小林秀雄「西行」を読んでいて思うのだが、小林秀雄は、知ってか知らずか、西行の歌の真作、偽作かまわず、西行の歌と言われている歌すべてを対象にして、西行という人を鑑賞しようとしている。その態度はある意味潔いが、当然のことながら西行の実像を濁らせてもいる。小林秀雄ですらそうなのだからそれ以外の人たちは、ほぼ皆、西行の伝説に惑わされている。あまりにも古びて改変されてしまっていて、江戸時代の古い写真や、中世のはげかかったフレスコ画を見ているようなものだ。それは生きている西行からはほど遠い。ごく一部の疑い深い学者しか西行の歌の真偽については考慮してない。
西行の歌はいくつか分類して考えねばならない。出家前に詠んだ歌(もしあれば)、出家直後に詠んだ歌、晩年の歌、そして後世の偽作。
西行は多作だったので、確実に真作であろうと思われる歌を集めるのはそんな難しくない。
詞花和歌集に初出の歌は33歳までに詠んだわけである。
身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
小林秀雄はこの歌を「作者の自意識の偽らぬ形」「こういうパラドックスを歌の唯一の源泉と恃み」などと言っている。つまり禅問答的な形をとった過剰な自意識の発露だといいたい。詞花集には読み人知らずとして載ったわけだが、もしかするとそのころはまだ俗名で、しかも勅撰集に名を出すにはおそろしく身分の低い武士だったのだろう。
「捨てぬ人」とはまだ出家してない西行自身のことであって、自分は在俗のまますでに身を捨てたようなものだが、出家して世を捨てたと言っている坊さんたちは、ちっとも世の中など捨ててないように見える(権力や名誉に執着している)、ということか。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」という強い言い方、おまえら、ほんとに身を捨てたのかよ、そんなんじゃ身を捨てて救われようとは思えんね、みたいな軽蔑の感情を感じるのは私だけだろうか。あなた方は行い澄まして世の中を捨てたなぞとうそぶくが、私のほうこそ、俗世の中にいて、深い絶望を抱いているのだ、と。
あるいは、出家することを身を捨てるというのは間違いで、身を捨てない人の方が、後生に障るから実は身を捨てているのだ、と解釈する人もいる。「身を捨ててこそ 身をもたすけめ」が西行の真作ならば、その解釈であっているかもしれない。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」はその場合お坊さんが檀家の人に説教をしている口調、身を捨てるというのは、ほんとうに身を捨てたことになりますか、いえ、ちがうんです、みたいにも思えてくる。西行がただの坊さんならばこの解釈であっていると思うのだが。西行は、坊さん臭い、説教臭い和歌は詠まなかった人だと、私は考えている。
勅撰集に「詠み人知らず」としか載らない身分の低い私でも出家すれば名前がのこるようになる、と解釈する人もいる。なるほどいろんな解釈があるものだ。
西行の他の歌も参考にしつつ考えると、西行は出家はしたものの普通の人と同じような生き方をした。花をめで、歌を詠み、京都市内に住んだりした。出家した後も悟りは得られず、一生悩み苦しんだ。そのことと関係あるんだろうが、よくはわからん。
まともかく西行は普通の坊さんと違うので、解釈が難しい。「パラドックスを源泉」と言えばそうなのかもしれない。
追記: 以前に似たようなことを書いていた。西行の歌。そうだな。この歌は変に説教臭いし、同時代の人がこれを西行の歌と認めたのならともかく、どうも「西行物語」に詠み人知らずの歌が西行の歌として載ったから、西行の歌ってことになった、と解釈した方が話は簡単だ。少なくとも確実に真作とは言えないだろうな。ま、これ以上この歌だけに関わっても仕方ない気はする。
彼ほどに真に悟りを必要とした人は、その当時にも滅多にはいなかっただろう。それほど深い苦しみを抱いてた。早く楽になりたかったが、なれなかった。そこへいくと慈円なんかは何の悩みも迷いもなく僧侶となり、のほほんと一生を送ったのに違いない。
世の中に未練のあるような歌は他にもある。
はらはらと 落つる涙ぞ あはれなる たまらずものの 悲しかるべし
物思へど かからぬ人も あるものを あはれなりける 身の契かな
捨てたれど かくれてすまぬ 人になれば 猶よにあるに 似たるなりけり
数ならぬ 身をも心の もち顔に うかれてはまた 帰り来にけり
捨てしをりの 心をさらに あらためて みるよの人に 別れはてなん
まどひきて 悟りうべくも なかりつる 心をしるは 心なりけり
など。こういう歌を、小林秀雄は「西行が、こういう馬鹿正直な拙い歌から歩き出したという事は、余程大事なことだと思う」などとからかっている。しかし果たして、「馬鹿正直な拙い歌」なのだろうか。
世の中を 捨てて捨て得ぬ ここちして みやこはなれぬ 我が身なりけり
などは、確かに誰にでも詠めそうな、しかし西行にしか詠めなさそうな歌ではある。普通の僧侶はこんな歌は詠まない。同時代の慈円なんかは絶対詠まない。
心なき 身にも哀は しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕ぐれ
世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出でにせむ
うらうらと 死なむずるなと 思ひとけば 心のやがて さぞとこたふる
そらになる 心は春の かすみにて よにあらじとも おもひたつかな
世のなかを そむきはてぬと いひおかん おもひしるべき 人はなくとも
山里に うき世いとはむ 友もがな 悔しく過ぎし 昔かたらむ
古畑の そはの立つ木に ゐる鳩の 友よぶ声の すごき夕暮
ここらも、未練を断ち切った、というより、未練たらたら、という感じの歌。まあ先の歌と同じ心境を詠んだもの。意味もさほど難しくない。西行には大胆な字余りの歌があって驚く。
世の中を 思へばなべて 散る花の 我が身をさても いづちかもせむ
わきて見む 老木は花も あはれなり 今いくたびか 春に逢ふべき
吉野山 やがて出でじと 思ふ身を 花ちりなばと 人や待つらむ
花みれば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ くるしかりける
春風の はなをちらすと 見るゆめは さめてもむねの さわぐなりけり
春と桜の歌。最後のやつは宣長の
待ちわぶる 桜の花は 思ひ寝の 夢路よりまず 咲きそめにけり
にも似るが、両者それぞれの個性が出てるわな。
いとほしや さらに心の をさなびて 魂ぎれらるる 恋もするかな
こころから 心に物を 思はせて 身をくるしむる 我が身なりけり
あはれあはれ このよはよしや さもあらばあれ 来む世もかくや くるしかるべき
わればかり 物おもふ人や 又もあると もろこしまでも 尋ねてしがな
はるかなる 岩のはざまに 独り居て 人目思はで 物思はばや
恋の歌。
おそらく偽作と思われるのは
何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
うき世をば あらればあるに まかせつつ 心よいたく ものな思ひそ
惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ
その他、聞書集に載る、
うなゐ子が すさみに鳴らす 麦笛の 声におどろく 夏のひるぶし
すさみすさみ 南無ととなへし ちぎりこそ 奈落が底の 苦にかはりけれ
たらちをの ゆくへを我も 知らぬかな 同じ焔に むせぶらめども
などはほぼ間違いなく後世の創作であろう。説教臭く、坊さん臭い。おそらく西行は「たらちを」とか「うなゐご」にはほとんど何の関心もなかったと思う。小林秀雄はそこに後の良寛を見るが、良寛と西行は坊さんで歌人という以外には何の共通点もない人たちだと思う。