドが妊娠するというマンガの存在自体が奇異だったのだろう。
今見るとどうしようもなくプロットが変だがそこを批判しても仕方ないのかも知れない。
しかしそういう指摘をすることには多少意味があると思う。

最近のアニメやマンガやゲームは無批判に超能力を使わなくなった。
特殊能力を持っているとしてもAというキャラはaという能力、
Bというキャラはbという能力、というように限定されている。
Aがbという能力を使ったりしない。
Aはaという能力を持つキャラです、という前説があってから話が始まるから、
わかりました、じゃあそういう前提で読みましょう、となる。
パズルにルールがあるようなもので、
或いはロールプレイであって、
ドラクエや鳥山明あたりからは全部そうだ。
手塚治虫や横山光輝や五島勉はそれ以前なので、やたらと説明もなく超能力が出てくる。
たとえば松本清張の推理小説で実は犯人は超能力者でしたとか、夢オチでしたとかだと読者は怒るだろう。
手塚治虫にはしかしそれが多い。
読んでいて脱力する。
今の読者はロールプレイやルールに慣れているから、
ファンタジーや超能力は好きでも、役割やルールをはみ出すと反発するだろうなと思う。

やはりビデオゲームの影響というものは大きいかも知れない。
あれも一応はプログラムなので、
数学と同じで答えは一意に決まる。
手塚治虫に言わせれば「血の通ってない」「魂のない」機械、ということになるのではなかろうか。
ビデオゲームより前の世代が抱いているゲームに対する不合理な嫌悪や悪意もその辺りからくるのかもしれない。

私としては、あれ、これはファンタジーかな、とか、
超能力ものかなと思わせといて、
最後まで読んでみると、
そういう超常的なものは何も使わずに無理なくすっきり、奇想天外な話を完結させてくれる方がずっと好きだ。
私自身ファンタジーはすきじゃないが、そういうひっかけのある話は書いてみたい気がする。
いずれにせよ私はファンタジーやミステリーは自分では絶対書かないと思う。

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