江戸の街道

別の地図を見ると、
小山から日光、宇都宮、水戸の三方向に街道が分岐している。
宇都宮から日光へ至るのが正式な日光街道であり、小山から日光に至るのは脇街道と見なせばよいか。
思うのだが、江戸から小山を経て日光へ至るのが一番自然な道筋だと思う。
いやそれよりも、そもそも江戸から日光へ至るには日光御成道を通るのが一番自然だ。
よくわからん、もっと正確な地図が欲しい。
宇都宮から大田原、鳥山、日光などに至る道が極めて適当に描かれている。
奥州街道を整備するにあたって宇都宮をその主要な中継地点にしたというような事情ではなかろうか。

小山から水戸へ至るのもやはり脇街道だろう。

千住から船橋を経て佐倉まで佐倉街道が延びているが、
これは町人が成田山詣でに利用したために成田まで延びて成田街道などとも呼ばれる。

大山街道というのは複数あって紛らわしいのだが、世田谷を起点として矢倉沢往還を記入してみた。
大山道というのも要するに江戸で大山詣でが流行ったからそういう呼び名が定着したのにすぎない。
ついでに中原街道も記入してみる。

東海道五十三次というが江戸と京都は含まれてない。
品川から大津までだ。
歌川広重の絵は五十五枚ある。
これの影響で、江戸の起点を日本橋としたのではなかろうか。
あまり根拠のあるものとは思えない。
東海道の京都側の終点を三条大橋だなどとはあまり言わないのではないか。
広重は幕末の絵師なのでまあそのへんは適当で。

江戸から行徳、船橋などへは直接街道が延びてない。
みな千住方面に迂回しているが、つまり、江戸初期にここらは低湿地であったためだろう。

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