もっともらしく中身のない文章

もっともらしいことを言う、おせっかいな人が嫌いだった。校長先生の朝礼の訓示、結婚式のスピーチ、乾杯の音頭から始まり、新聞の社説やテレビのニュース解説なんかでみかける言葉で、なんか面白いことでもいうのかと最後まで聞いていても、結局何も言っていない。面白くない。新しいことが何もない。もったいぶってるだけで情報量がゼロ。ただ時間の無駄、脳の空費に終わる。世の中で美文とか名文などと呼ばれているもののほとんどすべてが、改めて読んでみるとそうしたたぐいのものだ。

最近それがAIの書いた文章に似ているなと気づいた。

さらにそういうAIが作ったような動画を多くみるようになった。

テレビのアナウンサーの喋り方が嫌いだ。ああいうものはもう極力聴きたくない。

たぶん、入試に出る小論文なんかもああいう書き方をすれば良い点がもらえるのだろう。facebookやtwitter、noteなどにもよくこうした文章をみかけるようになった。なぜこんな文章が流行るかといえばそういうもっともらしくて中身がない文章に一定の社会的需要があるからなのだ。そういう需要はあるんだろうが、私には不要だ。というか非常に不愉快だ。

村上春樹の文章がそうだというつもりはない。

まじめに読んだこともない。でもおそらく、村上春樹の文章というか文体というかなんというのだろうか。あれは私にとっては何も中身がなく、それゆえ読んでも仕方のないものだ。そしてああいう文章が世間に需要があるということも事実だ。

村上春樹の文章とAIが書く文章には何か共通点があるのじゃないかと思わざるを得ない。

村上春樹があれだけ読まれるということは彼の文章は簡単なのだ。誰でも読め、読み始めるとつい続きを読みたくなるように、読者の関心が途切れないように、工夫して書いてある。そうでなければあれだけたくさんの読者を獲得できるはずがない。

それは彼が英文学の翻訳をもともとやっていた人で、ライターとしての訓練をきちんと積んでいるからだろう。

もしかすると彼の文章は簡単でもそこに盛り込まれた思想は深淵で高尚なものなのかもしれない。読みやすさと意味深さの二重性にもしかしたら彼の書くものの価値があるのかもしれない。しかし、意味があるようにみせかけているだけで実は中身はがらんどうなのかもしれない。どちらであるかを見極めた人はいないのではないか。

例えば彼が、ヤナーチェクのシンフォニエッタがどうしたこうした、などという文章を書いたとしても、別にその音楽に深い意味はないのだろう。ただそこに置かれるのに一番それっぽい文言がヤナーチェクのシンフォニエッタだったに過ぎないのではないか。

彼自身が、ジャズのインプロビゼーションのように途切れなく続くように書いているなどと言っていたと思うが、まさにそれで、つまり、喫茶店に流れているBGMのようなもので、喫茶店でのんびり時間を過ごすときだらだら読むのに向いている読み物なのであり、そういう雰囲気を楽しむ音楽のようなものであって、中身に深い意味はないのだろう。そしてそうした場にふさわしいのは紙の本であり、kindle端末やタブレットではないのだ。

逆に、もし意味のある文章を読もうとすれば、同じ箇所を何度も繰り返し読んだり、前に戻って読んだり、途中を飛ばして読んだり、辞書をひいたり他の論文を参照したりネットで検索したり、頭を休めてまた読み直したり、場合によってはどこか遠くの図書館まで遠征しなくはならず、そういう読書は至る所で寸断されているから音楽には決してならないのだ。私にとっての読書とはそうしたものだが、普通の人にとっての読書とはそうではないらしいのだ。

つまり村上春樹の本質とは、何も考えずにすらすら読める文章、ということにあるのだろうと思う。何も考えずに読むのが読書と言えるのか、とも思うが、もしかするとそれが最上の読書なのかもしれない。次から次へと流れてくる冷やしそうめんをただひたすらつまみあげてめんつゆにつけて食べる。ああおいしい。また食べる。そんな読書。

誰も白紙の本を読むのが好きな人はいない。何かが面白いから読むのだろうが、たぶんそれは、私にとっては面白くはないので、不可知だし、知りたいとも思わない。水のように飲める酒というが、ただの水が好きな酒飲みはいない。なんといったらよいかうまい言い方がみつからないし、みつけたいという気持ちもあまりない。たぶんそれを知ったところで大したことはあるまいと思う。そう、今のAIのように。

そういう環境音楽のような小説を私が読んで余暇を過ごすことはないし、ましてそのような小説を書くことはあり得ない。これから、AIがライターの仕事のほとんどを奪っていく、ということはあるかもしれない。ドラマのシナリオにしても、なんにしても。しかしそういったものは、私がもともと村上春樹に興味がないように、私にとっては無味乾燥な、不要なものであるに違いないと思う。

映画もそうで、映画を音楽のように一かたまりの時間として、大切な余暇をできるだけ有意義に過ごすためのコース料理のようなものとして鑑賞したい人には映画館は向いているだろう。しかし私などは映画をぶつぶつに分断して、途中で止めたり巻き戻したり、場合によってはコマ送りしたり早送りしたりしながら見てしまう。今のユーチューブやブルーレイならそれが簡単にできる。必ずしも画面が大きく没入感がある必要もない。私はむしろ映画からそのシナリオや原作を再構築するために見ており、映像をひとつながりの時間として体験しようとしているわけではないのだ(もちろん大画面大音量で通しでみたい気分の時がないわけではないがそういう時は滅多にない)。

そもそも私は懐石料理やフランス料理のようなコース料理が嫌いだ。単品で注文して、すぐに店を変えてハシゴするのが好きだ。時間を拘束されるのが嫌いで、自分でぶつ切りにするのが好きなのだ。それは私が落ち着きがなく飽きっぽいからだと思っていたが、ちょっと違う気もする。監督によってカメラ位置が完全に決められている映画よりも自分で視点を変えられるゲームの方が好きだ。人に決められるより自分で決められる要素が多いほど没入感が高く楽しめるタイプの人間なのだと思う。

思えばカップラーメンなどという人間の味覚をハッキングした極めて不自然な食物をうまいうまいと食べる人が(私を含めて)こんなにたくさんいるというのは気持ちの悪いことだ。同じように文章もAIによってそのハッキングはさらに加速していくだろう。

AIが書いた文章を面白いとか、ためになるとか、立派でしっかり構成された文章だと思う人は相当数いると思う。村上春樹のファンが非常に多いのと同じく。その理由を考えれば考えるほど恐ろしくなる。そのうち私もAIが書いた文章と人間が書いた文章の見分けがつかなくなるかもしれないと思うとよけいに恐ろしい。

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