小林秀雄『本居宣長』第四章
佐佐木信綱によって発見された本居大平による「恩頼図」というものがあり、
これに宣長の学問の系譜が記されている。
大平とは宣長の弟子の稲懸大平という者だったが、宣長の実子・春庭が眼病で失明して以来、
養子となった人。
その「恩頼図」には、
> 西山公、屈景山、契沖、真淵、紫式部、定家、頓阿、孔子、ソライ、タサイ、東カイ、垂加
と書かれている。
西山公とは水戸光圀のことで、契沖に『万葉代匠記』を書かせた。
屈景山とは宣長が京都に医者となるために遊学したときに「よのつねの儒学」を学んだ堀景山のこと。
ソライとは荻生徂徠。
タサイとは太宰春台という徂徠の弟子。
東カイとは伊藤東涯という伊藤仁斎の長男。
垂下とはここでは垂加神道の山崎闇斎。
それで、小林秀雄としては、
伊藤仁斎や荻生徂徠についても、そして徂徠の師・中江藤樹についても、
一応は調べてみないわけにはいかなかったということだろう。
同第十章
> 仁斎は「童子問」の中で、「論語」を「最上至極宇宙第一書」と書いている。(中略)彼は稿を改める毎に、巻頭に「最上至極宇宙第一書」と書き、書いては消し、消しては書き、どうしたものかと迷っている(中略)恐らくこれは、ある人間の立派さを、本当に信ずる事が出来た者だけが知るためらいと思われる。軽信家にも、狂信家にも、軽信や狂信を侮る懐疑家にも亦、縁のない躊(ためら)いであろう。
すごく面白いことを書いているのだが自分のことを言いたいのだろうか。
明らかに宣長とは何の関係もない。
同第十一章
> 宣長はよく愚をいざなひて、天の下に名を得し者也。是実に豪傑といふべく候。親鸞日蓮が、愚者をいざなひて、法を説きひろめし如く、皇朝学は、宣長に興りて、天の下に広ごりにたれど、其学する愚者共の、宣長が廓内に取込られて、その廓を出る事能はず。故ニ、皇朝学は宣長に興りて宣長に廃るものといふべし。可惜可歎候。
真淵の弟子で宣長の後輩、伊勢外宮の神官の出で荒木田久老(ひさおゆ)という人が書いた書簡にある言葉である。
宣長は後世人に誤解され、平田篤胤のような連中に利用され、戦前戦中も国威発揚のために利用され、
戦後は無視された人なわけだが、
その傾向は宣長が存命のときにすでに現れており、
その責任の一部は宣長自身にあると言いたいのである。
> 宣長発足後、段々不評判なるは、京師の人情也(宣長が京都に出発してからだんだんと不評判になったのは京都の人情である)
つまり、「律儀者」で「欺かれ」やすい宣長を京都の連中は自分たちの廓の中に取り込んでしまい、そこから宣長が出られないようして、利用しているというのだ。そのために「皇朝学」というものができたけれども、それがすでに愚民らによって変質してしまい、宣長の学問は誤解されることになろう、と荒木田久老は予言しているのである。おそるべき卓見である。
そして小林秀雄はよくこの文章を佐佐木信綱の著書「和歌史の研究」の中から拾い出してこれたものだと、感心せざるを得ない。
こんなふうに雑記雑談ふうの冗長な文章の中に小林秀雄はときどきこんなすごい着想を混ぜ込むのだ。
小林秀雄は戦時中に読んだ『古事記伝』から得られた直感がなんであったかを確認するために本居宣長という人を調べてみることにした。
宣長は戦前と戦後でほとんど正反対の評価をされた人であった。
小林秀雄にはおそらく、戦前に持ち上げられた宣長でもなく、
戦後に貶められた宣長でもない、
ほんとうの宣長の姿というものを、確かめてみないわけにはいかない気持ちがあったはずだ。
宣長という人に、戦前と戦後の連続性というものを見たかったはずだ。
戦争によって分断された日本の歴史というものに再び連続性を与え、つなぎ合わせたかった。
それはベトナムやドイツの再統一事業と似たような作業だったはずだ。
後世に対して、戦争を引き起こした当事者として、責任を果たすつもりだったはずだ。
それでまず宣長の墓参りをし、宣長の著作を調べ、
宣長に影響を与えたであろう先達たちを一通り調べ、
源氏物語も読み、上田秋成との論争についても考察してみた。
そうしているうちにあっというまに10年以上が経ち、
宣長について書いたそれらの膨大な文章を整理するまもなく、晩年を迎えたということだろう。
同第五十章
> もう、終わりにしたい。結論に達したからではない。私は、宣長論を、彼の遺言書から始めたが、このように書いて来ると、又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ。ここまで読んで貰えた読者には、もう一ぺん、此の、彼の最後の自問自答が、(機会があれば、全文が)、読んで欲しい、その用意はした、とさえ、言いたいように思われる。
なんだかよくわからない文章だが、小林秀雄は、まとめてもいないし、整理もしてないが、いつまでもきりがないので、こんな未完成な形のまま終わらせてくれ、あとは読んで察してくれ、とりあえず必要な準備はしておいた、と言っているように思われるのである。彼の『本居宣長』はそういう意味では、長い長い「素描」なのである。