ふと思ったのだが、

和歌は雄略天皇の頃から今上天皇まで、百代以上にわたって続いている。
人麻呂や貫之や定家などのそのときどきの代表的な歌人は居るが、
千数百年もの時間軸の上での変遷を考えたときには、歴代天皇の御製というものが良い指標になる。
そこには明らかにある一つの連続性があると思う。
もちろん、
歴代天皇のすべての御製をひとつひとつ調べ上げるというのは、
たとえば万葉集だけとか、
あるいは三代集だけとか、
そういうふうにやっていくよりも難しいんではないかなと思う。
とっかかりとしては私の場合は明治天皇御製を学生の頃に学んだということがあって、
それを時間軸上で延長していけば、
時代が下れば昭和天皇の御製となるし、時代をさかのぼれば南北朝や鎌倉、平安時代の御製へと連なる。

そうするとどうしても古語文法の知識も必要になるし単語も知らなくてはならず、
万人向けとは言い難い。
それに比べれば明治の正岡子規らのいわゆる短歌というものは、
せいぜい江戸期の俳句や川柳や都々逸、あるいは小倉百人一首程度の大衆にすでになじんだ素材を活かして、
あるいは西洋詩の作風も導入するなどして、
だれでも真似できるかと錯覚させた。
そうして短歌を愛好する人口を爆発的に増やしたのだろう。
いわば難行に対する易行であって、
仏陀も親鸞もあるいは俵万智もそうやって大衆に受け入れられた。
その時代精神のアイコンが正岡子規だったということだろう。

正岡子規の歌は平均して言えば格別面白くもないが、

> 柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺 (明治28年)

に対して

> 柿食ふも今年かぎりと思ひけり (明治35年)

という句があって、前の句だけであれば単なるのんびりした情景を詠んだものだが、
後の句と合わせると、たちまちに結核で死を覚悟した句となる。
正岡子規にあるのは常にそういう死の運命を担った悲壮感であり、
それが彼の作品に命を与えているのではないか。
もし彼が早死にしなかったらここまで後世に影響を与える歌人たりえたか。
そのへんが中島敦とはかなり事情が違うと思う。

私はひねくれもので暇人なので敢えて難行苦行を選ぶ。
歴代天皇の歌は応仁の乱以後急に入手困難になる。
江戸期の御製というのはどうなっているのか。
まあ、ゆっくり調べてみよう。

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