治天

どうも「治天」という用語は太平記辺りに由来するらしい。

> 巻 第五 大塔宮熊野落事: 「宮誠に嬉しげに打ち笑はせ給ひて、「則祐が忠は孟施舎が義を守り、平賀が智は陳丞相が謀を得、義光が勇は北宮黝が勢ひを凌げり。此の三傑を以て、我盍ぞ治天下や。」と被仰けるぞ忝き。」

これは、大塔宮護良親王が、赤松則祐、平賀三郎、村上義光の三傑を得て天下を治めるという話。

> 巻 第六 正成天王寺の未来記披見の事:「是れ天の時を与へ、仏神擁護の眸を被回かと覚え候。誠やらん伝へ承れば、上宮太子の当初、百王治天の安危を勘へて、日本一州の未来記を書き置かせ給ひて候なる。」

これは、楠木正成が天皇百代治世の聖徳太子の未来記を天王寺で読むという話。

> 巻 第九 足利殿、篠村に着御、則ち国人馳せ参る事:「此の君御治天の後天下遂ひに不穏、剰さへ百寮忽ちに外都の塵に交はりぬれば、是れ偏へに帝徳の天に背きぬる故なり。と、罪一人に帰して主上殊に歎被思召ければ、」

ここで、「此の宮」「帝徳」「主上」とは隠岐の島に流された後醍醐天皇の代わりに北条高時によって立てられた今上天皇(光厳天皇)のことであり、北条氏らとともに六波羅に立て籠もっており、仮に六波羅が落ちたら関東に下向し鎌倉に都を立ててうんぬんなどということを画策していた。

> 巻 第十二 千種殿並に文観僧正奢侈の事、付たり解脱上人の事:「後鳥羽の院遠国へ被流給はゞ、義時司天下成敗治天を計ひ申さんに、必ず広瀬院第二の宮を可奉即位。」

後鳥羽院が隠岐の島に流されたので、北条義時が天下成敗を司り、治天を計らうのでうんぬん。

> 巻 第十五 園城寺戒壇の事: 主上不思議の御夢想ありけり。無動寺の慶命僧正、一紙の消息を進て云、「「自胎内之昔、至治天之今、忝くも雖奉祈請宝祚長久、三井寺の戒壇院若し被宣下者、可失本懐云云。」」

ここで「主上」「治天」と言っているのは建武の新政中であるので後醍醐天皇のことだろう。

> 巻 第十八 比叡山開闢の事:「ほのかに聞く、比叡山草創の事、時は延暦の末の年に当れり、君は桓武の治天に始まれり。」

単に桓武天皇の治世にと言っているに過ぎない。

> 巻 第四十 中殿御会の事:「惣じて此の君御治天の間、万づ継絶、興廃御坐す叡慮也しかば、諸事の御遊に於いて、不尽云ふ事不御座。」

ここで「此の君」「治天」とは話の流れから言えば光厳天皇(崩御時には光厳院禅定法皇)のことと思われる。

以上、太平記に出てくる「治天」とはすべて(天皇もしくは上皇の)「治世」と読めばすべてすなおに通じる。
「治天下」であれば「天下を治める」とこれまたすなおに読めばよい。
それは特殊な解釈ではなく古代天皇からの普遍的な解釈。
ただし問題は「巻 第十二」の部分である。
承久の乱から南北朝にかけて、いわゆる天皇の家督を誰が相続するのか、神器は誰が持つのか、
宣旨は誰が出すのか、などといったことが混乱の極みに達していたことから、
たとえば承久の乱のときに「後鳥羽院を遠国に配流し、北条義時が天下の成敗を司り、治天を計らい申し上げますので、必ず広瀬院第二の宮(後堀河天皇)を奉じて即位すべきなり」などということになったのであろう。

つまり治天うんぬんという言い回しは(おそらく)太平記初出であり、
天皇家の皇位継承や家督相続に北条氏が介入するようになってから言われ始めたことではないか。
史学関連の資料を見てはいないので推測に過ぎないが、
仮に治天の語源が上記にあって、当時としては明確に用語として確立しておらず、後世の学者が太平記を典拠として使い始めたとすると、
「治天を計らい申し上げる」と言っている主体は天皇や上皇ではなく、
それを画策している北条氏や足利氏だと言うことであり、
「治天」とは実効権力者の「傀儡」と言っているに等しく
時と場合と都合によっては皇族でない者が「治天」に指名されることもある。
天皇や上皇が自分で「今から私が治天です」などと自称したのではないのだろうと思う。

幼主を擁立して上皇が実質的に政治を執り行ったこと(あるいは外戚に頼らず直系親族間で皇位継承の主導権を保ったこと)を「院政」と言うとして、
「治天」とは、皇族もしくは皇族の外戚を傀儡として武士政権が恣意的に権力を行使することを言うのではなかろうか。
その境界はやはり承久の乱だろう。

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